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第15話「大樹の深淵と、穢れを払う光」

エララの先導で、私たちは世界樹とも呼べる巨大な大樹の内部、その根元へと続く螺旋状の空洞を下っていた。


「……酷い空気ね。息が詰まりそう」


地下へ潜れば潜るほど、森の清浄な魔力は薄れ、代わりに肌を刺すような冷たく粘り気のある瘴気が濃くなっていく。

光苔が微かに照らす大樹の内部は、まるで病に侵された巨獣の胃袋のように、どす黒い脈を打って蠢いていた。


「リア様、私の結界から一歩も出ないでください。この不浄な大気、主様の美しい肺を微塵も汚さぬよう、私が無菌状態の空間を維持いたします」


私の斜め前を歩くセラは、周囲に絶対的な浄化結界を展開していた。

彼女が足を踏み出すたびに、足元にまとわりつこうとするドロドロの瘴気が「ジュッ」と音を立てて消滅していく。


「エララ殿も、リア様の御慈悲で結界内に入れて差し上げます。ですが、決して主様の御体に触れぬよう。……触れれば斬ります」

「ええ、感謝します、強き剣士よ」


セラの物騒な警告にも、エララは穏やかに微笑んで頷いた。

長命なエルフの長である彼女は、セラの異常なまでの強さと、私が纏う「ただならない気配」をすでに察しているようだった。

やがて、螺旋の階段が途切れ、広大な地下空間——『大地のへそ』へと辿り着いた。


「ああ……なんということ……」


エララが、両手で口元を覆い、悲痛な声を漏らした。


空間の中央には、大樹の最も太い主根が張り巡らされていた。

しかし、本来なら星の魔力を吸い上げ、黄金色に輝いているはずのその根は、ドス黒いヘドロのようなものに覆い尽くされ、無惨に腐り落ちかけていた。

そして、その腐敗の中心に陣取っていたのは、巨大な『毒蛾』と『百足むかで』を掛け合わせたような、おぞましい姿の魔物だった。


「ギィィ……チチチチッ……!!」


魔物の胸部には、私たちが探している青白い石——『創世の欠片』が深々と埋め込まれ、不気味な脈動を繰り返している。魔物は大樹の根に無数の管を突き刺し、森の生命力を根こそぎ啜り上げていたのだ。


「……あれが、森を枯らしている元凶」

「はい。以前から森に棲みついていた羽虫が、『欠片』の力で変異してしまったのでしょう」


エララが震える声で答える。

魔物が私たちの存在に気づき、巨大な毒の羽を広げた。

バサァッ!! と羽ばたくたびに、触れれば骨まで溶かすであろう猛毒の鱗粉が、吹雪のように空間を舞う。


「リア様、お下がりを。あのような醜悪な害虫、私が一瞬で塵に変えて——」


セラが大剣を抜こうと前に出た瞬間、エララが悲痛な顔で叫んだ。


「お待ちください、セラさん! あの魔物は、大樹の『主根』に完全に絡みついています。

もし強力な魔法や剣撃で根ごと吹き飛ばしてしまえば、大樹は……私の愛する森の子供たちは、今日を限りに死に絶えてしまいます!」

「……」


セラの動きが、ピタリと止まった。

魔導帝国での戦いと同じだ。圧倒的な破壊力を持つセラにとって、「周囲の環境(あるいは人質)を無傷で守りながら、敵だけを殲滅する」というのは、非常に厄介な枷となる。

魔物もそれを理解しているのか、「ギィィッ!」と嘲笑うような声を上げ、さらに深く大樹の根に爪を食い込ませた。


「……エララ殿。一つ、確認してもよろしいでしょうか」


セラが、大剣をだらりと下げたまま、静かに問いかけた。


「はい?」

「私の剣戟は、『破壊』に特化しております。山を吹き飛ばし、海を割ることは容易い。

ですが……リア様が、貴女の涙を拭うとお決めになった。我が主が『森を守る』と仰ったのです」


セラの纏う空気が、一変した。

絶対零度の殺気ではない。それは、天界最強の武神としての、研ぎ澄まされた『極致の集中』。


「ゆえに。大樹の根の表面、わずか一ミリ。それだけは削り取ることをお許しいただきたい。それさえあれば、私が——あの害虫の装甲と細胞だけを、空間ごと『薄切り(スライス)』にして差し上げます」

「え……?」


エララが呆然とする中、セラは深く息を吸い込んだ。


「——神技・『細氷さいひょう』」


刹那。


セラの姿が掻き消えた。いや、動いたことすら視認できなかった。

ただ、巨大な魔物と大樹の根が絡み合う空間に、幾千万もの『銀色の糸』が走ったように見えただけだ。


「ギ……?」


魔物が、何が起きたのか理解できずに硬直する。

次の瞬間。


パァァァァンッッ!!!!


