聖域
「あの! 神河、巽君!」
遠い記憶。俺の記憶の中ではもっとも古い時代の記憶だ。
たった一年と数か月前のはずなのに、その当時の記憶はあまりはっきりしない。
しかし、この言葉だけは、場面だけはやけに鮮明に残っているのだ。
――私と一緒に、サバイバル部に入ってくれませんか?
目が覚めた。
どうやら気を失っていたのは一瞬だったようで、全身を直ぐに痛みが襲ってきた。
全身がバラバラに砕けたような感覚だ。
どこもかしこも痛い。死にたくなるほどに。
いっそずっと意識を失った方が楽だったかもしれない。
その方が楽に死ねる......。
いや、そんなわけにはいかない。
そういえばあのマンモスはどこにいるのか。
みんなはどうなったのか。
なんとか眼球を動かし、皆の姿を探す。
いた。近くにみんな。
誰も動いていない。
皆、倒れている。
「おい......、みん、な......」
返事は、ない。
「おや、まだ生きているのか」
声が聞こえた。
しかしそれは、今最も聞きたくない人間の声だ。
「しぶとい奴だ。さて、どう殺してやろうか」
声の主は恐らく本部長だ。
こっちが殺してやりたい。今すぐに。
しかし、体は思ったようには動いてくれない。
立ち上がろうとするも、体を少しも動かせない。
いや、動いたのかもしれないが、神経か絶えずに伝えてくる痛みの信号に覆い隠されて、自身の体の状態を認識することすら出来なかった。
かろうじて見え、声を出せる。
それが限界だった。
「餌の時間を邪魔されたわけだし、まず貴様は我が魔獣の餌になってもらおうか」
床が鳴動する。
あぁ、マンモスか。
あいつが俺のもとに近づいてきている。
たぶんこれから俺は、あいつに殺され、凍らされ、死ぬのだ。
自らの身に迫る危機が他人事のように感じられた。
先に死ねば、他の皆の最後を見ずに済む、そんな考えもあったのかもしれない。
床の鳴動が止まる。
俺が目をあげると、すぐ前に、マンモスはいた。
毛皮の中から見える目には、殺意も、怒りも、侮りも何の感情も読み取れない。いや、実際何の感情も抱いていないのだろう。
それは俺達人間が目の前を這う蟻に何の感情も抱かないのと同じだ。
人が蟻を踏み潰すとき、それは大抵気まぐれによるものであって、殺意によるものではない。
気まぐれで殺される。
そんな、無意味な死だ。
俺達の死も、俺達を殺すこのマンモスにとってはただの主人からの命令によるもので、それ以上でもそれ以下でもない。
そんな最後を迎える為に生きてきたのか、俺は。俺達は。
マンモスがゆっくりとこちらに鼻を近づけてくる。
もう魔法を使って抵抗する気も無い。
ただただ虚しい。それだけだ。
「たつみ......くん......」
声が聞こえた。
聞き覚えのある声。
大切な、とても大切な人の声だ。
「ほう、そちらの小娘も目覚めたか。若い人間はいいなぁ。活きがあって、殺しがいがある」
本部長の下卑た笑い声。
大切なものを汚されているようで、耳障りだ。
「ふむ、こっちのガキは後回しにして、まずはそちらの娘から殺すことにしよう。そちらの方が良い絵になりそうだ」
目の前のマンモスが向きを変え、沙耶の方に移動を始める。
そちらの娘から、殺す?
沙耶に向かって言っているのか?
沙耶を、殺す?
