第17話「銀白の霊峰と、堕ちた黒き翼」
大樹の里での、温かく涙に満ちた祝宴から数日後。
私たちは、森の住人たちの盛大な見送りを受けて、新たな旅路へと足を踏み出していた。
「リア。貴女の行く道に、星の祝福と、母の愛が永遠にありますように」
森の出口で、エララは私の額にそっと、慈愛に満ちたキスをしてくれた。
そして、彼女の美しい銀髪と同じ色をした、大樹の若葉で編まれた小さな花の冠を、私の頭に乗せてくれた。それはどんな魔法の防具よりも温かく、私の心を強く守ってくれる「お守り」だった。
「ありがとう、エララさん。……私、絶対にもっと大きくて、優しい神様になってみせるからね」
私が少し照れくさそうに笑って答えると、エララはポロポロと嬉し涙をこぼし、何度も何度も頷いてくれた。
「リア様、そろそろ出発の時刻です。……エララ殿、我が主の御心をこれほどまでに癒していただいたこと、天界第一神徒として、深く感謝いたします」
いつもは他者に厳しいセラが、珍しく深々とエララに向けて頭を下げた。
彼女の背中にある「空間収納」には、里の住人たちが持たせてくれた数年分はあろうかという果実や干し肉が、パンパンに詰め込まれている。
「ふふっ。強き剣士よ、貴女も立派なリアの『家族』です。どうか、その細い肩を抱きしめてあげてくださいね」
「かっ……か、家族!? わ、私が、リア様の……ッ!?」
エララの言葉に、セラは顔を真っ赤にしてパニックを起こし、大剣を抱えたまま奇妙なステップを踏み始めた。
そんな彼女の腕を引っ張りながら、私はエララたちに大きく手を振り、西の森を後にした。
私の胸の奥にあった孤独の穴は、エララの温かい涙と抱擁によって、すっかり塞がっていた。
だからこそ、私の中に新たな決意が生まれていた。
私が創り、彼らが育んできたこの気高く美しい世界。
それを「不完全な器」と呼び、自分の欲望のために破壊しようとする者たち——『真理の探求者』。
私の愛する子供たちの笑顔を奪う輩を、神として、絶対に許すわけにはいかない。
ーーー
私たちが次に向かったのは、大陸の最北端に位置する極寒の地、「北の大雪原」だった。
微弱な『創世の欠片』の気配を追って北上するにつれ、緑豊かだった景色は徐々に色を失い、やがて見渡す限りの銀世界へと変わっていった。
「っ……くしゅんっ!」
吹き荒れる吹雪の中、私は思わず小さなくしゃみをした。
神としての力を極限まで抑え込み、人間の少女の肉体を持っている今の私にとって、この極寒の気候は物理的に堪えるものだった。
「リッ、リア様ぁぁぁッ!!」
その瞬間、私の隣を歩いていたセラが血相を変えて絶叫した。
「ああ、なんということでしょう! 創造主たる主様の尊き御体が、このような無礼極まりない微小な氷の結晶どもによって冷やされるなど! 許せません、今すぐ私がこの雪原一帯に神罰の業火を降らせ、常夏の南国リゾートへと気候を書き換えて——」
「ストップ、セラ! 生態系が崩れるから燃やさないで!」
私は慌てて、指先から火球を生み出そうとしているセラの腕にしがみついた。
「ですが、リア様のお風邪が! 万が一にも主様の御鼻から神聖なる鼻水が垂れようものなら、私はこの大陸の冬を永遠に消し去らねばなりません!」
「大丈夫だから! ほら、エララさんがくれた毛皮のコートがあるでしょ!」
私がモコモコの白い毛皮にすっぽりと包まり、雪だるまのような丸いシルエットになると、セラは「おお……なんという愛らしさ……雪の妖精……ッ!」と胸を押さえて尊さに悶絶し始めた。
相変わらず極端な護衛である。
だが、セラの纏う熱気(と殺気)のオーラのおかげで、私の周囲半径一メートルだけはポカポカとした春のような温度が保たれていた。彼女の過保護さが、今回ばかりは本当にありがたい。
やがて、猛吹雪の向こう側に、天を衝くような巨大な氷の山が見えてきた。
『竜鳴の霊峰』。
かつて、星の創世期に私が生み出した、強大な力を持つ「古竜」が眠る聖なる山だ。
山の麓には、古竜を山の守り神として信仰する小さな村があったが、村の様子は明らかにおかしかった。
分厚い雪に覆われた家々の扉は固く閉ざされ、外を歩く人の姿は全くない。それどころか、村全体を覆うように、ルミナスやゼノスで見たあの「どす黒い瘴気」が、雪に混じってチラチラと降り注いでいたのだ。
「黒い雪……」
私が手のひらで黒い雪片を受け止めると、それはジュッと音を立てて邪悪な魔力へと変わり、消滅した。
「リア様。山頂の方角から、おぞましい魔力のうねりを感じます。それに……この不快な気配、ただの魔物や人間の愚者ではありません」
セラが、大剣の柄に手をかけながら、雪山を鋭く睨みつけた。
その瞳には、天界最強の武神としての、氷のように冷たく研ぎ澄まされた警戒の色が浮かんでいる。
「……ええ。わかっているわ」
私の眼にも、はっきりと見えていた。
山頂の氷口の中に封印されているはずの巨大な古竜の骨格。そこに、強大な『創世の欠片』が無理やり埋め込まれ、死んだはずの竜の肉体を、黒い泥のような魔力で強制的に再構築しようとしているのだ。
そして、その儀式を行っているのは、人間ではない。
神の理から外れ、次元の狭間に落ちた不浄なる存在——堕天使の気配だった。
