第30話「黄金の光と、凪いだ峡谷の風」
「……あんまり私の家族を、怒らせないことね」
私が指先から弾き飛ばした、小さな「黄金の光」。
それは、猛り狂う峡谷の突風の中で、まるで蛍のように頼りなく空中を漂い——次の瞬間、太陽そのものが顕現したかのような、爆発的な輝きを放った。
カァァァァァァァッ……!!
「な、なんだァッ!? 目が、目がァッ!!」
上空で嘲笑っていた堕天使エリゴスが、その神々しい光に悲鳴を上げて両目を覆う。
光は瞬く間にゼフィリアの峡谷全体を包み込んだ。
エリゴスが操っていた無数の「見えない風の刃」は、黄金の光に触れた端から、まるで春の雪解けのようにシュウッと音を立てて溶け、無害なそよ風へと変わっていく。
「ば、馬鹿な!? 俺の真空刃が、ただの光で打ち消されただとォ!?」
エリゴスが信じられないというように絶叫する。
「ただの光じゃないわ」
私は、ゆっくりと宙に浮き上がり、エリゴスと同じ高度まで昇っていった。
神威の解放。
それは、重力すらも私の意思の前に平伏すということだ。私の銀色の髪(数ミリ切られたが)が、神聖な魔力によってふわりと広がり、背後に後光のような星々の瞬きを背負う。
「ひぃっ……!?」
私の姿を直視したエリゴスは、ガタガタと全身を震わせ、空中で後ずさりをした。
「お、お前……ただの小娘じゃない……! その圧倒的な質量の魔力、まさか、エリュシオン……! アザエル様が言っていた、地に堕ちた創造主だというのかァッ!?」
「そうよ。……そして、貴方たちが勝手におもちゃにしている『欠片』の、本当の持ち主よ」
私が冷たく見下ろすと、エリゴスは恐怖で顔を引き攣らせながらも、懐から禍々しい黒い光を放つ石——『翠嵐の石』を取り出した。
「ふ、ふざけるなァ! 神だか何だか知らねえが、この石にはアザエル様の呪縛が込められている! お前が創った『恵みの風』は、すでに俺たちの『死の嵐』に上書きされているんだよォッ!!」
エリゴスが石を高く掲げると、峡谷の奥底から、竜巻のようなドス黒い瘴気の嵐が巻き起こり、私を飲み込もうと迫ってきた。
「リア様ッ!!」
地上で待機していたセラが、大剣を握りしめて叫ぶ。
「大丈夫よ、セラ。……見てなさい」
私は、迫り来る巨大な黒い竜巻に向かって、ただ右手をスッと差し出した。
「私の風は、命を育むためのもの。……誰かを傷つけるために吹く風なんて、私が許さない」
ピタッ。
私の言葉一つで、数万トンの破壊力を持っていたはずの巨大な竜巻が、文字通り「完全に静止」した。
まるで、時間が止められたかのように。
「な……に……!?」
エリゴスが目玉を飛び出さんばかりにして硬直する。
「還りなさい」
私が指先を軽く弾く。
ただそれだけで、静止していた黒い竜巻は、眩い黄金の光の粒子へと分解され、峡谷中にキラキラと降り注ぎ始めた。
そして、エリゴスの手に握られていた『翠嵐の石』から黒い瘴気が浄化され、本来の美しいエメラルドグリーンの輝きを取り戻し、ふわりと私の手のひらへと飛んできた。
「あ、あぁぁ……っ! アザエル様の呪縛が、こんな一瞬で……ッ!」
力を失い、空中でバランスを崩したエリゴスが、無様に岩肌へと墜落していく。
私はゆっくりと地上へ降り立ち、清らかな光を放つ欠片を体内に吸収した。これで、五つ目の理が私の中に戻ってきたことになる。
「——ヒィィィッ! 許してくれェッ!!」
岩肌に激突して満身創痍になったエリゴスが、這いつくばって逃げようとする。
その目の前に、ズンッ! と巨大な大剣が突き立てられた。
「……逃がすと思ったか、薄汚い羽虫が」
先ほどまでの私への従順な態度から一転、絶対零度の地獄の底から響くような声で、セラが見下ろしていた。
「ひ、ひぎぃッ!? お、俺はもう何もしない! 欠片も返した! だから命だけは——」
「黙れ。貴様がリア様の御髪を数ミリ切り落としたという事実は、宇宙が千回滅びようとも消えん。……安心しろ、主様の手前、命は取らん。だが」
セラは、エリゴスの漆黒の翼を片足で踏みつけ、大剣の刃を彼の首筋にピタリと当てた。
