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第3話「影に潜む欲望」

夕闇がアリエスの街を包み込む頃、「陽だまり亭」の一階にある食堂は、一日の労働を終えた街の人々の熱気と喧騒で満ちていた。


酒が入った木樽のジョッキがぶつかり合う音、豪快な笑い声、肉の焼ける匂い。その隅の席で、私は出された温かいハーブティーを両手で包み込むように持ち、その人間界特有の賑やかさを心地よく眺めていた。


「リア様、やはりこのような酔っ払いが密集する空間は危険です。万が一、誰かが足を滑らせてリア様のお召し物を汚しでもしたら……! 今すぐ私がこの酒場の客を全員、窓から放り投げてきましょうか?」

「やめなさい、セラ。誰も私にぶつかったりしないし、これが人間の日常というものよ。とても素敵な空間じゃない」


私の隣では、背中の大剣をいつでも抜けるよう油断なく周囲を睨みつけているセラが、ピリピリと殺気を放っている。そのせいで私たちのテーブル周辺だけは見事なまでに誰も寄り付かず、奇妙な空白地帯ができていたが、私は気にせずティーカップに口をつけた。


その時だった。


バンッ!!


食堂の分厚い木の扉が、乱暴に弾け飛ぶように開かれた。

喧騒が一瞬にして止み、全員の視線が入り口に向けられる。そこに立っていたのは、息を乱し、泥だらけになった近所の少年だった。


「お、おばちゃん……っ! マーサのおばちゃん!!」

「どうしたんだい、そんなに慌てて」


厨房から顔を出したマーサが、布巾で手を拭きながら小走りで少年に駆け寄る。その顔には、いつもの豪快で優しい笑みが浮かんでいた。しかし、少年の次の一言が、その笑みを完全に凍り付かせた。


「ティムが……っ! ティムが、北の森の『廃教会』に入ったまま、帰ってこないんだ!!」


ガチャン、と。

マーサの手から滑り落ちた木のお盆が、床に落ちて鈍い音を立てた。


ティムとは、マーサのたった一人の幼い息子のことだ。今日はお手伝いが休みで、近所の子供たちと外へ遊びに行っていたはずだった。


「……廃教会って、あんた。あそこは最近、夜な夜な気味が悪い唸り声が聞こえて、人攫いの魔物が出るって噂の……!」

「ご、ごめんなさい! 俺たち、肝試しで行ってみようぜって……でも、奥から黒い霧みたいなのが出てきて、ティムがそれに足を掴まれて……っ!!」


少年が泣きじゃくりながら事情を説明する間、食堂の空気は凍りつくように冷え込んでいった。

この街の自警団の男たちも顔を見合わせ、気まずそうに目を逸らしている。夜の森、しかも得体の知れない魔物が棲みついた場所へ入り込むのは、彼らのような一般的な人間にとって自殺行為に等しいのだ。


「誰か……」


震える声が響いた。

普段は誰よりも逞しく、大声で笑うマーサが、その場にへたり込み、両手で顔を覆っていた。


「誰か、お願い……! 誰でもいい、有り金は全部払うから、アタシの命だってなんだって差し出すから……! ティムを、アタシのたった一人のあの子を助けて……ッ!!」


床に額を擦り付けるようにして泣き叫ぶ彼女の姿に、私は息を呑んだ。

自分の誇りも、商売も、自らの命すらも投げ打って、ただひたすらに、自分以外の存在の無事を祈り、乞う姿。


(これが、母親……)


私が創り上げた『感情』というシステム。知識としては知っていた。親という存在は、子を愛するようにプログラミングされていると。

しかし、目の前で魂の底から絞り出されるような悲痛な叫びを見せつけられることは、次元が違った。彼女の流す涙の一滴一滴が、私の胸の奥を鋭い刃で抉るように痛めつける。どうしてこんなにも、心がざわつくのだろう。どうしてこんなにも、彼女の涙を止めてあげたいと、強く願ってしまうのだろう。


私は静かにティーカップを置き、立ち上がった。


「リア様」


横に立つセラが、私を制止するよりも早く、冷徹な声で告げた。


「微弱ですが、北の森の方角から不快な波動を感じます。十中八九、『創世の欠片』による空間の歪みかと。魔物化の原因は間違いなくそれでしょう」

「……行くわよ、セラ」

「御意に」


私が歩き出すと、セラは当然のように私の斜め後ろに付き従った。


「待ちな!!」


食堂の出口へ向かう私たちに、マーサが顔を上げて叫んだ。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、彼女は私の腕を掴もうとした。


「あんたたち、ただの小娘じゃないか! どこへ行く気だい! あそこには魔物が……!」

「大丈夫よ、マーサさん」


私は彼女の荒れた大きな手を、自分の小さな両手で包み込んだ。

昼間、私の髪を優しく撫でてくれた温かい手。その温もりを、絶対に失わせたくなかった。


「ちょっとお散歩ついでに、迎えに行ってくるだけだから」

「でも……っ!」

「それに、私の護衛は、ちょっと信じられないくらい強いのよ。だから、ティム君のためにも、あの美味しいシチューを温めて待っていて」


私が微笑みかけると、マーサは呆然として言葉を失った。神としての私の本質がわずかに漏れ出たのかもしれない。彼女の震えが、ほんの少しだけ収まったのがわかった。


夜の冷たい風が吹き荒ぶ中、私たちはアリエスの街を抜け、北の森へと足を踏み入れた。

木々は月明かりを遮り、先へ進むほどに空気は重く、息苦しくなっていく。森の奥深く、朽ち果てた石造りの「廃教会」が、まるで巨大な墓標のように不気味なシルエットを浮かび上がらせていた。


「リア様。足元が暗くていけませんね。よろしければ、この森の木々をすべて切り倒し、周囲を更地にして見通しを良くいたしましょうか?」

「冗談でもそういうこと言わないの。ただでさえ不気味なんだから」


物騒極まりない提案を平然と口にするセラをたしなめながら、私は教会の半ば崩れ落ちた扉を見上げた。

その隙間からは、第1話で遭遇した狼たちと同じ、どす黒いヘドロのような瘴気がゆっくりと漏れ出している。そして、その奥からは、何か巨大な肉の塊が蠢くような、おぞましい咀嚼音が響いてきた。


「……どうやら、欠片を取り込んだ下等生物が、我が物顔で巣食っているようですね」


セラの声の温度が、一気に絶対零度まで下がった。

彼女が背中に背負っていた大剣の柄に手をかけると、カチン、と冷たい金属音が夜の森に響き渡る。


「ティム君を助け出すのが最優先よ、セラ。……でも、少しだけなら、派手にやってもいいわ」

「承知いたしました。我が主の慈悲に泥を塗る愚物どもに、神の鉄槌を下してご覧に入れましょう」


私は深く息を吸い込み、瘴気の渦巻く廃教会の中へと足を踏み入れた。

私が初めて触れた人間の温もり。それを奪おうとする存在を、創世神である私が、決して許すわけにはいかなかった。

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