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第2話「初めての街と、温かなスープ」

森を抜け、街道を数時間ほど歩いた私たちの前に現れたのは、高い石造りの城壁に囲まれた交易都市「アリエス」だった。

門をくぐり抜けた瞬間、私の視界と聴覚は、かつて経験したことのない情報の波に飲み込まれた。


石畳の通りを行き交う無数の人々。荷馬車が立てる車輪の音。鉄を打つ甲高い響き。あちこちから漂ってくる、焼けた肉の香ばしい匂いや、甘く熟した果実の香り。


天界の、塵一つなく静謐で、永遠に変わることのない完璧な白亜の景色とは対極にある世界。それはひどく雑多で、泥臭く、不完全で――そして、目が眩むほどに鮮やかで生命力に満ちていた。


「すごい……。これが、人間の街」


私は思わず足を止め、道の真ん中でくるくると周囲を見渡した。私の創った世界で、人間たちはこんなにも力強く、豊かな営みを築き上げていたのだ。


「リア様、危険です! あまり私のそばから離れないでください!」

「大丈夫よ、セラ。誰も取って食ったりしないわ」

「いいえ! 先ほどからすれ違う殿方たちが、皆一様にリア様をジロジロと……ッ! 万が一にもあの薄汚い視線で主様のお肌が穢れでもしたら、私がこの街の男たちの眼球をすべて——」

「物理的な物騒なこと言わないの。ただ珍しいだけよ」


大剣を背負い、鋭い眼光で周囲の通行人を片っ端から威嚇するセラを宥めながら、私は市場の通りへと足を踏み入れた。セラの放つ異常な殺気のせいで、私たちの周囲だけ半径三メートルほどの見えない円ができている気がするが、今は気にしないことにする。

ふと、私の目に鮮やかな色彩が飛び込んできた。

木箱の中に山積みにされた、真っ赤で艶やかな果実。天界の書物で知識としては知っていたが、本物を見るのは初めてだ。


「林檎……」

「おや、お嬢ちゃんたち、お目が高いね! 今朝採れたばかりの極上品だ。甘くて瑞々しいよ!」


店主の日に焼けた陽気な男が、手ぬぐいで林檎を一つキュッと磨いて差し出してきた。

その丸みを帯びた赤い果実は、太陽の光を吸い込んだように輝いている。私は無意識に手を伸ばしそうになり、ハッとしてセラを振り返った。人間界のルールでは、物を手に入れるには「対価」が必要なのだ。


「美味しそう。セラ、これをもらっていきましょう」

「御意に」


主の願いとあらば、とセラは恭しく一礼し、店主の前へと進み出た。

そして、懐からゴソゴソと何かを取り出すと、ドンッ! と乱暴に木箱の上に置いた。


「おい貴様、これを寄越せ。代わりにこの『天界の輝石』をくれてやる」


木箱の上に鎮座したのは、ソフトボールほどの大きさがある、眩いばかりに光り輝く純白の宝石だった。天界の神殿の柱を飾る装飾の欠片だが、人間界の価値に換算すれば、おそらくこの街ごと買ってお釣りがくる代物だろう。


「ひぃっ!? な、なんだアンタら! そ、そんな恐ろしいデカさの宝石、俺の店なんかじゃ両替できねえよ!!」

「……あ? 釣りなどいらぬと言っている。この程度の下等な果実一つで、我が主にひもじい思いをさせる気か? 貴様、命が惜しくないようだな」

「ひぃぃぃっ!! 助けてくれぇ!!」


大剣の柄に手をかけ、周囲の気温を急激に下げるセラに対し、店主は完全に腰を抜かしてしまった。


(しまった。人間界の貨幣価値なんて、セラが知るはずなかった……!)


私が慌てて止めに入ろうとした、その時である。


「こらこらこらこら! あんたたち、真っ昼間から何やってんだい!!」


ダッ、と力強い足音が響いたかと思うと。


ドンッ!


