第29話「狂風の谷と、見えない刃の恐怖」
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システムが便利だと人は怠惰になるのですね
「ヒュオォォォォォォォォッ……!!」
峡谷国ゼフィリアの巨大な岩壁の間を、まるで獣の咆哮のような風の音が通り抜けていく。
見上げれば、赤茶けた切り立った崖のあちこちに、この国の特徴である巨大な木造の「風車」が立ち並んでいた。
本来なら、谷に吹く『恵みの風』を受けて優雅に回り、人々の生活の動力を生み出しているはずの美しい光景だ。
しかし今、その風車たちは悲鳴を上げるように異常な速度で高速回転し、中には強風に耐えきれずに木端微塵に砕け散っているものもあった。
「……ひどい有様ね。街の人たちはどこに避難しているのかしら」
私は、セラが剣圧で作ってくれた『無風領域』の中から、痛々しい峡谷の姿を見上げた。
「リア様、ご安心ください。主様の周囲は私が『物理的な真空の壁』で完全に守護しております。外気との気温差で主様が風邪を引かれぬよう、摩擦熱で温度も春の陽だまりと同じ二十二度に調整済みです」
「だから、剣圧でどうやって温度調整してるのよ……」
もはや魔法使い顔負けの器用さを見せるセラにツッコミを入れつつ、私たちは谷の奥へと進んでいった。
その時だった。
「うわぁぁぁぁっ!! 誰か、助けてくれぇっ!!」
前方の上空——崖の中腹にあるひときわ大きな風車から、少年の悲鳴が響き渡った。
見れば、亜麻色の髪をした十五歳くらいの少年が、強風でへし折れそうになっている風車の羽根にしがみついている。彼は風車の修理をしようとして、突風に巻き込まれてしまったのだろう。
「危ないっ!」
私が叫んだ瞬間。
風が、ただの突風から『明確な殺意』を持った刃へと形を変えた。
人間の目には見えない。だが、神の眼を持つ私には、黒い瘴気を帯びた「真空の刃」が無数に生み出され、少年を切り刻もうと殺到していくのがはっきりと見えた。
「セラ!!」
「——チッ。我が主の視界で、耳障りな悲鳴を上げるな」
ダンッ!!
セラが足元の岩盤を蹴り砕き、大剣を抜いた。
しかし、相手は姿を持たない「風」だ。さらに、少年は今にも崩れそうな木造の風車にしがみついている。セラがいつものように広範囲の衝撃波を放てば、風車ごと少年を粉砕してしまう。
空中に跳び上がったセラは、空中でピタリと静止したように見えた。
「神技・『空縫』」
シュババババババッ!!
目にも止まらぬ、極小かつ超高速の『突き』の連打。
セラは、少年に迫る無数の見えない風の刃の「気流の結節点」だけを、針の穴を通すような精密さで物理的に突き崩したのだ。
風の刃は少年に届く数ミリ手前でプツンと弾け、無害なそよ風となって霧散していく。
「え……?」
目を瞑っていた少年が、自分が無傷であることに気づいて呆然とする。
「落ちろ」
セラが風車の羽根を軽く蹴って回転を止めると、少年はバランスを崩して落下した。そこをセラが首根っこを掴んで空中で回収し、私のいる無風領域へとふわりと着地した。
「い、生きてる……? 助かったのか……?」
少年がへたり込み、ガタガタと震えながら自分の体を触りまくる。
「大丈夫? 怪我はないわね」
私が屈み込んで声をかけると、少年はハッとして私を見上げた。
「あ、あんたたち、一体……!?」
「私はリア。貴方は?」
私が微笑むと、少年は慌てて立ち上がり、ペコリと頭を下げた。
「お、俺はシエル! この峡谷の風車を整備してる見習い技師だ! 本当に、命の恩人だよ! ありがとう!」
