SAPPHIRE
三週間前のあの日
真っ黒な分厚い雲がさっきまでそこに佇んでいたのに
急に雲間から光がさしたあの日
いつも透き通った青色をしているのに
ルビーのような色をしていたあの日
海が、 を包み込んだ
の事をもう僕以外の誰も覚えていない
僕ならおそらく一生忘れもしないはずだ
しかしこの記憶は消えてしまう
抗う事は出来ないんだ
だからここに書き留めておこうと思う。 の生きていた証拠を、遺しておくために
~ ~ ~
僕らの住む街を取り囲んでいる海は蒼玉海だ。
この海は、透明度の高い事とサファイアのような、透き通った深い青色をしていることで有名だった。そして付いた海の別名は
「Marine SAPPHIRE(サファイアの海)」
~ ~ ~
僕らの住む島は、孤島だ。
僕らの住んでいる小さい町は、本土から二時間半かけて朝と夜しか無い高速連絡船で来る必要がある。まぁ、簡潔に言っちゃえば、それほどに離れている孤島であるという事だ。それにこの島にはホテルや旅館、民宿などの宿泊施設は一軒もない。無茶苦茶交通の便が悪いにも関わらず、それを目当てに訪れる観光客も少なくはない。
それほど蒼玉海は綺麗なのだ。
~ ~ ~
蒼玉海は、ある理由があり遊泳・入水は禁じられている。
だけれども、時折蒼玉海に入ろうとする人もいた。勿論、実際に海に入る人もいた。その人たちは何かに操られたようにまるで人魚のように海と戯れ鯨のように深いところへと潜っていき、一度潜ってしまえば戻ることは無く死体ですらも見つからない。この島にはホテルや旅館、民宿などの宿泊施設は一軒もないので、本来ならば来た人全員が帰りの連絡船に乗るはずだ。それにもかかわらず、帰りの連絡船に乗る人が明らかに行きの連絡船に乗ってきた人よりも少ない。それを僕はずっと不思議に感じていた。
その理由を知る、あの日までは。
~ ~ ~
蒼玉海は人が消える海、それが島内にのみ存在するはずの口伝だ。
人が消えているという事を何処となく感じとっている町の年寄りにはその良い名前とは真逆の別名でこの海は知られている。
「蒼玉海は、人が消える海だ、『消滅海』だ、」と。
~ ~ ~
僕がついこの間まで知らなかった事がある。
とある界隈では、あの口伝が誰かによって伝えられているため蒼玉海は『消滅海』として、かつその界隈の人たちが「さいごに」が向かう海として知られており、その界隈の名所にもなっているそうだ。『消滅海』の特性を利用したいのだろうというのが僕の予想だ。
だから僕は今までに『観光』をするために来る旅行者の中に紛れて『そういう人たち』が含まれていたのかもしれないと思った。
もしかしたら もそういう人だったかもしれないと思っていた。
~ ~ ~
は蒼玉海の波打ち際でよく言っていた。
「蒼玉海はね、人を他の人の記憶だけでなく、この世界の記憶すらからも消し去ってしまう海なんだよ。」
そう言っている は心なしか悲しそうな顔をしていたので、僕はそれを不思議に思い、 に聞いた。
「…私も知らないんだけど。」
そう言って は悲しそうに笑っていた。どうやら、 も詳しくは知らないらしい。それなら何でこんなこと言ったんだ、と思ったがそれ以上言及しないことにした。
だから実際の所、本当のことは僕以外誰も知らないはずだ。
~ ~ ~
記憶力のいい僕ですらある人の存在以外全てを忘れることがある。
僕の通っていた学校は、人数が少ないので幼稚園から中学校までが合併されていた。クラスは各学年一クラスしか無い。それに一クラスは二十人にも満たない。だから人の顔と名前を覚えるのが凄く得意な僕にとっては、約二百四十人を覚えるなんて事、朝飯前だった。それなのに時折、『誰か居たはずなのに名前も顔も思い出せない』と思うことがある。勿論、誰かが転校したわけではない。だって転校したなら必ずお別れ会を開くはずだから。でも、直近でお別れ会をしたわけでもないのに『誰か居たはずだ、』と思う。なのに、他の人に聞いても皆が口を揃えて「そんな人なんていなかったよ笑」と僕のことを嘲笑う。しかし全員の名前が書かれている名簿が不自然に、まるで誰かが消されてしまったように空いていることがあった。それに、何度も。
