65話:断る
雨が降っていた。
静かな雨だった。
空を覆う灰色の雲。
畑へ落ちる水滴。
水路を流れる透明な流れ。
農耕ゴーレムは止まらない。
泥に沈まず。
淡々と動き続ける。
以前の村なら、雨は恐怖だった。
畑が腐る。
道が崩れる。
荷が止まる。
病が出る。
冬を越せない。
それが普通だった。
だが今は違う。
排水路。
石畳。
保管庫。
乾燥室。
保存食。
全てが整っている。
だから雨は災害ではなくなった。
ただの天候になった。
それだけで、人は変わる。
広場。
子供たちは今日も授業を受けていた。
ピーターが黒板代わりの石板へ数字を書く。
「じゃあ次」
「この水路を広げた場合、水量はどうなる?」
子供たちが考える。
間違える。
笑う。
また考える。
誰も怒鳴らない。
その横。
ミネルバが孤児たちへ文字を教えていた。
小さな女の子がゆっくり書く。
自分の名前。
それだけで泣きそうな顔をしていた。
「できた……」
ミネルバが微笑む。
「ええ、上手です」
その時だった。
村入口。
鐘が鳴る。
低く。
短く。
警戒ではない。
来客。
マイクが見張り台から叫ぶ。
「また馬車だ!」
広場の空気が少し変わる。
だが慌てない。
村人たちは既に知っている。
この村が注目されていることを。
雨の中。
黒塗りの大型馬車が三台。
前回より豪華。
護衛も多い。
中央直属。
誰が見ても分かった。
ミレナが目を細める。
「諦めてないわね」
セレスがため息をつく。
「そりゃそうよ」
「この村、もう金鉱脈みたいなものだもの」
馬車が止まる。
扉が開く。
出てきた男は前回より格上だった。
五十代。
銀髪。
無駄のない服。
高級杖。
空気が違う。
権力を持つ人間。
後ろの役人たちが即座に頭を下げる。
男は村を見る。
その目は鋭かった。
観察。
分析。
計算。
一瞬でやる人間の目。
やがて口を開いた。
「私は中央行政院副監督官、ローディス」
「今回の交渉責任者だ」
交渉。
その言葉にセレスが笑う。
「前回は命令だったのに?」
ローディスは眉一つ動かさない。
「今回は話をしに来た」
グロマールが静かに前へ出た。
ローディスは彼を見る。
少しだけ目が変わる。
この男か。
そういう目だった。
噂。
報告。
異常な数字。
教育。
生産。
循環。
その中心。
だが。
見た目は普通。
威圧感もない。
豪華な服もない。
だから余計に不気味だった。
ローディスが言う。
「率直に言おう」
「中央は君を必要としている」
空気が静かになる。
雨音だけが響く。
ローディスは続けた。
「村単位ではない」
「領単位だ」
「いや、国単位と言ってもいい」
役人たちが資料を開く。
数字。
人口。
食料。
生産。
「君の技術は異常だ」
「農業革命が起きている」
「紡織生産量は既に中規模都市級」
「病死率は中央の半分以下」
「難民受け入れ率も異常」
「しかも崩壊しない」
「あり得ない」
ローディスの声は低かった。
だが本気だった。
「君が中央へ来れば、この国は変わる」
「研究施設」
「資金」
「権限」
「人材」
「全て与える」
村人たちが黙る。
それは破格だった。
普通なら断れない。
だが。
グロマールは無言。
ローディスは続ける。
「望むなら爵位も与えよう」
「辺境村などではない」
「もっと大きなことができる」
その瞬間。
ミレナの指先が少しだけ震えた。
セレスは気づく。
ミレナ自身は気づいていない。
怖いのだ。
グロマールがいなくなる未来が。
彼女は強くなった。
村も変わった。
でも。
中心はグロマールだった。
彼がいなくなれば。
その考えが胸を締め付ける。
だがミレナは何も言わない。
言えない。
自分の感情を押し殺す癖は、まだ消えていなかった。
ローディスが言う。
「どうだ」
「悪い話ではないはずだ」
沈黙。
雨音。
遠くでゴーレムが動く音。
やがて。
グロマールが口を開く。
「断る」
短かった。
あまりにも短い。
役人たちが固まる。
ローディスも僅かに目を細めた。
「理由を聞こう」
グロマールは静かだった。
「中央は人を使い潰す」
空気が止まる。
誰も反論できない。
彼は続ける。
「才能ある奴だけ拾う」
「使えない奴は捨てる」
「だから国が弱る」
役人たちの顔色が変わる。
だが。
誰も即座に否定できない。
事実だから。
グロマールは村を見る。
農民。
子供。
老人。
女。
皆が動いている。
「ここは違う」
「弱い奴を切らない」
「育てる」
「だから回る」
ローディスが低く言う。
「理想論だ」
グロマールは首を横に振る。
「現実だ」
その言葉に重みがあった。
実際に結果が出ている。
数字が証明している。
だから強い。
ローディスが少し黙る。
そして聞く。
「君は国家を変える気はないのか」
グロマールは即答した。
「ない」
役人たちがざわつく。
「俺は支配したいわけじゃない」
「循環を作りたいだけだ」
雨が強くなる。
水滴が地面を叩く。
ローディスは初めて少し笑った。
苦笑に近かった。
「……本当に変な男だ」
普通なら権力を欲しがる。
地位。
金。
名誉。
だが目の前の男には、それが無い。
だから怖い。
欲で動かない人間は読めない。
その時。
後ろで小さな子供が転ぶ。
泥だらけ。
泣きそうになる。
すると近くの老人が自然に抱き起こした。
別の女が布を持ってくる。
子供が笑う。
誰も命令していない。
自然だった。
ローディスはその光景を見る。
広場。
学校。
工房。
水路。
ゴーレム。
人。
全部が繋がっている。
理解してしまう。
この村は、グロマール一人ではない。
村そのものが変質している。
だから。
もう止められない。
ローディスが静かに息を吐く。
「中央は諦めんぞ」
グロマールは頷く。
「知ってる」
「それでも断る」
ミレナがそこで前へ出た。
雨に濡れながら。
彼女はローディスを見る。
以前なら怯えていた。
でも今は違う。
「この村は、誰かの所有物じゃない」
「ここにいる全員で作った」
「だから渡さない」
その声は静かだった。
だが強かった。
ローディスは彼女を見る。
次に村人たちを見る。
誰一人、視線を逸らさない。
恐怖が無い。
従属が無い。
それがどれだけ異常か、彼には分かる。
長い沈黙。
やがて。
ローディスは杖を鳴らした。
「帰るぞ」
役人たちが驚く。
「ですが――」
「今はいい」
ローディスは村を見た。
「無理に触れば壊れる」
「そして今、この国に必要なのは壊すことではない」
彼は最後にグロマールを見る。
「いずれまた来る」
「その時、君の答えが変わっていなければいいがな」
グロマールは何も答えなかった。
馬車が去っていく。
雨の中。
静かに。
やがて見えなくなる。
マイクが鼻を鳴らした。
「また面倒なの来たな」
ジミーが苦笑する。
「でも前よりマシだ」
「前回は命令だった」
セレスがミレナを見る。
ミレナはまだグロマールを見ていた。
安心した顔。
それを見てセレスが笑う。
「良かったわね」
ミレナが顔を赤くする。
「な、何がよ」
「別に」
でも。
その声は少しだけ柔らかかった。
グロマールは雨空を見る。
この世界はまだ変わらない。
貧困。
病。
支配。
搾取。
全部残っている。
だから。
まだ循環を止めるわけにはいかなかった。




