性的表現に関する一考
迷いに迷ったすえに、R15指定にさせていただきます。
セーフだといいなあ。
昔々、それは美しい男性裸体像があったのだが、とある宗教家に、男性のシンボルだけを切り落とされて、イチジクの葉をあてがわれた。のだとか、聞き及ぶ。
そして「むしろ、そっちのほうが萌える!」という人々ができあがった。
いわゆる「人類による人類のためのチラリズム」の発見である。
人間の脳は、そうやって目に見えぬものを想像で補い、あるいは架空に理想を描いてきた。
常々、僕はいう。
「思い込み」こそが、歴史を、英雄をつくるのだ!
知っている人は知っているかもしれないが、僕は占い師だ。
こんなことを言い張る占い師が、当たると評判になることなどないことは目に見えている。
話を戻そう。
要するに、何をエロスとし、何をタナトスとするかは、人間の個性という訳のわからないブラック・ボックスしだいである。それは、経験を通してえていく知識が、粉々に砕かれてぐちゃぐちゃなカオスになった状態で、さらにねっとりと粘性を帯びたものになっているとなおよろしい。
僕らの脳内に、それはある。
エロスを感じるための脳の部分、混濁した本能と理性の狭間のようなものだ。
僕ら日本人の神話の最初にも、周知の通り、それはあらわれている。
国を、島を作るのに、男女の神が矛で混沌とした海をかき回して、島をつくりあげる。
エジプト神話にも、インド神話にも、混沌としているものを混ぜこねる部分はある。
もちろん、さらに周知のとおり、ローマ神話・ギリシャ神話は、最初の神のうまれた描写はこうだ。
天も地も分からぬ「カオス」という空間に、全てを生き生きとさせる最初の神様がうまれる。
もっとも年寄りの神様は、それでもどの神様よりも愛らしい赤子の姿で、名をエロス(クピド)という。
僕ら人間の原始は、混沌として、ものごとの区別がつかない状態から「あれは『天』だ」「これは『地』だ」と、ものごとを分類できるようになったところから始まった。
脳が、区別を知ったのだ。区別を知って、それぞれに名前を与える。
はじめに、ことばありき、光あれ。
生きる希望は、こうやってできあがる。
物事に、それぞれ名がついて、それが目の前になくても言葉にして口に上らせるだけでそれを彷彿とするような、いわば、シニフィアンとシニフィエがうまれていくのだ。
言語学を知らない人には、簡単に概要を理解してほしい。
シニフィアンとは「記号」、相手になにかしらを伝えたいときに使う、文字や音声などの記号だ。
シニフィエとは「内容」、記号を受け取った側がこれのことだな、と頭に閃く、記号の意味だ。
たとえば「犬」と、僕が文字の記号を使うと、読者は頭の中に、ワンワンだかキャンキャンだかびょうびょうだかと鳴く、あるいは鳴かずに尻尾を振ってフリスビーを追いかける、あるいは鎖で首輪を繋がれて、ハアハアと舌を出しているような、ともかく四足動物の「イヌ」が頭に閃くだろう。
このとき、僕が使った「犬」という文字が、シニフィアンで、脳内に浮かぶ「イヌらしき生き物」すなわち記号の意味がシニフィエだ。
実物を目の前にしてあれやこれやを表現しなくてすむのが言葉のもつ希望だ。
犬ごときなら、なんとか実物を用意して見せたっていい。
だが、例えばさっきの「混沌」だとか「カオス」だとかを見せろといわれても、どうやって用意すればいいのかわからない。
苦肉の策として、僕はウンコを用意するかもしれない。
もっとすごいのは「愛」を見せろといわれたら、どうしたらよいだろうか。
こんなものは、文字とか音声とか、記号としてしかこの世の中にはない。
あるとすれば、遺伝子だろうか。二重らせん構造でも見せればいいのだろうか。
それとも、キリスト教に従って、太陽を見せればいいのだろうか。
ほら、光だ、これが神の愛。
僕は、そんな回りくどいことをしないで、アダルト・ビデオの撮影現場にでも連れて行くかもしれない。この世に愛があることを分かるには、それが一番てっとりばやい。
人間の脳は、無駄に記号が入っている。
現実的にはありもしないものすら、記号になっている。
あるいは、記号としてしか存在を許されないものだってたくさんある。
人間は、最初に物事の区別を覚えた日から今日まで、彼らの世界を広げてきた。
宇宙は、人間が宇宙を認識したときに始めて宇宙になった。
宇宙という記号をつけて、初めて人間は自分たちが何者なのかを知ったのだ。
だからこそ、命があることを、原始の人間はことのほかびっくりした。
その命が産まれることを、そして生きていくことを、人間の肥大した脳は考えた。
生物のテーマが、人間のテーマであったのは変わらない。
自分を存続させること。
命という限りのある身を、なんとか永遠に近く永らえさせること。
空腹を満たすための考えごとも、ゆっくり休む場所をこしらえる策も、人間の脳はやってのけた。
矮小で脆弱な人間という動物が、無意味に寿命を延ばしたのはその成果だといえるだろう。
しかし、いくら寿命がのびたって、永遠にはほど遠い。