「貴様のその翼の羽を、一枚残らず『手でむしり取って』、丸裸の七面鳥にしてやる。その後で、峡谷の底から一番高い崖まで、素手でロッククライミングさせてやろう」
「ヒィィィィィィィッ!!」
絶叫するエリゴス。
「……セラ。あんまりいじめないの。お掃除は終わりって言ったでしょ?」
私が苦笑いしながら窘めると、セラは「チッ」と舌打ちをし、大剣の峰でエリゴスの鳩尾を容赦なく殴りつけ、彼を完全に気絶させた。
「……終わった、のか?」
岩陰に隠れていた見習い技師の少年、シエルが、恐る恐る顔を出した。
「ええ。もう大丈夫よ、シエル君」
私が微笑みかけると、峡谷を吹き抜ける風が、先ほどまでの殺意に満ちた刃から、優しく温かい「恵みの風」へと変わっていることに気づいた。
ギィィ……カラカラカラ……。
狂ったように高速回転していた風車たちも、穏やかな風を受けて、本来の優雅なリズムで回り始めている。
「風が……戻った。俺たちの、恵みの風だ……っ!」
シエルが、そして地下の岩穴からおそるおそる出てきた街の人々が、歓喜の声を上げて泣き崩れた。
「ありがとう……! 本当に、ありがとう、旅の神様!!」
シエルが私の前に膝をつき、深く頭を下げる。
「顔を上げて、シエル君。貴方がたった一人でも風車を直そうとした、その勇気があったからこそ、この風は戻ってきたのよ」
私が優しく彼の肩を叩くと、シエルはポロポロと涙を流し、力強く頷いた。
ーーー
その夜。
ゼフィリアの街の人々から盛大な感謝の宴が開かれた後、私たちは峡谷の宿屋の広い部屋でくつろいでいた。
「……リア様」
私がベッドに腰掛けていると、背後からひどく神妙な声が聞こえた。
振り返ると、セラが手に「最高級の猪毛のヘアブラシ」と「謎の輝きを放つ香油の瓶」を持ち、正座をして待機していた。
「……何してるの、セラ」
「本日の戦闘において、私の至らなさゆえに、主様の御髪が数ミリ失われるという宇宙規模の悲劇が起きました。……どうか、このセラの命に代えても、リア様の御髪のキューティクルを完全修復する『絶対回復トリートメントの儀』を執り行わせてください!!」
セラは、額を床に擦り付けんばかりの勢いで懇願してきた。
「だから大げさなんだってば。ほんのちょっと切れただけじゃない」
「いけません!! 主様の御髪は私の命! 私の魂の拠り所なのです! ああ、あのような羽虫に切られるくらいなら、私がこの大剣で綺麗に切り揃えさせていただきたかった……ッ!」
半泣きで訴えかけてくるセラの姿が、あまりにも必死で、そして可愛らしくて。
私はふっと息を吐き、ベッドの端をポンポンと叩いた。
「……わかったわ。じゃあ、お願いしようかしら」
「——ッ!! ありがとうございますリア様ァッ!!」
セラは弾かれたように立ち上がり、私の背後に回ると、まるで壊れ物を扱うような、信じられないほど優しい手つきで、私の銀髪をブラシで梳かし始めた。
「……痛くないですか、リア様」
「ええ、すごく気持ちいいわ。……セラ、本当に器用ね」
「主様の御髪を梳かすためだけに、天界で何万時間もイメージトレーニングを積んでまいりましたから!」
誇らしげに語るセラの言葉に、私は思わず笑ってしまった。
(ああ、温かいな)
峡谷の窓から吹き込む、穏やかな恵みの風。
後ろから私の髪を丁寧に梳かしてくれる、家族の優しい手の感触。
天界の冷たい玉座にいた頃には、決して知ることのなかった、ささやかで、何よりも愛おしい時間。
「ねえ、セラ」
「はい、リア様」
「次の国に行っても……ずっと、私のそばにいてね」
私の小さな呟きに、セラのブラシを持つ手が、ほんの一瞬だけピタリと止まった。
そして、彼女は私の背中にそっと額を押し当て、震えるような、けれど絶対の誓いを込めた声で答えた。
「……もちろんでございます。宇宙が終わりを迎える、その日まで」
星降る狂風の谷は、今や完全に穏やかな眠りについていた。
愛を知る神様と、愛が重すぎる最強の剣の旅は、この温かい絆を胸に、さらに遠くへと続いていく。




