[chapter:終章]
[chapter:終章]
転機が訪れたのは、その日の午後だった。
手間のかかる新しい花を水揚げして、せわしなく花の世話と接客とに追われている店内、邪魔にならないようにと、出入り口の近くにシンがぼんやりと空中に浮いて座っていると、店の前で見知らぬ中年の女性たちが井戸端会議をはじめ、シンは聞き流し気味しその会話を聞いている最中にそれは起きた。
「……うちのミーちゃんがね、亀をくわえてきたのよ」
唐突に耳に入ってきた話に、ただじっと浮かんでいたシンは驚いて顔を上げた。
「仕方ないから保護してるんだけど、どこかの飼い亀よねえ……」
このぐらいの大きさ、とジェスチャーする中年女性の方を見る。
そのサイズが昨日見た『ジョセフィーヌ』とほぼ同じサイズであることに、驚きながら立ち上がる。
「貼り紙とかしてみようかしら」
「商店街の掲示板に貼ってもらったら?」
「そうねえ」
そんな会話を聞きながら、慌ててシンは背後を見る。羽柴に早く知らせなければ、と背後を見るが、タイミング悪く羽柴は接客中だった。
舌打ちをしながら声をかけようとすると、「あら、こんな時間」とひとりの女性が言いだした。
「小学校から帰ってくるわ」
「最近、息子ときたら……」
そんな話をしながら自然解散する井戸端会議に、シンはやきもきしながら羽柴の方を見る。
向こうは向こうで、イベントの花の注文で話が長引いていて、中断させられる雰囲気ではない。
その間も、その亀を保護したと言う中年女性は歩いて行ってしまう。
その背中を目で追い、それから羽柴の方を見て、再び中年女性の背中を見る。
離れるのはまずい。
まずいが。
――たかが亀一匹に……。
不用意な自分の声が耳に響く。
今朝の食事もあたたかかった。
自分は何も羽柴に返せていない。
必死に亀を探していた羽柴の姿と、今朝の覇気のない様子を思い出す。
「……ええい」
シンは仕方なく黒いローブを大きくひるがえし、その中年女性の背中を追って歩きだす。
まったくどうしてこんなことに。
この間に羽柴に何かあれば、自分の存在に関わる。
そこまでしつこく存在しつづけたいわけではないが、たかが人間ひとりのために自分の存在をかけるとは、我ながらどうかしている。
――うるさいからだ。
シンはそう結論する。
まためそめそと泣かれてはうっとうしいし、迷惑だ。だからだ。
内心悪態をつきながらしばらく歩く。
商店街を出て、違う店へと買物へ、食材を買って、また井戸端会議をして、ただ過ぎてゆく時間にイライラするが、死神は基本的に担当以外の人間に影響を及ぼせない。
熟知しているだけに、ただ我慢するしかなかった。
やがて、近所の住宅地へ、そして私道の角の青い屋根の家へ到着した。
中年女性が鍵をあける横をすり抜け、ドアをすり抜けながら室内へと踏み込んで行く。
亀。亀はどこに。
シンは壁をすり抜け、無遠慮に家の中を歩く。
「――いた」
外側の縁側。そこに置かれたプラスチックケースの中に亀がいた。
シンに気がついたのか分からないが、カリカリとプラスチックをひっかいて元気そうに動いている。
「……まったく」
距離的には、羽柴の家からそう離れていない。
無事に居場所が確認できたことに、やれやれと肩を落とす。
今度の担当は、恐ろしく世話がかかる。
疲労感すら覚えて、庭へと出る。
プラスチックのケースをのぞき込み、亀が怪我をしていないことを確認しながら、ため息をつく。
さっさと羽柴へ伝えよう、とふと視線を動かすと、縁側の隙間から、その下に動く何かがいることに気がついた。
その縁側の下から、にゃーん、と猫の声が聞こえて、反射的にシンは一歩下がる。
気がつかなかったが、縁側の下にいたらしい。羽柴の家までやってきて、亀を誘拐した猫を見ながら、シンはこれみよがしにため息をつく。
「まったく、お前のせいでとんだ手間ですよ」
シンをじっとみる猫に、見えていますね、と鋭い虹彩不愉快になりながら、シンはもう一歩下がる。
猫が反応して、ぴん、と耳を立てた。
明らかにシンに反応している。
「…………」
シンは無表情になりながら、更にそろりと一歩下がれば、猫が背中をくねらせながら縁側から出てきた。
嫌そうに口もとを歪める。
「……だから」
猫は、嫌いなんだ。
シンは身をひるがえして歩き出す。
背後からはなーぉ、と猫の鳴き声。
逃げたら余計に追いかけてくるのは目に見えていたので、走りたい衝動をこらえながら、早足で花屋への道を辿る。
ちらちらと背後を見れば、やはり猫はついてきていた。
勘弁して下さい、と後ろを見ないようにしながら早足で店の中へと入ってゆく。
そこには客はおらず、羽柴しかいなかった、伝票から顔を上げて、シンの姿を認めると目を丸くする。
「……羽柴、さん……!!」
「あれ、どこ行ってたの?」
「それより!!」
きょとんとする羽柴を無視して、カウンターをすり抜け、その背後に回り込む。
続いて店に入ってきた珍客に、羽柴は目を丸くした。
「え、あ、……あ!! この子!!」
店の中まで入って来てまで、シンを追いかけてきた猫を、羽柴は簡単につかまえて抱き上げた。
猫は暴れることもなく羽柴の腕の中におさまり、大人しくなった。
「亀が保護されている家が分かりました。帰りに迎えにいきましょう」
その言葉に、羽柴は目を丸くすると、
「ほんと!?」
そう笑顔でシンに近づいた。
――……猫を抱き上げたまま。
「ありがとう!!」
にゃーん、と猫も鳴く。
平静を装っていたシンがとうとう悲鳴をあげる。
「それもったまま近づかないで下さい!!」
あ、ごめん。と羽柴が一歩下がり、そして
「……やっぱ猫、嫌いなんだね」
……ずばりと図星を言われて、シンは答えを黙秘した。
終。