第32話「天空の宿と、名付けられない熱」
巨大な水晶の昇降機は、耳鳴りがするほどの速度で空へ空へと昇っていく。
「……リア様。やはりこの水晶の箱、魔力による浮遊制御が甘すぎます。〇・〇二ミリの横揺れが発生しており、主様の三半規管に悪影響を及ぼす可能性が! 今すぐ私がこの箱の壁をぶち破り、外から物理的に担いで上昇気流に乗って——」
「ストップ、セラ。気圧差で私たちが吹き飛ぶから壁を壊さないで」
いつものように大剣の柄に手をかける護衛を宥めているうちに、昇降機は雲を抜け、『天空都市エーテルガルド』の玄関口へと到着した。
「わぁっ……!」
扉が開いた瞬間、私は目を輝かせた。
歯車と蒸気、そして青白い魔力の光が街全体を規則正しく巡っている。空に浮かぶ島というだけあり、空気はひんやりと澄んでいて、星空が手の届きそうなほど近くにあった。
街を行き交う人々は皆、分厚い本や計算式が書かれた羊皮紙を抱え、論理と魔導の研究に没頭している学者たちだ。
「……空気が薄いですね。我が主の尊き肺に負担をかけるなど万死。私が今すぐ周囲の酸素を圧縮して——」
「大丈夫よ、セラ。ほら、今日はもう遅いし、宿を探しましょう?」
私たちは、魔導の光で照らされた美しい街並みを歩き、街の中心にある高級な宿屋へと足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ。お二人ですね? 申し訳ありません、本日は魔導学会の発表会がありまして、空いているお部屋が『最高級スイートのダブルベッドの部屋』一部屋のみとなっておりますが……」
受付の初老の男性が申し訳なそうに言う。
「問題ありません」
私が口を開くより早く、セラが金貨の入った袋をカウンターに叩きつけた。お金はこれまで魔物を倒した素材などを売ってセラがしっかり管理してくれている。
「むしろ好都合です。不測の事態に備え、リア様と私は『絶対零距離』で就寝する必要があります。ベッドが二つなど、主様と私の間に警備の死角を作るだけのこと」
「せ、セラ……? 私、たまには一人で広々と寝たいんだけど……」
「いけません! このような空に浮かぶ不安定な都市、いつ重力異常でベッドから主様が転げ落ちるとも限りません! 私がリア様にしっかりとしがみつき——いえ、お守りしなければ!」
(……また過保護スイッチが入っちゃったわね)
私は苦笑いしながら、セラの勢いに押されるまま、その豪華な部屋へと案内されることになった。
ーーー
部屋は驚くほど広く、窓からは雲海と星空が一望できた。
そして部屋の中央には、大人三人が寝転がっても余るほどの、巨大でふかふかの天蓋付きベッドが置かれていた。
「ん〜っ……! すごく気持ちいいベッド!」
標高の高さと、これまでの長旅の疲れがどっと出たのか、私はお風呂から上がってベッドに潜り込んだ瞬間、抗いがたい眠気に襲われた。
「リア様、お疲れのようですね。……どうぞ、ごゆっくりお休みください」
セラは、自分の大剣をベッドの脇に立てかけると、私の隣にそっと入り込み、シーツを私の肩口まで丁寧に掛けてくれた。
「……うん。おやすみ、セラ……」
私は、セラの温かい体温を隣に感じながら、すぐに深い微睡みの中へと落ちていった。
ーーー
——深夜。
天空都市の歯車の音が、遠くで静かに時を刻んでいる。
セラは、暗闇の中で一人、隣でスースーと規則正しい寝息を立てているリアの横顔を、じっと見つめていた。
(……なんて、美しいのだろう)
窓から差し込む星明かりに照らされた、雪のように白い肌。
月糸を紡いだような、煌めく銀色の髪。
そして、無防備に開かれた、薄紅色の小さな唇。