「やめろよ、やめろ、やめろやめろやめろやめろ」
本部長は俺と沙耶を交互に見て笑い続ける。
何笑ってんだよ、ふざけるな。
マンモスに魔法をかける。
限界を迎えようとしている体は魔法による消耗に耐えられない。
全身から、特に右目から危険信号が灯る。
だが、構わない。
俺の体なんてもの、どうなってもいい。
しかし、所詮俺が出来るのは対象を遅延させるだけ。
沙耶の死を先送りにはできても、回避することは出来ない。
誰か。
部長は。
サバイバル部で問題を起こしてもいつも庇って、なんとかしてきてくれた。
今回もなんとかしてくれるはず。
しかし、彼女は動かない。
美樹は。
回復魔法を持つ彼女が復帰してくれれば、戦況を変えられるかもしれない。
しかし、動かない。
雄二は。
なんだかんだいっても、やるときはやる男だ。
一定の信頼はしている。絶対直接それを言うことはないが。
今回あのマンモスを倒したら、その時はお前を見直してやる。
しかし、動かない。
だれも動かない。
サバイバル部は壊滅していた。
そこは、俺達が一年以上かけて築きあげた”聖域”であった。
クラスとか、親とか、社会とか、そういったものから弾かれ、居場所を求めた者たちが集まって作り上げた場所。
そこは俺の世界の全てであり、生きる意味であった。
その大切な、ひたすらに大切で、冒されてはならない場所は、たった一体のマンモスにより蹂躙された。
そして、その聖域に俺を迎え入れてくれた少女は、今、目の前で死のうとしている。
「沙耶、沙耶ぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
そこからは声にならない。
悲鳴。
雄たけび。
全力の、ありったけの力で喉を震わせる。
込める意味なんてない。
ただただ原始的な叫び声。
本部長の成金思考に汚染された部屋は、叫び声と笑い声に満たされた狂気の空間に変貌する。
しかし、その空間の中でも、特別なその声は俺の耳に届いた。
「ごめんね」
マンモスに冷気を吹きかけられ、着てきた軍服が霜に覆われている中、沙耶がこちらを向き、寂しそうに微笑みかけてきた。
「ごめんね、巽君。辛いもの、見せることになっちゃって」
沙耶の、死の間際にも他人を気にするような優しい彼女からの、遺言。
「そんなの、気にしてんじゃねぇよ......」
俺をこの部活に誘ってくれて、両親が行方不明になっているのにこうして一緒に活動してくれて、俺の思い付きのせいで親と一緒に暮らしてきた家を離れることになっても文句ひとつ言わないで。
数えきれないほどの恩があるのだ。
そしてあの夜、必ず守ると、そう誓ったのだ。
だから、俺がどうにかするしかない。しなければならない。
マンモスに改めて魔法をかける。
かけ直したことで更に動きが鈍ったような気もするが、このままでは結末の先送りをしているだけだ。
しかし俺は、沙耶のように火を出せるわけでもなければ、部長のように氷をだせるわけでもない。美樹のように人を癒せるわけでも。
雄二のように風を操れるわけでも。
雄二。
そうだ、雄二は風を使って移動速度を早めたり、一撃の威力を高めたりしている。
様々な魔法を操っているようにいて、根源は風という一つの力に基づいている。
奴はそれを応用しているのだ。
応用。
そう、重要なのは応用力。
俺の魔法の根源を理解し、応用すればいい。
こんな時間がずっと続けば、それが始めの願い。
今という一瞬を、永遠にするための魔法。
しかしこれは、最も甘いが、最も危険な願いだ。
魔法の力により、徐々にマンモスの動きは鈍くなる。
過剰な重ね掛け。
体の悲鳴は最高潮に達する。
当たり前だ、それは疲れ切っている馬をむち打ち、強引に走らせているような無茶なやりかたなのだから。
危険信号を灯していた右目は限界を迎えた。
右目がある箇所から爆発して吹き飛んだような衝撃が奔る。
それと同時に、右目から何かが体外に漏れ出し始めた。
なんだこれは。
血か、エネルギー体か。
それは命そのものではないかとも思える。
しかし、それすらも無視して俺はマンモスを見て、魔法をかけ続ける。
もう目が機能しているかもわからない。
俺が見ていると思っているマンモスは、脳が作り出したイメージなのかもしれない。
だが一心に、他のすべてを無視して一心に魔法をかけ続ける。
マンモスの動きは徐々に遅くなっていく。
だんだん、だんだんと。
そして遂にその動きが止まった。
その一瞬。
その一瞬の時の中に、マンモスは切り取られた。
時間とは過去から未来へと続く連続した流れのことだ。
現在とは、その流れに漂う一艘の小舟。
その後方に広がる大海原を過去と呼び、前方に広がる大海原を未来と呼ぶ。
俺達は皆、その小舟に乗って、過去から未来の方向へと進んでいる。
あらゆる未来は現在と言う小舟に通過され、過去へと変わる。
常に進み続ける小舟は、現在という一瞬は変化し続けている。
その摂理に逆らい、現在という一瞬を切り取るということは、その小舟から突き落すようなものだ。
現在という一瞬も、次の瞬間に過去へと変わる。
人間は、いかなる生物も、物質も、今という時に停滞し続けることは許されない。
立ち止まった瞬間、そのものは過去へと取り残される。
そして今、この瞬間、マンモスは停止した。
現在という一瞬に。
小舟から突き落とされたそいつは、その瞬間に切り取られた。
そうなってしまったら、これから訪れるいかなる未来の何処にも、そいつの居場所は存在しない。
そして、次の瞬間が訪れる。
マンモスは消滅した。
跡形もなく。
「たつみ......くん......」
良かった。
ちゃんと守れた。
使命を果たした充実感と共に、俺は眠りについた。