「……え?」


セラの頭に、軽く、しかし小気味の良い音が鳴るほどの拳が落とされた。

天界最強の武神であり、あらゆる物理攻撃を無効化するはずのセラが、目を丸くして頭を押さえている。敵意も殺気も全くない、ただの「叱責」としての拳だったため、セラの自動防衛機能が反応しなかったのだ。


振り返ると、そこに立っていたのは、真っ白なエプロンをきつく締め、腰に両手を当てて仁王立ちする恰幅の良い中年女性だった。目尻には深い笑い皺が刻まれ、その逞しい腕は長年の労働を物語っている。


「剣呑なもんチラつかせて、商売の邪魔しちゃいけないよ! それに、そんな見たこともないデカい石ころ出されたって、八百屋の親父が困るに決まってるだろ!」

「き、貴様……っ! 我が主の御前で、私に触れるとは——」

「口答えしない! ほら、親父さん、驚かせて悪かったね。この林檎代、アタシが払っとくから」


女性はエプロンのポケットから銅貨を数枚取り出し、呆然とする店主に押し付けた。そして、真っ赤な林檎を二つひょいと掴み取ると、私の手にポンと乗せた。


「あんたたち、見ない顔だね。その世間知らずな様子を見るに、どこかの田舎から家出してきたお嬢様と、融通の利かない護衛ってとこだろ? ほら、ウチの宿に来な! ちょうど昼飯の準備ができてるからさ」


「あ、あの、私たちは……」

「いいからいいから! そんな細い腕して、ちゃんと食べてない証拠だよ。アタシはマーサ。この先で『陽だまり亭』って宿屋の女将をやってるんだ。さ、おいで!」


有無を言わさぬ凄まじい勢いで、マーサと名乗った女性は私の背中をグイグイと押し始めた。セラは「主様に気安く触れるな!」と怒り狂いながらも、マーサに悪意が微塵もないため剣を抜くこともできず、オロオロと私たちの後をついてくるしかなかった。


ーーー


連れてこられた宿屋の食堂は、古い木材の温かみと、香辛料の食欲をそそる匂いに満ちていた。


「ほら、座った座った。たくさんお食べ」


ドン、と乱暴に私の前に置かれたのは、湯気を立てる具沢山のシチューと、少し焦げ目のついた黒パンだった。


天界の食事——神々の腹を満たすための神饌しんせんは、見た目も美しく、味も完璧だが、どこか無機質だ。しかし目の前にある茶色いシチューは、野菜の切り方も不揃いで、決して洗練されているとは言えない。

私は木のスプーンを手に取り、恐る恐るシチューを口に運んだ。


「……っ」


その瞬間、言葉にならない衝撃が走った。

ゴロゴロとした野菜の強い甘み、肉の濃厚な旨み、そして体を芯から温めてくれるような、不思議な熱。それは計算された完璧な味ではなく、食べる者の健康や活力を願って作られた、不器用で、ひどく優しい味だった。


「美味しい……」

「そうだろう、そうだろう! アタシの特製だからね。ほら、口の周りについてるよ」


マーサは豪快に笑うと、ごわごわとした布巾で、私の口元を無造作に、けれどとても優しく拭ってくれた。

そして、私の銀色の髪を、大きな手でポンポンと撫でた。


「いっぱい食べて、大きくなるんだよ」


ドクン。


その瞬間、私の胸の奥底で、経験したことのない痛みが鳴った。

心臓がぎゅっと掴まれたような、切なくて、でもひどく心地よい感覚。

ただの気まぐれな親切。ただの食堂のやり取り。

なのに、彼女のその大きな手から伝わる熱が、不器用な労りが、私がずっと本で読んで憧れていた「母親」の姿と重なったのだ。


(これが……人間のお母さんの、温かさ……)


私は、泣き出しそうになるのを必死に堪えながら、ただ黙々と、その温かいシチューを口に運び続けた。

隣では、セラが「リア様に毒見もさせず食事を出すとは!」と騒ぎながらも、ちゃっかり出されたシチューを平らげている。


神の座を降りて、数時間。


私は人間界で初めて、探し求めていた「温もり」の欠片に、確かに触れたのだった。

書き溜めているので、少しずつ出します

1話の文量を少なくして読みやすくします


彼女たちの旅が良いものになりますように。

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