易牙のスープ
中国の故事をモチーフにした『古事掌編』第一弾
マンションのインターホンを鳴らすと、すぐにドアがあいた。そこには、何年ぶりかに見る彼女の顔があった。
「こんばんは。お待ちしていたわ」
彼女は、にこやかに笑った。だが、笑顔だからといって油断はできない。昔からそうだ。本心を隠すのが上手い人だから。
「こちらこそ、お招きありがとう」
だが、それはこちらもおなじこと。本心を隠すのには自信がある。
「はい、出産おめでとう」
私は、プレゼントの箱を彼女に渡す。幸せいっぱいの彼女に。いや、本当なら、幸せいっぱいであるはずの彼女に、と言うべきか。
「ありがとう。さあ、入って」
彼女に促され、私は部屋に入った。結婚して二年目。子どもも生まれたばかり。そんな家庭なら、鮮やかな絵画が壁にかかり、華やかな色の絨毯やカーテンで彩られた、そんな部屋が普通だろう。
だが、この部屋は違う。落ち着いた、といえば聞こえはいいが、黒と灰色で支配された、地味で陰気な色使いの部屋。そこら中に配置された、埴輪やら土偶やらのレプリカ。うず高く積まれた無機質な古書……。
学生時代のアパートとおなじ。これは、すべて彼女の趣味。こんなところで暮らしているから夫はあんなことになるのだ。もっとも、顔がきれいだというだけで彼女を選んだ彼もばかなのだけれど。
「すてきなお部屋ね」
心にもない社交辞令をいいながら、部屋の中を見回した。
「赤ちゃんは?」
「隣の部屋よ」
彼女は、しっかりと閉められたドアを指差した。
「お顔を見たいわ」
男の子だという。やはり、彼にそっくりなのだろうか? だとしたら、将来、顔はよく、仕事もできるようになるだろう。だが、性格は、いい加減でだらしのないものになるのだろう。
「ごめんなさい。いま、寝ているの」
「静かにすれば大丈夫でしょ?」
「だめよ。明りをつけたら目が覚めるわ」
彼女が許しそうにないので、諦めることにした。別に、そこまでして見たいわけではない。いや、むしろ、見たくはないかもしれない。彼の血と、彼女の血が半分ずつ混ざったものなど。
「さあ、食事にしましょう。冷めないうちに」
「ええ、楽しみにしていたのよ、あなたの料理」
そのことに関しては、嘘はない。彼女の料理が絶品。そのことは、否定しようがない。どんなに悪意があったとしても。
彼女とは、高校の時に出会い、大学を卒業するまでは親友だった。そう、だった。
だが、おなじ男を好きになり、彼が彼女を選んでからはそれっきり。
絶交を宣言したわけでも、けんかをしたわけでもない。だが、どちらともなく話をしなくなり、そのまま自然に付き合いがなくなってしまった。彼女は大学に残り、私は一般企業に勤めた、というのも距離が開いた一因かもしれない。
そんな折に、彼女から手紙が来た。生まれた赤ちゃんの顔を見に遊びに来ないか、という誘いの手紙を。
単なる誘いとは思えない。だって、こんなタイミングなのだから。だが、私は招きに応じることにした。彼女が、どこまで知っているのか、それを見極めるため。私と、彼女の夫の関係をどこまで知っているのか、を。
いまのところ、なにもわからない。とりあえず、ゆっくりと食事をしながら彼女を観察することにした。
「さあ、まずはスープから召し上がれ」
彼女は、鍋のふたを開けた。部屋中に、おいしそうな匂いが立ち込める。
「中華風ね」
独特の香辛料の香りで、見なくともわかった。
「ええ」
彼女は、お椀にスープをついで私に差し出した。褐色で透明な汁の中に、肉の塊が数個ばかり浮いていた。
「いただきます」
私はまずスープをすすった。口の中に、芳醇な香りとコクが広がる。ついで、肉をすくって食べた。
「うん?」
柔らかく、噛む度にうまみがあふれ出る。だが、食べたことのない味。そして食感。
「この肉、なあに?」
「エキガのスープよ」
「エキガ?」
聞いたことがない。珍しい動物だろうか。
「この料理、名づけて『エキガのスープ』」
彼女は指でテーブルに『易牙』と書いた。
「中国の伝説的な料理人でね。現在の中華料理の基礎を築いた、とも言われる天才よ」
「いえ、私はお肉のことを……」
「易牙は、中国の春秋時代。紀元前七世紀に存在したと伝えられているわ」
どうやら、お肉の説明は後回しになりそうだ。彼女の歴史講釈、始まると長いのだ。
「その当時の中国は、王の権威が衰え、各地の諸侯が覇権をめぐって争っていたの。その中で、いまの山東省にあった斉、という国の殿様は、管仲という有能な宰相のおかげで国を強大にして、諸侯の盟主、覇者となったの」
「易牙は、その殿様の料理人だったの?」
「ええ。そうなの。この殿様、斉の桓公というひとは、国が豊かになるにつれ贅沢になってね。とくに食事に贅をこらしたの」
世の中はいつもそうだ。権力を持った男は、美食と色気に走る。
「ありとあらゆる珍味を食べつくし、そしてある日冗談でいったの。『余が食べたことがないのは、ひとの肉だけだ』って。それを聞いた易牙は、自分の子どもを料理して、桓公に食べさせたの」
私は顔をしかめた。いくらなんでも、食事中に、しかも肉を食べている人の前でする話ではない。だが、彼女はかまわず続ける。