「急ぎましょう、セラ。私の古い友人の眠りを、あんな汚い泥で穢させるわけにはいかないわ」
「御意に。主様の御心を乱す不届き者ども、一匹残らず雪山の塵に変えてご覧に入れます」
私たちは、黒い雪が舞う『竜鳴の霊峰』の険しい山道を、一気に駆け上がり始めた。
ーーー
標高が上がるにつれ、吹雪はもはや凶器のような氷の刃となって私たちに襲いかかってきた。
しかし、セラが展開する不可視の絶対防壁に触れた瞬間、氷の刃はすべて粉々に砕け散り、私にはそよ風一つ届かない。
「ギョェェェェッ!!」
山腹に差し掛かった時、雪煙を割って、三頭の巨大な魔物が襲いかかってきた。
真っ白な毛皮に覆われた雪男のような姿だが、その瞳は瘴気に侵されて赤く濁り、口からは黒い炎を吐き出している。
「——不快だ。我が主の御前で、その汚らわしい息を吐くな」
セラの姿が掻き消えた。
抜刀の動作すら見えない。
ただ、猛吹雪の中に三本の「銀色の線」が走ったかと思うと、三頭の魔物は悲鳴を上げる間もなく、雪山ごと斜めに両断され、ズズン……と重い音を立てて雪に沈んだ。
「お怪我はありませんか、リア様。足場が悪くなって申し訳ありません」
「ありがとう、セラ。でも、手加減しなくていいわよ。ここはもう、彼らの『領域』みたいだから」
私は、山頂へと続く最後の氷の階段を見上げた。
そこから先は、自然の吹雪ではない。明確な殺意と、神への冒涜に満ちた「結界」が張られていた。
「開け」
私がそっと言葉を紡ぐと、不可視の重圧を放っていた邪悪な結界が、パリンッ! とガラスのように砕け散った。
私たちは、ついに霊峰の山頂——巨大なすり鉢状になった氷の火口へと辿り着いた。
「ああ……」
私は、目の前に広がる惨状に息を呑んだ。
火口の中央。
かつて白銀の美しい鱗を持っていた古竜の巨大な骸骨が、ドクドクと脈打つ黒い肉腫によって強引に繋ぎ合わされ、醜悪なアンデッド・ドラゴンとして蘇りかけていたのだ。
その巨大な胸郭の中心には、これまで見たどの欠片よりも大きく、まがまがしい光を放つ『創世の欠片』が埋め込まれ、吹雪を黒く染め上げている。
そして。
その古竜の巨大な頭蓋骨の上に、一人の男が立っていた。
黒い神官服を纏い、背中には一対の「漆黒の翼」を生やした男。その顔には、傲慢と狂気が色濃く張り付いている。
『真理の探求者』の幹部であり、アザエルの配下である堕天使の一人だった。
「……ほう。まさか、我々の絶対結界を容易く破って現れる者がいるとは。エルフの森の計画を邪魔したのも、貴様らだな?」
黒翼の男が、古竜の頭骨の上から私たちを見下ろし、嘲笑うように言った。
「その小娘が、欠片を浄化する力を持っているという聖女か? だが、遅かったな! この『絶望の古竜』はすでに完成した! 貴様らのような羽虫など、この古竜のブレス一発で——」
男の言葉は、最後まで続かなかった。
「——誰を見下ろしている、薄汚いカラスが」
私の斜め前で、セラが、かつてないほど低く、地獄の底から響くような声で呟いた。
「え?」
黒翼の男が、初めてセラの姿をはっきりと視界に捉え、その眼を驚愕に見開いた。
「お、お前は……ッ!? まさか、天界第一神徒……『断罪の剣』セラフィエル……ッ!? なぜ、神の最高戦力であるお前が、こんな地上の雪山に……!?」
堕天使である男は、かつて天界にいた頃のセラを知っていたのだろう。
彼の声には、先ほどまでの傲慢さが嘘のような、明らかな『恐怖』が混じっていた。
セラは、大剣を抜き放ち、ゆっくりと男に向かって歩みを進めた。
その背中から、猛吹雪を完全に打ち消すほどの、圧倒的で神々しい『白銀の闘気』が立ち昇る。
「……神の理に背き、次元の泥水を啜る羽虫どもが。我が主の愛した古竜の骸を汚し、あまつさえ、創造主たるリア様を『小娘』と呼んだな」
セラの瞳は、完全な「無」だった。
怒りすら通り越し、ただ目の前の存在を宇宙から消去するという、絶対的なシステムへと変貌している。
「そ、創造主、だと……!? ば、馬鹿な! その少女が、エリュシオン様だというのか!?」
男が信じられないというように私を見る。
私は、毛皮のコートのフードをゆっくりと下ろし、星空のような青い瞳で、黒翼の男を静かに見据えた。
「その欠片を、私の竜から返しなさい。さもなければ……」
私がほんの少しだけ『神威』を解放すると、猛り狂っていた黒い吹雪が一瞬にして静まり返り、霊峰の空間そのものが私の存在の前に平伏し、ピキピキと悲鳴を上げて凍りついた。
「ひぃっ……!!」
男は、神の圧倒的な質量と威圧感に耐えきれず、古竜の頭骨の上で無様に膝をついた。
私の横を音速で通り抜けたセラが、冷酷な死神の微笑みを浮かべて私に代わって宣告した。
「——さもなければ、このセラの剣が、貴様の魂を千の欠片に切り刻み、永遠の虚無へと放逐してやろう。神罰の時間は、今、始まったばかりだ」
雪深き霊峰の頂。
神の力を弄ぶ堕天使と、真なる創造主、そして天界最強の断罪の剣との、次元を超えた激突が、今まさに始まろうとしていた。
後に、著名な歴史家が自著で記した。
『神が私たちを愛してくれているとするならば、誰が神を愛すのだ』