「気安く我が主に話しかけるな、峡谷のネズミが」
セラが大剣を肩に担ぎ、冷たく睨み下ろす。
「主様が『助けろ』と仰ったから貴様の首が繋がっただけだ。次はないと思え」
「ひぃっ!? ご、ごめんなさい!!」
「もう、セラったら。怖がらせないの」
私はセラの背中をペシッと叩き、シエルに向き直った。
「シエル君。この谷の風、どうしてあんな『刃』みたいになっちゃったの?」
私の問いに、シエルの顔がサッと青ざめた。
「……一ヶ月前、この峡谷の底にある『風の神殿』に、黒い翼を持った悪魔が現れたんだ」
(やっぱり、アザエルの配下ね)
私とセラは顔を見合わせた。
「あいつは、神殿に祀られていた『翠嵐の石』に何か黒い泥みたいなものを流し込んだ。
それからだ、俺たちの恵みの風が、すべてを切り裂く『呪いの風』に変わっちまったのは。……街の大人たちも、風の刃にやられて大怪我をして、今は地下の岩穴に避難してる」
「翠嵐の石……『創世の欠片』ね」
私が呟くと、シエルは強く頷いた。
「俺は、どうしても風車を直したくて……みんなの生活を守りたくて、こっそり地上に出たんだ。でも、駄目だった。俺一人の力じゃ、あの風には勝てない……っ」
悔しそうに拳を握りしめるシエル。
その姿は、水上都市でたった一人で魔導の勉強をしていたノエルや、家族を守るために機械の腕を動かしていたカイルに重なった。
自分は無力だとわかっていても、大切なもののために立ち上がる人間の気高さ。
本当に、私の創った世界は、愛おしい子供たちで溢れている。
「大丈夫よ、シエル君」
私が、彼の震える手にそっと自分の手を重ねた。
「貴方のその気持ちだけで、十分よ。あとは、私たちがお掃除してあげるから」
「リア、さん……?」
私が微笑んだ、その瞬間だった。
「——ヒハハハハッ!! 随分と心温まるお遊戯会だなァ!」
突如、空から耳を劈くような甲高い笑い声が降ってきた。
見上げると、岩壁の頂上付近の空中に、一人の男が浮かんでいた。
痩せぎすの体に黒い神官服、そして背中には漆黒の翼。アザエルの配下である堕天使の一人だ。
「俺は堕天使エリゴス! 冥王アザエル様より、この峡谷の管理を任されている! 霊峰のガープ、砂漠のフォルネウスがやられたと聞いてどれほどの化け物かと思えば……こんな華奢な小娘二人とはなァ!」
エリゴスが指を鳴らすと、峡谷中の風がゴォォォォッと凄まじい音を立てて一点に集束し始めた。
「リア様、お下がりを。あのような羽虫、私が瞬きする間に三枚おろしにして——」
セラが前に出ようとした。
「ヒハハッ! そう来ると思ったぜェ! だが、お前のそのバカみたいな腕力も、これならどうだァ!?」
エリゴスが両腕を振り下ろすと、集束した風が、無数の『極小の見えない刃』となって、私たちを全方位から包み込むように襲いかかってきた。
それは、一つ一つが髪の毛ほどの細さしかない、不可視の凶器の雨。
シエルのような普通の人間なら、一瞬でミンチにされてしまうだろう。
「小賢しいッ!!」
セラが高速で大剣を振り回し、防壁の風圧を生み出す。
ガガガガガガッ!! と見えない刃が弾かれる音が響き渡る。
「ヒハハッ! 防ぐので手一杯かァ!? それなら、これでどうだァ!」
エリゴスがさらに魔力を込めると、風の刃は奇妙な軌道を描き、セラの防壁の「わずかな隙間」を縫って、私の背後から回り込むように襲いかかってきた。
「リア様ッ!!」
セラが血相を変えて私に飛びつき、その体を盾にして私を庇った。
キンッ!!