永遠であるためには、一度、単細胞生物にもどって、遺伝子を遺す必要があった。
しょせん、人間も動物にすぎない。
単細胞な生物であれば、自分自身のまるまる同じ遺伝子をコピーして、自分自身を増殖させていけた。
動物というおきてに縛られて、僕らは、コピーではない方法で繁殖して、少しでも永遠に近いように、と、遺伝子を未来に託していく。
万葉集に、古来の日本の繁殖方法がある。
人妻に 吾も交はらむ わが妻に 人も言問へ
高橋虫麻呂と呼ばれる歌人が筑波山の歌垣という行事を詠んだ歌の部分だ。
訳は、あられもなさすぎるのでつけられない。
歌の話がでた。
古来から脈々と、人は声を使うことを覚えた日から、歌を唄うようになった。
この特殊なシニフィアンは、メロディやリズムやハーモニーといった、いわば、制限時間をつけられた人間が、その時間に挑む姿なのだと思う。
寿命とかいう。もしくは、いつか死ぬことが分かっている。それがいつかは、分からない。
人間の原始は死が身近だ。
時間がたって生き物が死ぬのは、人間も同じで逃れられない。
晩秋に唄い狂う虫たちと同じ、僕らは、この一瞬に、時間の流れのなかに、一瞬も逃せないような音の技術を使い、芸術にしてきた。
そして、それは、ほとんど、恋を歌い、また、愛を歌う。
人間の肥大した記号の脳は、限りない記号の技巧で恋愛を導き出した。
記号にすぎないそれは、人間を溺れさせた。
さまざまな言葉の組み合わせがうまれた。
さまざまに、相手の性的関心を寄せるための言葉がつむがれた。
シニフィアンが組み合わせられると、シニフィエも成長していく。
進化の議論でいえば、進化と退化は同じだ。
遺伝子が必要な器官を肥大させ、必要ない器官は失くしていく。
記号の意味も、元来の意味をはなれていき、かつて猥語でなかったものが18禁用語に塗り替えられたりする。逆も、少ないがある。
こうやって、人間は脳で様々なエロス、性的な関心、生きる希望を見出せるに至っていく。
「表現の自由」という、うさんくさい言葉がある。
法的な構造、憲法の理念からすれば、この「表現の自由」というやつは「思想の自由」を強固にまもるための堤防のひとつだ。
誰に何をいわれても、頭の中は個性的な自由が守られていなければならない、というか、頭の中は規制できない。この頭の中の規制できないものが、個人のものでなくて国家的な財産であるとするからこそ、頭の中身を披露して結構だとする「表現の自由」がある。
先ほどから僕は書いている。頭のなかは記号だらけだ、と。
記号は、誰かに受け取られて、初めて意味をなす。
そしてまた、受け取り手にもシニフィエの自由があるように僕は思う。
記号を見て、欲情するかどうか。
男性裸像のそのままのシンボルよりも、いちじくの葉が萌える、記号解釈の自由だ。
「犬」という言葉に欲情できるひともいなくはない。
ポストだろうと電柱だろうと、それにハスハスできて、18禁用語だととらえることだって、人間の脳は自在にやってのける。
僕は、どんな記号にもエロスを見つけることができるし、またそれを元手に18禁小説を書いている。
おかしな話だ、僕の目からすれば世界はこんなにもエロスにあふれてカオスなのに、妙なところで線をひかれて天と地が分かれるように、18禁の区切りがあるとは。
よく考えてほしい、記号は、実物ではないのだ。
シニフィアンは、実物の代替でしかない。
そのシニフィエにエロスを感じさせるものがあるから猥褻である、とするならば、僕にはいまごろ、世界の全てにモザイクがかかっている。
表現者は、だからいつも規制があるたびに「表現の自由」うんぬんを議論したがるのだ。
恋の歌、愛の歌、これらのシニフィエを精密に理解すれば、永遠を目指す人間の繁殖欲求の表現だ。
恋をしたい気分、愛している雰囲気、これらの記号は、ゆくゆくただの生物的な機能にしか見えないとして余りある記号だ。
あるいは、恋愛が単純に【成功】を目指すのであれば、漢字違いの「交わり」として欲情してしかるべきところがある。
愛は清い、と誰かがいった。
同じ人が、性は下世話だという。
それも人間の「表現の自由」で「思想の自由」だ。
ただ、僕には、人間が歴史の上で作り上げてきた記号の網に、とらわれて、誰かが作った「思い込み」にはまっているのに気づいていない人に見えて、少し哀れに見えたことがある。
それも世界のありかただ。
記号ではない現実にぶち当たるとき、その人はどのように感じるのだろう。
自分自身のチカラで「思い込む」という人間の自由な脳を活用させることができるだろうか。
それならば、僕は、そこに生きる希望を見出すとしよう。
記号のもつ遥か先に、輝かしい現実という喜びを見出そう。
僕の脳はウンコでできている。
そこから産まれるのは、最も幼い姿をした愛らしい年寄りの神様だ。
オチが甘い、とかいうのは筆者の自認するところです……。もっと文章力が欲しいです。むしろ、とても前向きな気持ちでミドリムシになりたいです!
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