三 花の下に狸の居る事
鳥居のわきで、二人の女が、昼日中から酒を飲んでいる。
一人は着物に丸眼鏡の若い女。もう一人は黒いワンピースの、むしろ少女と呼べる年頃の娘。
茣蓙に座って重箱をつつく、頭上は一面の桜色。
境内のすみに並んでいる、幾本かの山桜が、弥生の空に咲き誇っていた。
「ほれ、次がくるぞい、ぬえ」
拝殿のほうから歩いてくる人影を目にした眼鏡の女が、そう黒服の娘に声をかける。
「わかってるって」
ぬえ、と呼ばれた娘は小声で返事をすると、二人のそばを通り過ぎて鳥居をくぐろうとしている人影──先ほど霊夢にチラシを落とされた女の背中に、得体の知れない何かを投げつけた。
すると、投げつけられた女の姿も、得体の知れない何かへと変わり、しかし当人はそれに気づきもせず、人里へと向かう石段を降りていく。
正体不明の種。
人でも物でも、仕込まれたものの姿を、なにやらよくわからないものへと変え、その正体を包み隠す力。
それが、「ぬえ」と古から呼びならわされる妖怪の能力だった。
「よし、よし。まだしばらくは、バレなさそうじゃのう」
そう言って徳利から酒を注ぐ眼鏡の女も、やはり姿どおりの人間ではない。
幻想郷一円の化け狸を束ねる頭領、二ッ岩マミゾウ。木の葉のチラシを用意したのは、彼女であった。
「へへへ。やっぱり、こういう誑かしこそ、妖怪の本領って気がするよ。妖力の美しさを競うのも、悪くはないけどさ」
にかりと笑って、ぬえは団子をひとつ頬張る。
「あ、これイケるね……人里で作ってるやつじゃないな、『外』のヤツ?」
「うむ、このあいだ里帰りしたついでの土産じゃよ」
マミゾウも同じ団子をつまみ、口に放りこんで顔をほころばせた。
「あー、それにしても……やっぱりこの季節はいいねぇ。
暖かい日差し、爽やかな風、咲き乱れる桜。
平安の都のころから……何も変わらない」
まだ、世界が混沌に満ち、人以外の多くのモノが未知の化物であった時代。
それを知り、今もその力を宿す小さな大妖怪は、目を閉じ、木に背中を預けて、その遠い風景を思い出しているようだった。
「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同……なんて歌もあったがのう」
「それ唐のオッサンの詩? けど、いかにも人間の詠む歌って感じ。私たちから見れば、人間だって大して変わりゃしないのにね」
「いかにも。とはいえ、花の色が少しずつ移ろうように、人も少しずつ変わるがな。じゃから儂らは……今、『ここ』におる」
言って、くいと杯を空ける。
そんな彼女もまた、ぬえと同じ混沌の系譜に連なり、他の多くのケモノがただの動物となった後でも、なお奇怪なモノで在り続けた者の一人であった。
「あー、やなこと言うなぁ。まあ私たちは、まだ結構『外』でも名が通るからマシだけどね。それもいつまでやら……。ハツデンショだっけ? 全部ふっとばしたら、また妖怪の天下が来るかな?」
「はは、やめとけ、やめとけ。いまさら人間に、喧嘩を売ったところで……」
「そぉぉぉおぉぉぉねぇぇぇ。神社に喧嘩を売るのも、なかなかいい度胸だけどねぇぇぇ」
響いた声に、ぬえはぴゃっと奇声を発して飛び上がると、一目散に姿を消した。
一方のマミゾウは、悠然と振り向いて、
「おや、霊夢。どうじゃな、お前さんも一杯」
「おや、じゃないでしょ! やっぱりあんたらか! わけわかんないデマ飛ばさないでよ!」
バシバシと、お祓い棒でマミゾウの頭をはたく。
「あ痛っ! 痛い痛い、わかった、わかったからやめい!
……まったく、ちょっとした冗談じゃろうに、心が狭いのう……」
「冗談だろうがなんだろうが、怪異は怪異! 余計な手間かけさせんな!」
「しかし、おかげで幾らか賽銭も入ったじゃろう?」
「う……そりゃ、まあ……。
でも、際限なく続くのは困るの! 今すぐやめさせなさい!」
「安心せい、もう新しいのは撒いとらん。
じゃが、すでに撒いたのが多分まだまだ……痛っ!」
再三、マミゾウを引っ叩いた霊夢の背後から、
「あのー、代替わりの儀って、どこで……」
「てぇーい!!」
声をかけた若い男が手にしたチラシを、振り向きざまに張り飛ばす。
「うわっ!?」
「そいつはデマ! 代替わりなんかしないから! 宴も祭りも屋台もナシ!」
噛みつくように叫びちらしてから、ずんずんと鳥居のほうへ歩いてゆく。
「おや、どこへ行くんじゃ?」
「まだ来るんでしょ!?
こっちから里へ向かって、道すがら追い返すの!
ついでにデマだってキッパリ宣言してくる!」
お祓い棒をぶんぶん振りながら、霊夢は早足で石段を下りていった。
「やれやれ、相変わらず気短じゃのう……ん?」
杯に口をつけなおしたマミゾウの視線が、すいと横へ流れる。
視線の先には、人影がひとつ。
つい今しがた、霊夢にチラシをはたき落とされた、若い男が。
突っ立ったまま、じっとマミゾウを見ていた。
「……なんじゃ、儂に何か用かの?」
「あ、いや、その……」
不意に、空を流れていた雲が切れ、さあと眩い光が差した。
陽光が二人の姿を輝かせ、くっきりとした影がふたつ、他に誰もいない境内に落ちる。
「……ちょっと、お願いが」
男の声が、静かに響く。
頭上を覆うのは、一面の花の雲。
あたりを包むのは、暖かい春の風。
ざわざわと枝を揺らす、満開の桜の下で────
「────を、教えてくれませんか」
そう唇が動き、その言葉が、マミゾウの耳に届いた。
そして。
「……は? 酔っとるのか? おぬし」
数秒の間のあと、眉をひそめて、マミゾウは聞き返した。
「え? いえ、素面ですけど……」
「ふぅん……」
男を横目で見ながら、くいと杯をあおり、
「……つまり、儂を口説いとるんじゃな? それは」
半眼で、にやりと笑う。
「ええと……まあ、そういうことに、なりますか……ね?」
「そうか、そうか……ふん、なんとも物好きな。
ま、教えてやってもいいが……」
つと余っていた杯を拾い上げ、男に向けて投げ渡す。
「ただで教えるのも、つまらんからの。
ちょっと、儂と勝負をしてみんか?」