という小さな音とともに、風の刃はセラの肩当てをかすめ、虚空へと消えていった。
「……セラ! 大丈夫!?」
私が慌ててセラの体を確かめる。彼女自身には怪我はない。
だが。
「あ……」
セラが、信じられないものを見るように、私の頭の横を見つめて硬直していた。
私の頬の横を、ハラリ、と。
本当に、たった一筋。
数ミリメートルほどの「銀色の髪の毛」が、風の刃に切り落とされ、宙を舞って足元の岩肌に落ちたのだ。
「あーあ、避けられちまったか。まあいい、次はその綺麗な首を——」
エリゴスが上空でニヤニヤと笑いながら言いかけた、その時だった。
峡谷の風の音が、完全に、消え失せた。
「……え?」
シエルが、息を呑んで後ずさりする。
「……ぁ……あぁ……」
セラが、地面に落ちた私の髪の毛数ミリを、震える手で拾い上げた。
その肩は、尋常ではないほど小刻みに震えている。
否。激しく打ち震えているのだ。
「……私の、主様の」
セラの声が、地獄の底から這い出た怨霊のように、低く、ドス黒く響いた。
「私が、毎朝。完璧な温度のお湯で洗い。
極上の香油を塗り。
一ミリの乱れも許さぬよう、愛を込めて梳かし続けてきた……。
宇宙で最も美しく、最も尊い、リア様の御髪が」
ゴゴゴゴゴォォォォォッ!!
セラの全身から、天界の神々すら裸足で逃げ出すほどの、おぞましい『絶対零度のどす黒い殺気』が間欠泉のように噴き出した。
「な、なんだあの魔力は!? おい、お前……!?」
上空のエリゴスが、その異常な殺気にあてられ、顔を引き攣らせて後ずさりする。
セラが、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、もはや怒りを超越した『完全なる無』に染まっていた。いや、その奥で、愛が重すぎるゆえの狂気がチロチロと燃え盛っている。
「——貴様如き下等な羽虫が。リア様の御髪を、一ミリでも傷つけた罪」
チャキッ、と。
セラが、大剣を上段に構えた。
「万死などという生ぬるい言葉では済まさん。
億死。兆死。
貴様の魂の素粒子一つ一つを、宇宙の果てまで削り消してやる」
「ヒィッ!? 待て、やめろ! 冗談だろ、そんな剣圧をここで放ったら、峡谷の風車が全部——」
エリゴスが悲鳴を上げる。
「知るか」
セラが、大剣を振り下ろそうとした瞬間。
私は、全速力でセラの背中に飛びつき、彼女の腰にガッチリとしがみついた。
「ストォォォォォップ!! セラ、駄目ぇッ!!」
「離してくださいリア様ァッ!! 私はあの羽虫を! あの羽虫の存在そのものを次元から消去しなければならないのですゥゥッ!!」
「たった一ミリ切れただけだから! むしろ枝毛がなくなってスッキリしたから! 谷が更地になっちゃうから剣をしまってェェェッ!」
「枝毛など存在しません!!主様の御髪は全て名前をつけてお手入れさせていただいているのです!!主様の御髪は宇宙の至宝ォォォッ!!」
「落ち着いて! 私のお願いだから! ね!?」
私が必死にセラの腰にしがみついて引き倒し、砂埃の中で二人がかりのプロレスのような揉み合いが始まった。
「な、なんだこれ……」
シエルが、そして上空のエリゴスすらも、あまりのカオスな光景に完全にドン引きして硬直していた。
「——ッ、ふぅ、ふぅ……っ」
数分の格闘の末、私が全力で神威(物理)を込めてセラの頭を撫で回したことで、ようやく彼女の殺気は収まり、ハァハァと肩で息をしながら大剣を下ろした。
「……リア様が、そこまで仰るのなら。今回は、魂の素粒子を削り消す程度で許してやります」
「いやそれ全然許してないからね?」
私は大きくため息をつき、上空のエリゴスを見上げた。
「というわけで、貴方の相手は私がお掃除するわ。……あんまり私の家族を、怒らせないことね」
私は、神としての冷たい微笑みを浮かべ、指先から「黄金の光」を一つ、弾き飛ばした。
それが、狂風の谷における、本当の神威の解放の合図だった。




