第21話「水上都市アクアリアと、斬れない水鏡」
銀の天秤商会の荷馬車に揺られること数日。
街道を抜けた私たちの眼前に広がったのは、太陽の光を反射してきらきらと輝く、見渡す限りの巨大な湖だった。
そしてその湖の真ん中に、まるで宝石箱をひっくり返したように美しく浮かび上がっているのが、次なる目的地——『水上都市アクアリア』である。
「わぁっ……! すごい、水の上に街が建ってる!」
私は荷馬車の御者台から身を乗り出し、歓声を上げた。
白亜の石造りの建物が水路によって縫い合わされ、無数のアーチ状の橋が街全体を繋いでいる。水路を行き交うのは、色鮮やかな装飾が施されたゴンドラだ。ルミナスの厳格さとも、ゼノスの鉄と煙とも違う、どこまでも開放的で涼やかな風が吹き抜けていた。
「リア様! お下がりください、危険です!」
私の隣で、セラが血相を変えて私の腰をガッチリとホールドした。
「この都市は異常です! 足元の大部分が液体で構成されているなど、主様が万が一足を滑らせた場合、その尊き御体がずぶ濡れになってしまいます! 肺に水が入れば大事です! 今すぐ私がこの湖を神罰の業火で完全に干上がらせ、歩きやすい盆地に造り変えて——」
「ストップ、セラ! 街の人たちの生活水源がなくなっちゃうから干上がらせないで!」
私はいつものように、息をするようにマップを書き換えようとする護衛の頭をペチンと叩いた。
「それに、私泳げるもん。神様だもの」
「泳ぐなど言語道断! 主様の美しい御御足を、得体の知れない微生物が蠢く水に浸からせるなど、私の存在意義に関わります! どうしてもとおっしゃるなら、私が湖の水をすべて純水に濾過し、温度を三十八度の適温に保った上で——」
「それはもう温泉よ、セラ」
私たちのいつもの騒がしいやり取りを見て、商隊長のボルドーさんと娘のリリィがクスクスと笑い声を上げた。
「本当に、君たちと旅をするのは退屈しなかったよ。……さあ、着いたぜ。アクアリアの正面水門だ」
馬車は、都市への入り口となる巨大な水門の前の船着き場に停車した。ここから先は馬車が入れないため、荷物を小舟に積み替えて街へ入るのだ。
「リアお姉ちゃん、セラお姉ちゃん、ここでバイバイだね」
リリィが、少し寂しそうに私の服の裾を引っ張った。
「うん。リリィちゃん、立派な商人になってね。お父さんの言うこと、ちゃんと聞くのよ」
私が屈み込んで頭を撫でると、リリィはポロポロと大粒の涙をこぼし、私の首にギュッと抱きついてきた。
「リアお姉ちゃん、大好き! 絶対、またどこかで会おうね!」
「……ええ、約束よ」
子供の体温と、真っ直ぐな好意。私はその温もりを心に刻み込むように、彼女の小さな背中を優しく叩いた。
「——そこまでです。別れを惜しむのは結構ですが、我が主の御服に涙と鼻水のシミをつけるのは万死に値します。今すぐ離れなさい」
セラが、腕を組みながらジト目でリリィを引き剥がそうとする。
言葉は相変わらず物騒だが、その手つきは驚くほど優しく、決して子供を痛めつけるような力は入っていなかった。
(セラも、本当に優しくなったわね……)
「あんたたち、本当に気をつけてな。この街は今、少し『妙な噂』があるらしいから」
荷下ろしを終えたボルドーさんが、真剣な顔で忠告してくれた。
「妙な噂、ですか?」
「ああ。最近、この湖の水位が異常に上がっててね。それに、夜になると水路から『泣き声』が聞こえて、それに誘い込まれた人間が神隠しに遭うって話だ。
水底に眠る『海神の涙』が怒っているんだと、街の連中は怯えてるよ」
海神の涙。そして異常な水位と神隠し。
私とセラは顔を見合わせた。微弱だが、この巨大な湖の底深くから、間違いなく『創世の欠片』の歪んだ波動を感じ取っていたからだ。
「教えてくれてありがとうございます。……さよなら、私たちの最初のお友達」
「ああ! 良い旅をな、リア、セラ!」
商人たちの乗ったゴンドラが水路の奥へ消えていくのを見送った後、私たちはアクアリアの街並みへと足を踏み入れた。
ーーー
水上都市アクアリアの景観は美しいものの、ボルドーさんの言葉通り、街全体にどこか重苦しい空気が漂っていた。
本来なら観光客や商人で賑わうはずの水上市場も活気がなく、すれ違う人々の顔には疲労と不安が色濃く滲んでいる。足元の石畳は、本来の水位よりもはるかに高い位置まで水に浸かっており、場所によってはくるぶしまで水に浸かりながら歩かなければならなかった。
「……リア様。この水、ただの自然現象ではありません」
セラが、大剣の柄に手をかけたまま、足元の水面を鋭く睨みつけた。
「ええ。水そのものに、微量の『瘴気』が溶け込んでいるわ」
私は指先で水を掬い上げた。無色透明に見えるが、神の眼を通せば、その水一滴一滴に、人間の精神を蝕むような黒い魔力が混入しているのがわかる。
「ルミナスやゼノスのように、誰かが意図的に欠片を使っているのか……それとも、欠片自体が暴走しているのかしら」
「どちらにせよ、我が主の行く手を阻み、あまつさえ靴を濡らすなどという大罪を犯した元凶です。今すぐ私が湖の底へ潜り、原因となる害虫を次元の彼方へ両断してまいりましょうか?」
セラが意気揚々と提案した、その時だった。
「きゃあああああっ!!」
前方の入り組んだ水路の奥から、女性の悲鳴が響き渡った。
私とセラが顔を見合わせ、音速で現場へと駆けつけると、そこには信じられない光景が広がっていた。
石橋の上で、ひとりの若い女性が腰を抜かして震えている。
そして彼女の目の前の水路から、水そのものが意志を持ったように盛り上がり、巨大な『水竜』のような姿を形成して、女性に襲いかかろうとしていたのだ。
「水が、魔物に……!?」
「リア様、お下がりを!!」
私が驚く暇もなく、セラが弾かれたように飛び出した。
「下等な水溜まりが、我が主の視界で暴れるなッ!!」
セラが大剣を抜き放ち、水竜の首に向かって一切の容赦のない横薙ぎの一閃を放つ。
空間ごと切断する、天界最強の絶技。
ズバァァァァァンッッ!!!!
