五 仲々諦めぬ彼奴
「なんじゃ、また来よったのか。しょうのないやつじゃのう」
鳥居によりかかって煙管を吸っていたマミゾウは、石段を登ってきた人影に目をやると、呆れかえった表情でぷうと煙を吐いた。
あの日から毎日のように、杯を手に挑んできている男のほうは、軽く手を上げ、嬉しそうに笑う。
「ええ、自分でも、諦めが悪いとは思いますけど。……まだ、咲いてますよね」
「まあ、一応は……な」
横目に見上げる山桜の枝には、なおぽつりぽつりと遅咲きの花が残っていた。
と、地面のほうから、
「へえ、こいつが噂の物好きか」
大きな帽子をかぶった金髪の少女が、座りこんで男を見上げていた。
「あれ? あなたは確か、霧雨の……」
「いやあ、今ならタダで酒と団子にありつけるって聞いたからさ」
自称普通の魔法使い、霧雨魔理沙は、そう言ってにかっと笑う。
その手は早くも重箱の中へ伸び、団子がひとつ口の中へと消えた。
「……お前さんの分は、賭けに入っとらんぞ」
「いえ、構いませんよ。俺が負けたら、一緒で」
「おーっ、太っ腹!」
そして今日も、物好きたちの宴が始まる。
「で? で? こいつのどこが気にいったんだ? なあ」
魔理沙は魚の干物をかじりながら、興味津々といった表情で、男を肘でつついて問い詰める。
勝負の盤外から身を乗り出すその顔は、もうだいぶ酒が回ったふうだった。
「うーん……どうしてでしょうね。やっぱりいわゆる、一目惚れ……かも」
注がれたばかりの酒の香りを嗅いで、男がそう答えると、
「お、お~……ひとめぼれ……そ、そうかぁ~」
居心地悪そうに目線を泳がせながら、ぽりぽりと赤くなった頬を掻く。
「なんで、お前さんが照れとるんじゃい」
そんなマミゾウのツッコミを聞き流しつつ、
「うーん……いや、熱い、熱いねー……」
そう言ってうんうんと一人うなずいていたが、不意にぱんと男の背中を叩くと、
「でもなあ、こいつはやめといたほうがいいと思うぜ?
淑女然とはしていても、百戦錬磨の古狸。
たぶらかした男は数知れず、だからな!」
いつもとまったく変わらぬ調子で。
陽気に、どこまでも陽気に、魔理沙は笑う。
しかし。
────ぞわり、と僅かに。
「……利いた風な口をきくでないぞ。
貴様が儂の何を知っとると言うんじゃい、小娘が」
漏れ出た妖気と共に、薄寒く細まった眼光が魔理沙を────見据えることすらなく、切りつけた。
「おっ……と、と……。じゃあ、私はこのへんで。ご馳走さん!」
軽薄ではあるが、決して鈍くはない魔法使いは、跳ねるように箒に飛び乗り、空の彼方へ姿を消した。
二人だけになった境内に、いくらかの時と酒が流れた後。
「ま……やめといたほうがいい、というのは、魔理沙の言う通りじゃがな」
そっぽを向いたまま、マミゾウはそう言った。
男は杯を傾けながら、はは、と小さく笑う。
「霊夢さんにも、同じこと言われましたよ。たぶらかされてるだけだって」
「あやつめ……いや、まあ、よいわ」
軽く眉をひそめながら、ふんと鼻息を吐き。
差し出した手に持った杯に、男の手から酒が注がれる。
「……お前さんが一体、どんな夢を見て儂に言い寄っとるかは知らんがな。きっと、そんな望みどおりにはならん。生憎じゃがな」
「そうですかねえ」
「そうじゃよ。あやつらの言葉じゃないが……たぶらかされて、泣くのがオチじゃろ」
「たぶらかす気なんですか? 俺を」
「やかましい、言葉のあやじゃわ。
分不相応な夢を見れば、残るは失望と後悔だけ、と言っとるんじゃ」
唾を吐きつけるような声が飛ぶ。
けれど、浴びせられた当人の口から出た言葉は、場違いなほどに穏やかだった。
「あとに何を残すかなんて、自分しだいですよ」
「……はあ?」
「たとえ願いが叶わなくても……追いかけていた自分を、不幸だと思わなければ、それは素敵なことじゃないですか?」
「……ふん、なんとも幸せそうな考え方じゃのう」
冷笑と共にくるくると、手の中で杯と酒をもてあそぶ。
「しかし……まあ、確かに、な。何事も、見方によって姿は変わるもの。そのうち何れが本当なのか……それは、あるいは神仏にすら分かりはせん。じゃから……」
────じゃから妖怪は、なお、ここにおる────
そう言いかけた言葉を、杯の中身と一緒に飲みこんでから、男に向かって徳利を差し出す。