「桓公は感激したの。余のために、そこまでしてくれるとは、って。でも、管仲は言ったの『自分の子どもを愛せないような人間が、主君に忠義を尽くすはずはない』って」
そのとおりだろう。だいたい、こういうことをする人間には下心があるのだ。
「でも、管仲の死後、桓公はその諌めを忘れて、易牙を重く用いて、ついには政治にまで関わらせたの。結局、易牙は自分勝手な政治をして、国は乱れ、斉の国力は衰えることになったのよ」
「へえ……」
まあ、興味深い話ではある。時と場合にもよるが。むかしから変わらない。こういう、無神経なところは。だから、愛想をつかされるのだ。夫に。
「でも、私はなんとなくわかるの。易牙の気持ち」
「子どもを犠牲にしてでも、出世したいって?」
そういえば、彼が言っていた。彼女は大学での地位を守るため、子どもを堕胎することさえも考えた、とか。本当に酷い人。これでは、子どもの将来が思いやられる。
「違うわ。仕事人としての気持ちよ」
「仕事人として?」
私は首をかしげた。意味がわからない。
「わからない? おそらく易牙は、最初は別に政治をどうこうしようと考えていたんじゃないと思うの」
そんな私を彼女は冷たい目で見る。むかしからそうだ。頭の回転が悪い私をいつもばかにしていて、こんな目で見下していた。いや、私だけではない。彼にも、いつもこんな目を向けているらしい。
「ただ、仕事人……料理人として純粋に興味があったのよ。人肉を料理することに」
「純粋に?」
「ええ。いままでありとあらゆる肉を、食材を調理して、新しい未知の食材に挑戦したくなった。料理人としては、むしろ当然のことね」
彼女の顔に、不気味な笑みが張り付いた。
そのとき、私の頭に、ある想像が生まれた。
それは、『食べたことのない肉』、『人肉の料理への興味』という言葉を両親として生まれた連想。
「興味? ただ、それだけで自分の子どもを?」
私の声は震えていた。まさか、そんなはずはない。あるはずはない。
「自分の子どもだからいいんじゃない。だって、どこからも文句がでないでしょ」
私の背中に、冷たいものが走った。彼女は、突き詰めようとすればとことんやるタイプだ。彼女自身、興味があったのではないか、人肉の料理に。文献だけの世界では飽き足らず、とうとう実行に走ったのではないか。
そして、彼女はあのことを、夫の不倫のことを知ってしまった。だから、復讐するつもりだった。夫に。
それに、憎らしかった。夫の血をわけた赤ん坊も。
だから。
では、このスープの肉は。
その時、
隣の部屋から、泣き声が聞こえた。
「あら大変」
彼女は隣の部屋に飛んで行き、そして泣きじゃくる赤ん坊を抱いて出てきた。
「目が覚めて、誰もいないから怖かったのね」
「そう、そうなの……」
私は胸をなでおろした。よく考えてみれば、いくら彼女でもそんなことまでするわけはないではないか。ばかばかしい。
「ところで、これなんのお肉?」
「でも、純粋に料理だけを愛していた易牙は、心に変化が生まれたのよ、たぶん」
彼女はこちらの質問に答えようとしない。
「政治に関わるようになり、政治の、そして権力の味を知ってしまったの。国を料理することに快感を覚えてしまったのよ、きっと」
まるで、見てきたように語る彼女。
「だって、私もそうだったから」
私の心の声を聞いたかのように、彼女は言った。
「あなたが?」
「ええ。私も、もともと歴史にしか興味がなかった。彼と付き合ったのも、彼が教授の親戚だったから」
彼、という言葉にアクセントが置かれていたような気がして、思わず心臓が蠢いた。
「でも、そのうちに知ってしまったの。彼の魅力を。そして、恋愛の楽しさをね」
彼女は、じっと見つめながら言った。私を。いや、そうではない。私の前の、お椀を。そして、その中の肉を見つめている。
「罪な人よね。あの人さえいなければ、私は研究一本で、心を乱すこともなかったのに」
まさか。
この肉は。
彼女は、愛しながらも憎んでいた。自分を惑わせた彼のことを。
それが許せず、そして、彼が別な女のものになることも許せなかった。だから、罰を与えたのだ。
では、この肉は……。
そのとき、インターホンが鳴った。
「あら、夫だわ、きっと」
彼女は玄関へと向かった。
なんだ、彼は生きているのか。私は、色々な意味で胸をなでおろした。
安心すると、急に尿意を感じた。しかたない、マナーには反するが。私は立とうとした。
だが、どうしてだろうか、力が入らず、立ち上がることができない。変だ。お酒を飲んだわけでもないのに。
「夫じゃなかったわ。宅配便だった」
小さな箱を抱えて彼女は入ってきた。いつのまにか赤ん坊は部屋に戻したらしい。
「あ……あの……」
なにか変だということを伝えようとした。だが、唇が動かず、言葉にならない。
「これ、海外製の高級品よ」
そんな私を尻目に、彼女は包みを開いた。中から出てきたのは、一本の包丁。
「特別に注文したの。きょうのためにね」
彼女が、私を見た。楽しそうな、心から楽しそうな顔で……。
お帰りなさい、あなた。
ご飯まだでしょ。はい、どうぞ。新作料理よ。
どう、おいしい?
え、なんの肉かって?
とても珍しいお肉よ。
希少な生き物、「泥棒猫」のお肉なの……。