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第1話「地に堕ちた女神と、過保護すぎる剣」

「——っ、痛い……」


背中をしたたかに打ち付け、舞い上がった土煙の中で、私は小さく呻き声を漏らした。

視界に広がるのは、何万年と見慣れてきた天界の無機質で完璧な白い天井ではない。青々とした木々の葉の隙間から、眩しいほどの太陽の光が幾筋も差し込んでいる。頬を撫でる風には、青臭い草と湿った土の匂いが混ざっていた。


それが、私が初めて味わう「人間界」の感覚だった。


あるじ様ッ!! ああ、なんということでしょう! 申し訳ございません、私の結界展開がコンマ一秒遅れたばかりに、主様の尊き御体に、このような薄汚い泥を……ッ!」


悲痛な叫び声とともに、私の隣に降り立った影が一つ。

亜麻色の美しい髪を振り乱し、血相を変えて私を抱き起こしたのは、私の第一神徒であるセラだった。彼女は天界最強の武神でありながら、今は大粒の涙をボロボロとこぼし、私の粗末な旅着についた土を震える手で必死に払っている。


「許せません……。主様の柔らかなお肌に衝撃を与え、あまつさえ土埃で汚すなど。今すぐこの不敬な大地を、地の底まで灰燼に帰し——」

「めっ、だよ。セラ。落ち着きなさい」


背中に身の丈ほどもある大剣を背負った美少女が、本気で世界地図を書き換えようとするのを、私は慌てて制止した。彼女の瞳に宿る冷たい怒りの炎は、決して冗談ではないのだから。


「私たちは、世界を滅ぼしに来たわけじゃないんだからね。むしろ、その逆でしょう?」

「ですが……! 主様が痛みを感じられるなど、天界の歴史においてあってはならない異常事態です! そもそも、貴方様自らがこのような穢れた地に降り立つなど——」

「それに、ここでは『主様』は禁止って言ったはずよ。私はただの訳ありの旅の少女、リア。そして貴方は、私の護衛のセラ。いいわね?」

「……承知いたしました、リア、様。ですが、せめて敬語は使わせてくださいませ。それだけは私の存在意義に関わります」

「ふふっ、まあ、おいおい慣れていってちょうだい」


私は苦笑しながら、まだ少しジンジンと痛む背中をさすって立ち上がった。


私が創り上げたこの世界は今、崩壊の危機に瀕している。

世界を構成する根源の力「創世の欠片フラグメント」が何者かの手によって砕かれ、人間界の各地に散らばってしまったのだ。欠片は強い欲望を持つ人間や魔物に寄生し、各地で異常な事件を引き起こしているという。

本来なら神が直接介入すべき事態ではないが、欠片の回収には創世神である私の権能が必要だった。世界への負荷を減らすため、あえて神としての絶大な力を天界に置き去りにし、こうして不自由で脆弱な人間の肉体を持ったのである。


(……それに、私にはもう一つ、確かめたいことがあったから)


私はそっと、自分の胸の奥に手を当てた。

天界から何万年もの間、人間の営みを見下ろしてきた。彼らは愚かで、争いばかり繰り返す不完全な生き物だ。けれど、時折見せる『無償の愛』の輝きだけは、全知全能であるはずの私にも理解できない、美しく眩しいものだった。


転んで泣き出した子供を、抱きしめてあやす母親の姿。

自分の身を挺してでも、我が子を守ろうとする親の姿。


私には、親がいない。


世界の始まりからただ独り、絶対的な存在として在り続けてきた。だからこそ、その『子を愛し、慈しむ』という温もりがどのようなものなのか、どうしても知りたかったのだ。神という座を離れ、ただの脆弱な少女「リア」として世界を巡れば、いつかその温もりに触れることができるのではないか。

そんな、神からあるまじき密かな渇望ねがいを、私は胸の奥底に隠し持っていた。


「さて、まずは一番近い人間の街を目指しましょうか。……おや?」


ふと、森の奥から低く濁った唸り声が響いた。

ガサガサと茂みを掻き分けて現れたのは、五頭の巨大な黒い狼だった。だが、通常の獣ではない。その体躯は熊のように大きく、瞳は赤く血走り、全身からヘドロのような黒い瘴気が漏れ出している。「欠片」の負の力にあてられ、理性を失った魔物だろう。


魔狼たちは、全く隙だらけで無防備な私を「極上の獲物」と認識したのか、汚い涎を垂らしながら一斉に牙を剥いて飛びかかってきた。

その鋭い爪が私の喉元に届く、その瞬間。


「——我が主に、気安く触れるな。下等生物が」


絶対零度の声とともに、銀の閃光が森を駆け抜けた。

ドサリ、ドサリと、重い肉塊が地面に落ちる音が響く。

空中に飛びかかっていた五頭の魔狼は、私に触れるどころか、その爪の先すら届かせることなく、一瞬にしてすべて真っ二つに両断されていた。

血飛沫の一滴すら私には届いていない。


「お怪我はありませんか、リア様。……やはり、このような理性のない獣が蔓延る地に、貴方様を下ろすなど、神徒として身を切られる思いです」


大剣を片手で軽々と振り抜いた姿勢のまま、セラが振り返る。

先ほどの涙目のポンコツぶりはどこへやら、その横顔は天界最強の武神の名にふさわしい、冷酷で圧倒的な凄みを帯びていた。


「見事な剣術ね、セラ。全然見えなかったわ。頼りにしてる」

「っ……!! も、もったいなきお言葉でございます、リア様っ!!」


私が微笑みかけて手を叩くと、冷酷な武神は再び一瞬にして顔を真っ赤に染め上げた。背中に見えない犬の尻尾がパタパタと千切れんばかりに振られているのが見えるようだ。

この落差の激しい過保護な護衛がいれば、私の初めての人間界の旅も、どうやら退屈せずに済みそうだった。


「さあ、行きましょうか。ここからが私たちの、長い長い旅の始まりよ」


木々の隙間から、遠くに城壁に囲まれた人間の街の屋根が見える。

天から堕ちた世間知らずの女神と、過保護すぎる断罪の剣。

世界の理を繋ぎ直し、そして私自身が持つ「心の欠落」を埋めるための果てしない旅路が、今、静かに幕を開けたのだった。

彼女たちの物語が、多くの人に知られますように。

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