凄まじい剣圧が水竜の首を刎ね飛ばし、水路の水を両岸に押し退けて、一時的に湖底の泥を露出させるほどのモーゼの奇跡のような光景を作り出した。
「よしっ……」
腰を抜かした女性を庇いながら、私がホッと息を吐いたのも束の間。
ザバァァァァァッ!!
「……なっ!?」
セラの驚愕の声が響いた。
両断され、ただの水飛沫となって四散したはずの水竜が。
周囲の水路から無尽蔵に水を吸い上げ、わずか数秒で「元よりも巨大な姿」となって再構築されたのだ。
「物理攻撃が……効いていない!?」
私が目を見張る。
「舐めるなッ!!」
セラは眉を吊り上げ、再び大剣を振るった。
十文字、袈裟斬り、突き。目にも止まらぬ剣閃が、水竜の巨体を千の水滴に切り刻む。
しかし。
斬っても、斬っても。
相手は「ただの水」である。
傷という概念が存在しない。切り裂かれた端からすぐに癒着し、むしろセラの剣戟の衝撃を吸収して、さらに巨大な水の塊へと成長していくではないか。
「チィッ……! ならば、水滴一つ残さず、この一帯の水分をすべて蒸発させるまでッ!」
セラが大剣に膨大な魔力を込め、神罰の光を放とうとした瞬間。
「——駄目よ、セラ!!」
私は叫び、セラの腕を後ろから強く掴んだ。
「リア様!? なぜお止めになるのですか! このままでは主様に水飛沫が!」
「周りを見て! ここは街の中なのよ!」
私の言葉に、セラはハッと周囲を見渡した。
私たちがいるのは、アクアリアの密集した住宅街を縫う水路だ。もしここでセラが、水分をすべて蒸発させるほどの超高熱の広範囲攻撃(神罰)を放てばどうなるか。
魔物だけでなく、周囲の建物にいる罪もない人々まで、一瞬にして炭化してしまう。
かといって、魔物を完全に消し去るほどの特大の物理法則(衝撃波)を撃ち込めば、その反動で生じた巨大な津波が、水上都市そのものを飲み込んでしまうだろう。
「あ……」
セラの顔から、血の気が引いた。
圧倒的な武力。何者をも両断する断罪の剣。
それが、セラの唯一にして最強のアイデンティティだった。
しかし目の前の敵は、斬ることもできず、街(人質)と完全に一体化している「水」そのもの。
彼女の『破壊』という強すぎる力は、この水上都市においては、街を滅ぼす劇薬にしかならないのだ。
「ギョァァァァァッ!!」
水竜が、セラの動きが止まった隙を突き、巨大な水の尾を振り下ろしてきた。
数十トンの水の質量攻撃。
「くっ……! 絶対防壁ッ!!」
セラは大剣を盾にして、私と女性を庇うように魔力障壁を展開した。
ドゴォォォンッ!!
凄まじい水圧が障壁に直撃し、私たちは石橋の上を数メートル後ずさりさせられた。
「セラ!」
「申し訳、ありません、リア様……ッ! 斬れない、熱も出せない……私の剣では、この水を……ッ」
障壁を維持しながら、セラはギリッと唇を噛み締めた。
その瞳に浮かんでいたのは、強烈な焦燥と、自らの「無力さ」への絶望だった。
(セラの剣が、通じない……?)
ルミナスでも、ゼノスでも、彼女は力加減に苦労しながらも、最後は圧倒的な力で敵を粉砕してきた。
しかし、このアクアリアに潜む敵(欠片)は、これまでとは明らかにレベルが違う。
物理無効。実質的な広範囲攻撃封じ。
まるで、セラの『弱点』を完全に熟知した上で、周到に用意された罠のようだった。
「……ッ、アザエル……!」
セラが、呪うようにかつての同胞の名を呟く。
水竜はさらに周囲の水を吸い上げ、街全体を飲み込むような巨大な津波を形成し始めていた。
「リア様、ここは私が抑えます! どうか、女性を連れて安全な高台へ……ッ!」
「馬鹿なこと言わないで! 貴方を置いていくわけないでしょ!」
私が神威を解放し、この水ごと欠片の力を浄化しようとした、その時。
「——『凍結』!!」
凛とした少年の声が響き渡った。
水路の壁面から、純白のローブを纏った小柄な少年が飛び出し、水竜に向かって杖を突き出した。
その瞬間。
バキバキバキッ!! というすさまじい音とともに、絶対零度の冷気が走り、巨大な水竜が完全に氷漬けの彫像へと変わった。
「な……」
驚く私たちを振り返り、白銀の髪に蒼い瞳を持ったその少年は、ふっと息を吐いて微笑んだ。
「怪我はないかい、旅の人。……まったく、最近の水は気が荒くて困るよ」