そんな言葉を知るはずもなく、男は杯でそれを受け、
「ええ、それなら……だからこそ、自分の望む世界こそが、自分にとっては真実なんだって……俺は、そう思うんですけど」
言って、かすかに笑ってみせた。
「望んで足を踏み出した先が、もしかしたら断崖絶壁だとしても、かの?」
「信じていれば、そのまま空も歩いていける。そういうことも、あると思いませんか?」
「……ふ、そうじゃな。確かに『ここ』では、そういうこともあるんじゃろうなあ」
杯を干す男を見つめつつ、彼女もふと柔らかく笑い────けれどその笑みは、どこか自嘲ぎみだった。
「自分の望む世界、か……」
また酒を注がれながら、独り言のように、マミゾウは言葉を続ける。
「もう儂には、よう分からん。皆の求めに応じて取り繕い、立場に相応しい色を塗り重ねた、今のこの自分と、それを囲む世界が、自ら望んだものなのか、そうでないのか……。
もはや自分だけしか憶えておらぬ、あの日の自分は────本当に存在していたと言えるのか……な」
手の中で揺れる水面をぼんやりと眺め、それに口をつけようとした、その耳に。
「……よくわかんないですけど。
俺にとっては、いま目の前にいるあなたが、本当のあなたですよ」
暖かい風に乗って、その言葉が届き。
はたと上げられた顔の真ん中で、マミゾウの目が、その眼鏡のように丸くなる。
ひらり、と花びらがひとつ、舞い落ちるほどの時間が過ぎて。
「ぷっ……。
……くく、くはは、あははははは!!」
突然に、春の空を仰いで、高らかに笑う。
それを見て、今度は男の目が丸くなる。
「何か、おかしなこと、言いました?」
「ははは、は……。
いや本当に、幸せそうな男じゃと思って、な……」
目じりを軽く指でぬぐいながら、マミゾウは杯に口をつけなおした。
「……はい」
「褒めとらんぞ」
「はい」
男はただそう返し、ただ穏やかに笑っている。
またしばらくの間、静かに酒を勧めあう時が流れ。
「……なあ、お前さん……」
不意にぼそりと、口から言葉がこぼれた。
「んー……? なんです?」
「もしかして、以前、どこかで……」
「……え?」
「いや、なんでもない」
ぼやかして杯を干し、男の杯に酒を注ぐ。
男はそんな彼女の顔を、もうだいぶ酔いのまわった瞳で見つめながら、ややゆっくりと杯を空け、また徳利を傾け返す。
注ぎ、注がれ、行きかう杯。
桜の花が、またひらりと散った。
…
── もう 会えんのか
あたし 束ねに成らねばならんで
── せめて お前の……
教えん どうせそれも 消えて無ぉなる
さらばじゃ
……それと その
あの事ぁ 誰にも
── あの事 ……ああ 粗相の
言うな
── 俺ぁ 気にしとらんが
忘れぇ 忘れとくれや どうか……
…
どこかから流れてくる風に乗って届く、何かの香り。
やや近くで感じる、ほのかな人暖かさ。
ゆっくりと目を開けば、薄く赤みの差した空と、丸眼鏡の顔が目に映る。
「ようやく起きたか。今日もやっぱり、儂の勝ちじゃな」
軽く笑って煙管をふかし、マミゾウは寝転がる男の胸に財布を投げ落とした。
「まだまだ、ぺぇす配分が甘いのう。だいぶ慣れてはきたようじゃが、な」
「……そう、ですね……」
起き上がり、財布をしまってから、しばらく座りこんで宙を見上げていた男は、やがて軽く頭を振ると、ふらつきながら立ち上がる。
「では行くか。ほれ」
そう言って、今日も肩を貸そうとしたマミゾウの腕は、やんわりと押しのけられた。
「いえ……一人で、歩けます、よ……。そんなに、何度も送られる、なんて、情けないです、し……」
「……ふん、そうか。ま、気をつけてな」
頼りない足取りで鳥居をくぐり、石段を下っていく男の背中を、しばらく見送って。
ぴゅうと吹き鳴らした口笛に、小狸が一匹、草むらからひょっこり顔を出す。
「里の入り口まで、見守っておけ。……何か起きたら、また霊夢がうるさいからの」
その言葉に小狸はこくりと頷き、男の後を追って参道へと消えた。
静まりかえった境内には、マミゾウの姿だけが残された。
「なかなか頑張ったが……残念ながら、時間切れじゃな」
すっかり散ってしまった山桜を見上げ、独り笑う。
酒と夕日に赤らんだその顔は、どことなく寂しげに見えた。