「……」
セラは無意識のうちに、自分の手をゆっくりと伸ばし、リアの頬に触れようとした。
しかし、その指先は、リアの肌に触れる数ミリ手前で、まるで炎に焼かれたようにピクリと止まった。
(私のような、血と泥にまみれた剣が……主様の御肌に、気安く触れていいはずがない)
セラはギリッと唇を噛み締め、伸ばしかけた手を自分の胸にギュッと押し当てた。
心臓が、異常な早鐘を打っている。
敵の刃を前にしても決して乱れないはずの武神の鼓動が、リアの寝顔を見ているだけで、痛いほどに高鳴っているのだ。
『——貴方はもう、ただの剣じゃない。私のかけがえのない家族よ』
いつか、リアが微笑んで言ってくれた言葉。
その言葉に、どれほど救われただろう。ただのシステムだった自分に「心」と「居場所」をくれた、たった一人の神様。
家族。
姉妹。
護衛。
セラは、自分の中に湧き上がるこの感情を、ずっとその「安全な言葉」の箱に押し込めてきた。
主様を守りたい。主様が笑ってくれるなら、世界がどうなろうと構わない。
それは、純粋な忠誠心であり、家族愛なのだと。
(……違う)
セラは、押し当てた胸の奥で燻る、どす黒く、そして焼け焦げるように甘い『熱』に気づいていた。
リアが、シエルやノエルに優しく微笑みかけた時。胸の奥が、ギリッと締め付けられた。
リアが、誰かのために涙を流した時。その涙を、他の誰にも見せたくないと思った。
この方を、誰の目にも触れない安全な箱庭に閉じ込めてしまいたい。
その笑顔も、その声も、その体温も。
すべて、自分だけのものにしてしまいたい。
(……ああ。私は、なんて醜いのだろう)
セラは、ポロリと一粒の涙をこぼした。
家族愛などという、綺麗な言葉で済むはずがない。
自分の中にあるこの感情は、泥のように濁った『独占欲』であり、神に対して抱いてはならない、決定的な『不敬(恋)』だ。
だが、セラは、その感情に「名前」をつけることを、無意識のうちに、そして全力で拒絶していた。
もし、この感情が「恋」だということを認めてしまえば。
自分は、リアに対して「私だけを見てほしい」「私を愛してほしい」という、身の丈に合わない欲を抱いてしまう。
完璧で、誰にでも平等な愛を注ぐ創造神である彼女を、自分の汚い欲で汚してしまう。
それだけは、絶対に嫌だった。
嫌われるくらいなら。ただの「過保護な剣」として、一生隣で道化を演じている方が、何万倍も幸せだ。
「……んっ……せらぁ……」
不意に、リアが寝言を呟き、寝返りを打ってセラの胸元にスリ寄ってきた。
無防備に、リアの銀髪がセラの首筋をくすぐり、その甘い香りがセラの鼻腔を満たす。
「——ッ!!」
セラは息を呑み、全身を石像のように硬直させた。
「……ここにいるのねぇ……あったかい……」
リアは、セラの腕を小さな両手でギュッと抱きしめ、ふにゃりと幸せそうな笑顔を浮かべて、再び寝息を立て始めた。
「……ずるいです。リア様は」
セラは、震える声でぽつりと呟いた。
これでは、どう足掻いても離れられるはずがない。
セラは、自分の中に渦巻く名付けられない熱に、分厚い、分厚い蓋をした。
「私は剣。リア様をお守りする、ただの家族」
呪文のように何度も心の中で唱えながら。
セラは、リアを抱きしめ返したいという狂おしいほどの衝動を必死に抑え込み、ただ、リアが抱きしめてくれている自分の腕だけを、そっと動かさずに固定した。
「……おやすみなさいませ、私の、たった一人の神様」
星明かりに照らされた天空の宿。
天界最強の剣は、自分の大きすぎる愛の重さに一人で耐えながら、愛しい主の寝顔を見つめ、眠れぬ夜を過ごすのだった。




