一 過去からの視線
「────よって、焦熱地獄に落とす。以上」
法廷を静かに震わせて、低く重い判決が響き渡った。
言い渡された亡者は、がっくりと頭を垂れながら、地獄の扉へと警吏に曳かれてゆく。
裁判長席に座る声の主は、閻魔の長たる十王のひとり、都市王猊下。
現在は十王全員が閻魔王を名乗っているので、正確には、もと都市王、なのだが、体制が変わって間もないからか、あるいは単に紛らわしいからか、今でもそう呼ばれることが多く、そして任官ずみの閻魔の数がまだ足りないために、こうして自ら裁判長を務められることも、しばしばあった。
「では、次。さて貴様の罪は……」
猊下の手元の大きな鏡に、新たに連れられてきた亡者の生涯、犯した罪が映し出される。あますところなく。
「生前は詐欺師。盗み、妄言、淫行……といったところか。
……四季よ、お前の意見は」
猊下は軽く頭を傾け、裁判長席の隣、陪席の椅子に座っている私に向かって、そう問いかけた。
「はい。……行状そのものは、懲罰刑ほど。しかしその性根、行いの根源にあるところ、嫉妬、強欲……現世への執着はなはだしく、矯正のため、黒縄地獄が相当……かと」
冷静に、慎重に罪を吟味し、適切と考える答えを返す。
私は、ちょうど養成課程の最終段階にあった。
地蔵の身から募集に応じ、数々の教程、試験を踏んで、ひとまず裁判官の資格は得たが、まだ法廷を与えられた裁判長ではない。今は補佐として裁判に参加しつつ、時にはこうして意見を求められ、その見識を測られる。
「うむ、よかろう。では意見のとおり、黒縄地獄とする、以上。では次────」
どうやら、今の意見は合格点を頂けたようだ。ため息というほどでもない吐息を、ゆっくり胸から押し出す。
これまでのところ、大きなミスなく務めてきたと自負してはいる。担当教官でもある猊下から、経験十分と太鼓判を押され、晴れて正式に閻魔を名乗れる日も、そう遠くはない……はずだ。
「……盗みに嘘、酒好に粗暴その他もろもろ、ついには浅慮にて早世、か。よくもまあ、こまごまと罪を重ねたものだが……」
そこまで言って猊下は、ちらりと目の前の新たな亡者に、視線を投げた。
裁判中、ほとんどの亡者は、おぼろげではあるが、生前の姿を取り戻す。
自らの行いを思い出させられるからだろうか。特に罪深き者、未練多きものは。
けれど、この亡者の姿は、また随分とぼんやりしていて、およそ現世への未練などなさそうに見えた。
その生涯は、とても天界に行ける者のそれではないけれど。
「いずれも微罪、執着も薄く、地獄に落とすには及ばず。ただ罪の数だけ、この場にて打ち据えて……なんだ、貴様どこを見ている?」
怪訝な声が、亡者へと飛んだ。
亡者は、猊下を見ていない。
多くの罪人がそうするように、うなだれて床を見ている……わけでもない。
ただじっと、裁判官席を見上げていた。
猊下の視線が、亡者の視線を追い。
二つの視線は……私の顔の上で、一致する。
そして。
────いえ、別に……ただ……────
死人に口なしと言うとおり、亡者は言葉を発することはない。
けれど、私たち冥府の仕事に携わるものならば、その魂から発する気質を捉え、霊の想いを聴くことができる。
そして、その声が心に届いた。
────ただ、美しい方だな、と思いまして────
背筋に、冷たい震えが走った。
なんだ、これは。
この亡者の、この視線。この表情、この言葉。
気のせい? いや、もしや────
「……あの、猊下」
「うん? どうした」
「ちょっと、この者の来歴を、確認したいのですが……宜しいでしょうか」
努めて声と顔を平常に保ち、私はそう求めた。
「……いいだろう。許可する」
はい、と返事をし、手元の四角い鏡、まだ裁判長でない者が使う貸与端末に、指を走らせる。
この者の前世、死、そして裁判記録……あった。
「これを、見てください」
見つけた記録を、猊下の鏡へと転送する。
「ふむ、これは……」
虚言、怠惰、飲酒……微細な罪を重ねたのち、若くして事故死。
「今生と、まったく同じ、か……。生き急ぎ……いや死に急ぎの業があるな」
猊下はそう言って、手にした悔悟棒でとんとんと自分の肩を叩いた。そして、
「……判決を変更しよう。魂の業炉にて、宿業を焼き落とし、その後に転生とする。以上!」
叫喚地獄にある、魂の業炉。通常の責めでは清めがたい業を、高温で熱し、蒸発させる施設。
焼かれる亡者の苦しみも、それに比して大きなものであるはずだが、根深い罪業を抱えたままでは、何度でも同じ罪を繰り返してしまう。それを濯ぐためだから、仕方のないことだ。
……仕方ない、ことなのだ。
亡者は、警吏に曳かれ、地獄の扉へと連れられてゆく。
判決の意味を、理解しているのかどうか。その顔には怯えも、悔恨の色もなく。
ただその視線は、ずっと私の顔を見つめ続けていて。
そして私は、注がれ続ける視線から強く、目をそらし続けていた。
閉ざされた扉の向こうへ、その視線が消えるのと、ほぼ同時に。
「……む? この裁判……お前も参加していたのか」
先ほどの記録を見返していた猊下は、そう私に声をかけた。
「はい。まだ、書記として務めていた頃ですが。それで覚えており……」
「……罪の類似に思い当たったか。なるほど、な」
ふむ、と顎髭をひねってから、都市王猊下は次の亡者を呼ぶ。
そしてまた、罪が読み上げられ、判決がくだり、そのまた次の亡者が現れる。繰り返し、繰り返し、地獄の裁きの風景は、滞りなく流れてゆく。さっきの亡者のことなど、誰も忘れたように。
ひとつ、猊下に言わなかったことがある。
思い出したのは、罪が似ていたから、だけではない。むしろ、それは瑣末なことで。
抱いた既視感、その本当の理由は。
あの時も。
あの亡者は、私を見上げ、声なき声で、こう言っていたのだ。
────いえ、美しい方だな、と思いまして────