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第5話「偽りの母娘、あるいは……」

アリエスの街を囲む高い城壁が見えてくる頃には、夜の帳がうっすらと白み始め、東の空が優しい瑠璃色に染まりかけていた。


「リア様、もうすぐ街の門です。……やはり、その泥まみれの小僧は私が担ぎます。主様の華奢な背中を、これ以上下等生物の重みと汚れで煩わせるわけには——」

「もう、ずっとそればっかりね、セラ。平気よ、ちっとも重くないもの」


私の背中で、規則正しい寝息を立てる小さな命。

ティムの体は、私から見れば羽毛のように軽く、肉体的な疲労など微塵も感じない。しかし、その小さな体から伝わってくる確かな熱と、ドクン、ドクンという心臓の鼓動は、私の胸の奥に不思議な重力をもたらしていた。


私が世界を創った時、命のシステムとして組み込んだただの「生体反応」。それが、今はひどく尊いものに思える。

街の門番は、私が背負うティムの姿を見るなり目を丸くし、慌てて門を開け放った。


石畳の道を歩き、「陽だまり亭」の前に辿り着く。

食堂の窓からは、夜が明けてもなお、赤々とした暖炉の光が漏れ出していた。扉の前に立つと、中から荒い足音が近づいてくるのがわかった。


バンッ!!


勢いよく扉が開かれ、そこに立っていたのは、目を真っ赤に腫らし、髪を振り乱したマーサだった。彼女は私たちの姿——正確には、私が背負っている小さな影を視界に捉えた瞬間、その場に膝から崩れ落ちた。


「ティム……っ!! ああ、ティム……!!」


マーサは這うようにして私にすがりつき、背中から息子を抱き取った。


「んん……かあ、ちゃん……?」


目を覚ましたティムが、寝ぼけ眼でマーサの顔を見上げる。その瞬間、マーサは獣のように声を上げて泣き崩れた。


「このっ、馬鹿ッ!! どれだけ心配したと思ってるんだい! アタシが、アタシがどんな思いで……っ!!」

「ご、ごめんなさい、母ちゃん……息が、くるしいよぉ」


力任せに抱きしめられ、ティムがジタバタと暴れる。しかしマーサは決してその腕を緩めようとはしなかった。泥だらけの息子の頬に何度も何度も自分の頬を擦り付け、大粒の涙をポロポロとこぼしている。


その光景を、私はただ静かに見つめていた。

怒り、安堵、そして深い慈愛。

言葉では表現しきれない、無様で、泥臭くて、けれど何よりも美しい感情の奔流。

子が親を呼ぶ声。親が子を抱きしめる腕の力。

私の世界には存在しなかった、絶対的な「繋がり」。


(ああ……)


胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛い。

熱いものが込み上げてきて、視界が滲む。私は全知全能の創世神であり、この世界で最も尊き存在のはずなのに。今この瞬間だけは、目の前で抱き合う人間の親子のことが、狂おしいほどに羨ましかった。

私も、あんな風に誰かに名前を呼ばれたい。あんな風に、無防備に泣きながら抱きしめられたい。


「あんたたち……」


ふいに、マーサが顔を上げた。

涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、彼女は立ち上がり、私とセラに向かって深く、深く頭を下げた。


「ありがとう……。本当に、なんてお礼を言ったらいいか……。この子を、アタシの命を救ってくれて、本当にありがとう……ッ!」

「いいのよ、マーサさん。約束通り、連れて帰ってきただけだから」

「……当たり前です。我が主の行く手を阻むような害虫は、私が一匹残らず駆除いたしましたから。貴女はただ、リア様の慈悲に感謝することですね」


腕を組み、ツンとそっぽを向きながらも、どこか誇らしげに胸を張るセラ。


その時だった。


「——っ!? な、何を……ッ!?」


セラの驚愕の悲鳴が上がった。

マーサが、血相を変えて剣の柄に手をかけようとしたセラごと、私を力いっぱいその太い腕で抱きしめたのだ。


「えっ……」

「不敬な……ッ! き、気安く我が主に触れるな! いや私にも触れるな! 離れ——っ、この、離れろ……っ!」


天界最強の武神が、ただの中年女性のハグから抜け出せずにジタバタと暴れている。

力ずくで振り払うことなど、セラにとっては息をするより簡単なはずだ。しかし、マーサから発せられる「純粋な感謝と愛情」の前に、セラの自動防衛本能は完全に沈黙し、剣を抜く理由を見失っていた。