巨大な毒蛾の魔物の体が、まるで砂の城が崩れるように、音もなく無数の極小の立方体となって崩れ落ちたのだ。

毒の鱗粉も、硬い装甲も、大樹に突き刺さっていた管も、すべてがミリ単位で切断され、塵となって空間に消えていく。

そして、その背後にあった大樹の主根は——。


「奇跡だわ……っ!」


エララが歓喜の声を上げた。

大樹の主根は、表面の腐敗したヘドロの層だけが綺麗に削り取られ、その奥にある健やかな木肌を全く傷つけることなく、無事に残されていたのだ。


「フッ……。天界最強の剣が、主の望む『手加減』一つできぬとでも思ったか、下等生物め」


大剣を優雅に鞘に納めながら、セラが冷たく吐き捨てる。

前回の魔導帝国で子供たちを盾にされ、私に手を出させてしまったことを、彼女はよほど悔やんでいたのだろう。密かに精密な剣撃の特訓でもしていたのかもしれない。


「すごいわ、セラ! 完璧なお掃除ね!」


私が拍手をすると、冷酷な武神は一瞬で顔を真っ赤にし、「も、もったいなきお言葉!! リア様の御為ならば、私は針の穴を通す剣閃すら習得してみせます!!」と尻尾を振る犬のようにデレデレになった。


だが、危機はまだ去っていなかった。


「……ああ、なんということ。遅かったのですね……」


エララが、再び絶望の声を漏らした。

空中に浮遊していた『創世の欠片』から放たれていた瘴気は、すでに大樹の主根の内部深くまで浸透してしまっていたのだ。

魔物を倒しても、根の奥からドクドクと黒い毒が溢れ出し、大樹の脈動が急激に弱まっていく。このままでは、木が内側から腐り落ちるのは時間の問題だった。


「私の命をすべて注ぎ込んでも、この穢れを浄化することはできない……。子供たち……許して、お母様を……っ」


エララが根にすがりつき、ボロボロと涙をこぼす。


(……なんて、悲しく、美しい涙なのだろう)


私は、エララの背中を見つめながら、静かに歩みを進めた。

自分の命が尽きる恐怖よりも、残される子供たちの未来を思って流す涙。それが、私がこの世界に望み、彼女たちが何万年もかけて育んできた「母の愛」の結晶だ。


「リア様」


セラが、私がこれから何をしようとしているのかを察し、静かに道を開けた。


「エララさん。退いていてちょうだい」

「リアさん……? 駄目です、貴女まで瘴気に当てられてしまいます!」


私はエララの言葉に微笑みで返し、どす黒く染まった大樹の主根に、そっと両手を触れた。


「——私が創った旋律うたを、何万年も忘れずに歌い継いでくれて、ありがとう」

「え……?」


エララの目が、驚愕に見開かれた。

私は目を閉じ、私の中に眠る『創世神としての権能』のストッパーを、今度は明確な意志を持って外した。


ただ威圧するのではない。

ただ破壊するのではない。


これは、万物を生み出し、慈しむための——『再生の光』。

私は、昨夜エララがバルコニーで歌っていた、あの美しい子守唄を口ずさんだ。

星の記憶の歌。

私が最初にこの大地に落とした、生命の旋律。

私の両手から、圧倒的で、しかしどこまでも温かく優しい『黄金色の光』が溢れ出した。

その光は、大樹の根を蝕んでいた真っ黒な瘴気を、朝露を溶かす太陽のように一瞬にして浄化していく。


「あ……あぁ……っ」


エララが、信じられないものを見るようにその場にへたり込んだ。

黄金の光は大樹の内部を駆け巡り、枯れかけていた枝葉の隅々にまで星の魔力を送り込んだ。

地下空間を満たしていた腐敗の匂いは消え去り、代わりに、むせ返るような清らかな百合と新緑の香りが満ちていく。

空中に浮かんでいた『創世の欠片』も、私の歌声に安らぐように光の粒子となり、私の胸の中へと還っていった。


「目覚めなさい。貴女の子供たちが、森で待っているわ」


私がそっと大樹を撫でると、ドクン、ドクンと、力強い生命の鼓動が森全体に響き渡った。

地下空間の天井から、浄化された美しい光の精霊たちが無数に舞い降り、私たちを祝福するようにクルクルと踊り始める。


「……奇跡だ。星の、始まりの光……」


エララは、私の背中から立ち昇る神々しい光のオーラを見つめながら、ポロポロと涙を流し、深く、深く平伏した。


「貴女様は……もしや……」


エララが震える声で尋ねる。長命なエルフの長である彼女の魂は、目の前にいる少女が何者であるかを、本能で理解していた。

私は振り返り、唇に人差し指を当てて、内緒話をするように微笑んだ。


「ただの、訳ありの旅人よ。……でも、貴女の流した涙の美しさは、これからの私の旅の、とても大切な道標になったわ。ありがとう、エララさん」


「……っ!! おお、なんという光栄……。この大樹の里のすべての命は、永遠に貴女様を讃え、愛し続けるでしょう」


エララは額を石の床に擦り付け、感謝と敬愛の涙を流し続けた。

私は、そんな彼女の長い銀糸の髪を、まるでマーサが私にしてくれたように、不器用な手つきでポンポンと優しく撫でた。


「さあ、帰りましょう。貴女の可愛い子供たちが、森の息吹が戻ったことを喜んで待っているわ」

「はい……っ、はい……っ!」


セラが、少しだけ誇らしげに、そしていつものように大剣を背負って私の後ろに立つ。


大樹の深淵に差し込んだ、穢れを払う黄金の光。


「森の母」の無償の愛に触れた私は、自分の中に芽生えつつある『家族を想う温かさ』が、また少しだけ大きく、強くなったのを感じながら、光に満ちた螺旋の階段を上り始めた。

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