もう戻らない店の記憶を、街角で思い出す
昔よく見かけた看板が、街から消えると聞きました。
ただそれだけのことなのに、胸の奥が少しざわついた――そんな小さな記憶の話です。
ロッテリアの看板が消えるらしい。
そう聞いたとき、私は思った以上に
寂しさを感じている自分に気づいた。
最近はマクドナルドですら一年以上食べていない。
ロッテリアとなると、最後に入ったのがいつだったか
思い出せないほどだ。
それでも、街角で赤と白のロッテリアの看板を見ると
なぜか安心していた。
そこには、もう行かなくなった自分の時間まで
一緒に残っている気がした。
その“そこにある感じ”が、今年を境に失われるという。
ゼンショーホールディングスが国内のロッテリア全店を閉店し
順次「ゼッテリア」に転換していく。
半世紀以上続いた屋号が街から消える
外食チェーンの話に過ぎないはずなのに
胸の奥が少しざわついた。
ゼッテリアという名前は、「絶品チーズバーガー」の
“絶品(Zeppin)”と「カフェテリア」を組み合わせた
造語だという。
ロッテリアの延長線上にありながら
どこか新しい存在。
理屈としては、なるほどと思う。
けれど同時に、「ロッテリアじゃなくなるんやな」という実感も
じわりと残る。
もう戻れない店の記憶
三十年ほど前、私はロッテリアのリブサンドにはまっていた。
今思えば、味がどうこうというより、
「あの店で食べるリブサンド」が好きだったのだと思う。
週末になると、決まって同じ店に通った。
カウンターの位置も、窓から見える景色も
なんとなく覚えている。
だが、その店はもうない。
「また行こう」と思えた最後の日が
いつだったのかも分からない。
店がなくなった経緯も、正確には知らない。
看板が変わったのか、建物ごとなくなったのか
それすら曖昧だ。
ただ、
「あそこに行けば、リブサンドを食べていた」
という感覚だけが、今も確かに残っている。
ロッテリアは、いつでも行く店ではなかった。
けれど、そこにあったら、入ってしまう店だった。
だからこそ、「もうない」と気づいたとき、
取り戻せないものが一つ増えたような気がしたのだと思う。
ハンバーガーと、疎遠になっていく自分
若い頃の私は、味よりも便利さでハンバーガーを選んでいた。
腹を満たすならマクドナルド。
気分を変えたいときはロッテリアのエビバーガー。
少し背伸びをするなら、野菜の多いモスバーガー。
そんなふうに、自然と使い分けていた。
けれど四十代を過ぎ、五十代が見えてくると、
食べる量も、頻度も、少しずつ変わった。
胃がもたれるというより、
「そこまでして食べたいと思わなくなった」
それに近い感覚だ。
それでも、赤と白の看板を見ると、安心していた。
行かなくなっても、そこにあることが大事だった。
看板が変わるだけで、街は違って見える
ゼッテリアは、ロッテリアがあった場所に、そのまま入るらしい。
同じ建物、同じ場所、違う看板。
赤と白から、木目調へ。
ファストフードというより、軽い喫茶店のような
佇まいになるという。
それだけの話なのに、
街の空気は、意外なほど変わってしまう。
思えば街は、何度もこうして塗り替えられてきた。
名前が変わり、看板が変わり、人は記憶を上書きする。
ロッテリアも、私の中で、
そういう存在になっていくのだろう。
変わるものと、変わらないもの
業界は変わる。
ブランドも、戦略も、看板も変わる。
それでも、ハンバーガーそのものは、昔からあまり変わらない。
パンに肉を挟み、ソースをかけ、手で持って食べる。
子どもも大人も、同じように楽しめる食べ物だ。
私が歳をとり、通わなくなったとしても、
あの手軽さと、ちょっとした楽しさは、きっと残り続ける。
ロッテリアの看板は消える。
その代わりに、ゼッテリアの下で、また誰かの
思い出が生まれるのだろう。
そしていつか、帰り道にふらりと立ち寄った店で、
リブサンドではない何かを食べながら
「ロッテリアとは違うけど、これはこれで、悪くないな」
そう思えたなら、きっとそれでいい。
それでも私は、もう戻らない赤と白の看板を
しばらく心の中で探してしまう気がしている。
読んでくださり、ありがとうございました。
街の風景は少しずつ変わっていきますが、思い出のほうは案外そのまま残っていたりします。
看板ひとつで心が揺れるのは、そこに自分の時間が重なっていたからなのかもしれません。
そんな小さな揺れを、そっと書き留めてみました。