「ありがとう、無茶ばかりする馬鹿な娘たち。……怪我がなくて、本当に、本当によかった」


マーサの腕は、汗と、涙と、そしてあの温かいシチューと同じ、優しい匂いがした。

ポンポン、と。

大きく、少し荒れた温かい手が、私の銀色の髪を、そして暴れるセラの亜麻色の髪を、平等に撫でていく。


「……っ」


その不器用な手のひらの感触に、私はとうとう堪えきれず、ポロリと一粒の涙をこぼしてしまった。そして、マーサの広い背中に、そっと自分の小さな腕を回した。


(お母さん……)


声に出すことは許されない。けれど、その温もりを少しでも長く記憶に留めたくて、私は目を閉じて彼女の体温を感じていた。


隣で、「ああっ、主様が下等生物の腕の中で泣いておられる……! い、いけません、このような破廉恥な……っ!」と半泣きで混乱しているセラの声が、少しだけ遠くに聞こえた。



ーーー


数時間後。

すっかり日の高くなったアリエスの街の門前に、私たちの姿はあった。


「本当に、もう行っちまうのかい? ずっとウチにいてもいいんだよ」

「ふふっ、ありがとうマーサさん。でも、私たちにはまだ行かなくちゃいけない場所がたくさんあるから」


これ以上長居をして、「創世の欠片」の気配や神の権能の残滓でこの街に影響を与えるわけにはいかない。

見送りに来てくれたマーサとティムに手を振り、私たちは再び街道へと足を踏み出した。


背中に大剣を背負ったセラが、私の斜め後ろを歩きながら、しきりに私の顔色を窺っている。


「……リア様。その、よろしかったのでしょうか。あの者たちに、正体を明かさぬままで」

「ええ。私たちはただの旅人。それでいいのよ」


私が青く澄み渡る空を見上げながら微笑むと、セラは何かを決意したように、グッと拳を握りしめた。

そして、おずおずと私の隣に並ぶと、震える手をゆっくりと持ち上げ——。

 

ポン、ポン。


極度に緊張し、ぎこちないロボットのような動きで、私の頭を二回、軽く叩いた。


「……セラ? 何してるの?」

「そ、そのっ……!!」


セラは顔を林檎のように真っ赤にして、バッと飛び退いた。


「マーサ殿の……真似を! リア様が、あのように撫でられて嬉しそうに、その、涙を流しておられましたので……っ! 私が代わりに、リア様の心を埋める存在になれればと……ッ!!」

「プッ……あははははっ!」


必死に弁解するセラの姿が可笑しくて、私はたまらず吹き出してしまった。天界最強の武神が、どうすれば私を喜ばせられるか真剣に悩み、導き出した答えが「不器用な頭ポンポン」だなんて。


「……笑わないでください、リア様。私は至って真剣に——」

「ありがとう、セラ。でも、ちょっと違うかな」


私は笑い涙を拭いながら、真っ赤になって俯くセラの手に、自分の手を重ねた。


「貴方は私のお母さんじゃなくて、大切な『家族』で、護衛でしょ?」

「か、家族……! 私が、主様の……っ!」


セラは今度こそ感極まったのか、両手で顔を覆って空を見上げ、「おお、神よ……! いや目の前にいらっしゃいますが……何たる光栄……ッ!」とぶつぶつと祈り始めてしまった。


果てしない旅路の先で、いつか私にも、あの温もりの本当の意味がわかる日が来るのだろうか。

「欠片」を回収し、世界を救う旅。それは同時に、創世神である私が「心」を獲得していくための旅でもある。


「さあ、行くわよ、セラ。次の街には、どんな美味しいものが待ってるかしらね」

「御意に、リア様! この命に代えても、主様に極上の美食と安らぎをお約束いたします!!」



高く澄んだ空の下。



地に堕ちた世間知らずの女神と、過保護すぎる断罪の剣の足音が、どこまでも続く街道に心地よく響き渡っていった。

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