─ 花の名は
「おぅい、何やってんだよ、こんなとこで」
長い石造りの階段を登ってきた中年の男は、その少し先、鳥居の向こうで佇む若い男に、そう声をかけた。
「……ハナ」
呼びかけられた背の高い男は、石畳の道の横、上のほうを見上げたまま、奇妙な発音で一言、独り言のように答える。見慣れぬ異国の風貌は、色黒で、彫りが深い。水色の作業着に、黄色いヘルメット。中年の男も、同じ出で立ちだ。
「花ぁ? ……ああ、こりゃなかなか見事だな。こんなとこにも桜があるのか」
「サクラ……」
草が生い茂った広場のような場所、その傍らに、大きな山桜の木が幾本か並んでいた。いずれも満開に花を開き、晴れた青い空の下、地上の雲のように輝いている。
「キレイナ、ハナ。ワタシノクニ、コンナハナ、ナイ。デモ、ドコカデミタ、ハナ」
「いや、そうじゃなくてな。勝手に変な所に入りこまんでくれよ。どこの誰のもんだか分かんなくなっちゃいるが、いちおう私有地なんだから。面倒ごとが起きちゃかなわん」
二人が立っている道の先には、古い神社の社殿があった。草ぼうぼうの境内は、二人のほかに人影も、人が立ち寄っている気配もなく、ここが既に打ち捨てられて久しいことを匂わせる。ただ、その割には社殿も鳥居も、石畳も崩れた様子はなく、時が止まったまま古びたかのような、奇妙な厳かさを漂わせていた。
「そろそろ休憩時間も終わりだ。ほら、仕事に戻るぞ」
色黒の男は、なおも満開の山桜をぼうっと見上げている。その唇が開き、小さな呟きが漏れる。
「ネガワクバ……ハナノモトニテ……」
「なんだ、お前さん西行なんか知ってるのか」
「……サイギョー?」
「名前は知らんか。この世でいちばん綺麗な景色の中で死にたいっつって、その願い通りに死んだ、幸せな男の話さ」
ざあっと音高く、一陣の春の風が、花咲く梢を揺らしていった。
──── 境界監視記録 六八二四四三号 六刻




