第4話「第一の欠片と、絶対者の片鱗」
廃教会の重い木の扉を押し開けると、長年放置された埃の匂いとともに、鼻をつくような酷い腐臭が私たちの全身にまとわりついてきた。
「……酷い有様ね」
月明かりだけが頼りの薄暗い堂内。
かつて神——つまり私を讃えるために作られたであろう色鮮やかなステンドグラスは無残に砕け散り、祈りを捧げるための長椅子は飴細工のようにへし折られ、瓦礫の山と化している。
そして、その瓦礫の奥、ひときわ高く作られた祭壇の上に、それは陣取っていた。
「ギィィ……グルルルゥ……」
巨大な蝙蝠の翼に、筋骨隆々とした獣の胴体。頭部は歪な山羊のようでありながら、その口には鋭い牙がびっしりと並んでいる。
醜悪なキメラとでも呼ぶべきその魔物の胸の中心には、青白く、不自然なほどに清らかな光を放つ石——『創世の欠片』が深々と埋まっていた。
欠片が放つ強大なエネルギーに当てられ、ただの野獣がこれほどまでに凶悪な魔物へと変異してしまったのだろう。
そして魔物の太い腕の中には、気を失ってぐったりとしている小さな影——マーサの息子、ティムの姿があった。
「ティム君!」
「グルルルァアアアアッ!!」
私の声に反応した魔物が、耳をつんざくような咆哮を上げた。
ビリビリと空気が震え、堂内の瓦礫がその音圧だけでバラバラと崩れ落ちる。並の人間であれば、この咆哮を聞いただけで恐怖のあまり心臓が止まってしまうかもしれない。
しかし、私の隣に立つセラの表情は、文字通り「無」であった。
絶対零度の視線で魔物を見据え、彼女は氷のように冷たい声で呟いた。
「——五月蝿い。我が主の鼓膜を、そのような穢れた音波で震わせるな。万死に値する」
次の瞬間、セラの姿が私の横から掻き消えた。
「え?」と私が瞬きをするよりも早く。
空間そのものを削り取るような凄まじい風圧が吹き荒れ、祭壇の上に銀色の閃光が十文字に走った。
「ギャァアアアアアアッ!?」
魔物が悲鳴を上げる間もなく、ティムを握りしめていた太い右腕が、根本から音もなく切断されていた。天界最強の武神であるセラの剣速は、もはや物理法則を無視している。
切断された腕からティムの小さな体が滑り落ち、真っ逆さまに石の床へと落下していく。
「ティム君!」
私は咄嗟に駆け出し、両腕を伸ばしてその小さな体を受け止めた。
トンッ、と。
まるで羽毛を受け止めたかのように、衝撃は一切なかった。私にとっては意識するまでもない、ただの動作の一つに過ぎない。
だが、獲物を奪われ、片腕を失った魔物は激昂した。
「ゴァアアアアアッ!!」
残った左腕を大きく振り上げ、ティムを抱きかかえて無防備に立っている私に向かって、巨大な爪を全力で振り下ろしてきたのだ。その一撃は、分厚い石の床を容易く粉砕するほどの威力を持っていた。
「——ッ!! 貴様ァッ!!」
祭壇の上にいたセラが、血相を変えて叫んだ。
愛する主に向けられた致命の一撃。本来なら、セラが間に合ってそれを弾き飛ばす手はずだったのだろう。だが、怒りに任せた魔物の動きは、ほんのわずかにセラの想定を上回る速度だった。
巨大な爪が、私の頭上に迫る。
セラが絶望に目を見開く中、私はティムを抱きしめたまま、ただ静かに、鬱陶しそうにため息をついた。
「……少し、埃が舞うわね」
ガァァンッッ!!!!
凄まじい衝突音が、廃教会の中に響き渡った。
しかし、それは私の体が引き裂かれた音ではない。
魔物の巨大な爪は、私の頭上十センチの空間で、目に見えない『何か』に激突し、完全に停止していたのだ。
「ギ……?」
魔物が困惑の声を漏らす。
物理的な結界を張ったわけではない。魔法を使ったわけでもない。
ただ、創世神である私が『そこにある』という絶対的な事実。その存在の格そのものが、下等な魔物の攻撃などという事象の干渉を、世界の理として許絶しただけのこと。海に向かって小石を投げても、海が傷つくことがないのと同じだ。
私が視線を向けるだけで、魔物の振り下ろした左腕は、まるで目に見えない巨大な万力で押し潰されたように、ボキボキと嫌な音を立てて飴細工のようにねじ曲がり、砕け散った。
「……っ!」
その光景を空中で見ていたセラが、ハッと息を呑むのがわかった。
彼女は天界最強の剣士であり、星を両断するほどの破壊力を持っている。
しかし、私のこの「ただ存在しているだけで世界が平伏す」という底なしの権能の前では、自らの武力がいかに取るに足らないものであるかを、彼女は誰よりも理解しているのだ。
だからこそ、セラは震える声で吠えた。
自らの不甲斐なさを恥じ、圧倒的な主への絶対的な忠誠を示すために。
「よくも……よくも、我が主に、その汚らわしい爪を向けたなッ!! その罪、魂の消滅をもってしても購いきれんぞッ!!」
セラの怒気とともに、彼女の大剣が眩い光を放った。
「——『神罰』」
ただの一振り。それだけで、魔物の巨体は無数の光の刃に切り刻まれ、悲鳴を上げる間もなく、文字通り塵一つ残さず空間から消滅した。
後に残されたのは、魔物の胸に埋まっていた『創世の欠片』が、カラン、と石の床に転がる乾いた音だけだった。
「……はぁっ、はぁっ……。申し訳、ございません、リア様……ッ!」
着地したセラは、大剣を放り出して私の前に両膝をつき、深く頭を垂れた。その肩は小刻みに震えている。
「私の不徳により、あのような下等生物の攻撃を、リア様の御身に届く距離まで許してしまいました。いかようにも罰を——」
「罰なんてないわ、セラ。顔を上げて」
私はティムをそっと床に寝かせると、屈み込んでセラの亜麻色の髪を優しく撫でた。
「ティム君は無事に助かった。貴方が素早く腕を切り落としてくれたおかげよ。ありがとう」
「……リア、様……っ」
私の手から伝わる体温に、セラは縋り付くように瞳を潤ませた。圧倒的な武力を誇る彼女が、私の前でだけ見せるこの従順で無防備な姿は、ひどく愛おしい。
私は立ち上がり、床に落ちている青白い石——『創世の欠片』へと歩み寄った。
しゃがみ込み、その冷たい石にそっと指先で触れる。
「本来あるべき場所へ、還りなさい」
私が静かに命じると、石はまるで親の元へ帰る子供のように、ふわりと光の粒子となって私の手のひらへと吸い込まれていった。
その瞬間。
廃教会を満たしていたおぞましい瘴気が、私が放った無意識の浄化の波動によって一瞬にして吹き飛び、澄み切った清らかな空気へと変わった。
崩れかけた天井の隙間から、優しい月光がまっすぐに差し込み、私たちを照らし出している。
「……さあ、帰りましょう。マーサさんが、温かいシチューを作って待ってくれているもの」
私はぐっすりと眠っているティムを背負い直そうとした。
「あ、お待ちください! そのような重労働、私が!」
「いいの。……この子の温かさを、もう少しだけ感じていたいのよ」
ティムの小さな背中から伝わる、トクトクという規則正しい心音と、人間特有の確かな体温。
これほどの力を持っていながら、私には決して生み出すことのできない「命の温もり」を背中に感じながら、私はセラと共に、夜の森を後にしてアリエスの街へと歩き出した。