それは確実に誰かが『消滅』してしまったことを示唆していた。
~ ~ ~
と出会ったのは中学三年の九月のことだった。
はどうやら遠い大都市にある別の学校から遥々転校してきたらしかった。今越してくるんじゃなくて高校から転校してきればいいのになんて思ったのは勿論誰にも言っていない。
には何か特別な事情があったんだろう、と察した。
~ ~ ~
転校生は決まっていつも興奮げに『Marine SAPPHIRE』と言う。
それなのに、 は何も教えられていないはずなのに忌々しく『消滅海』と呼んだ。あの時は上からたらいが落ちてきたぐらいに、本当にびっくりした。びっくりしたのは勿論僕だけじゃない。クラスメイトも、なんなら先生までもがびっくりしていた。きっと は、引っ越してくる時に親か誰かに教えてもらっていたのかもしれないねとみんなは口にしていた。
それは、大きな間違いだったことも知らずに。
〜 〜 〜
無口な はよく僕を連れて海に行った。
何故僕を選んだのかは分からないが、 はいつも決まって僕を連れて行った。僕も別に特段 と仲が良い訳では無かった。でもいつも決まって は僕を連れて行った。最初に誘われた時には、僕は「先生に怒られるし、危ないよ。」と諭した。にもかかわらず、 はさも当たり前かの様に、「知ってるけど、私は行かなきゃいけないの。」と怒ったように即答した。あんな風に口にするのはあれが初めてのことだった。僕は驚いた。だって抑揚の付いた彼女の声を聞いたのも、あれが初めてだったから。
でも、それには理由があるって事も、僕らはみんな知らなかった。
~ ~ ~
はいつも紙に文字を書いてコミュニケーションを取っていた。
が場面緘黙とかいうものでは無かった。それを本人が否定したわけでは無いが、 はみんなの前で自己紹介をした時に声を出していたからそれは自明だ。僕はそんな を、自分の声が嫌いとかで声を出さないようにしているのではないかと想像していた。でも と消滅海に行った時は の声を聞くことが出来た。だからどうやら想像していたのとは違う理由らしい、という事だけが僕には分かった。
考えられようもない狂った理由だっていう事を僕らは知らなかった。
~ ~ ~
この島には、県内唯一の孤児院がある。
僕がここに入ったのは九歳の九月ごろで、その頃からずっと変わらず、とても眺めがいい。それもそのはず、蒼玉海に面しているから。
だから、その眺めの良さを生かして、親を亡くし心を病んだ子供たちが心の療養のためにここに来ることが珍しくない。
僕は今でも のこの島に来た理由が腑に落ちないままだ。
~ ~ ~
が引っ越してきた日 は何故か、この孤児院に来た。
孤児院に来ているはずなのに、隣にはお父さんのような薄汚い人が薄ら笑いで立っていて、 の肩に手をのせていた。その人は、目の底が死んだ魚のように濁っていて、それなのに笑っていて怖い。その人と同じく は薄汚い服をしていて、その人に乗せられた手に怯えていた。すると、うちの施設の人がその人にお風呂に入れると言い放ち をそのお父さんらしき人から引きはがした。あの必死な施設の人たちの顔を僕は忘れないだろう。きっと は虐待を受けていたに違いない。それもそのはず、 はお風呂に入った後に親に殺されるから、と言って、また家に帰っていったのだ。
その時の彼女は、助けて、と目が物語っていた。
~ ~ ~
は僕に色んな事を隠していると何度も思った事がある。
二人で消滅海に行くと必ず、 はいつも何かの言葉を口にする。口が動いているのが分かるが、いつも決まって海のさざ波に掻き消されて何を言っているのか分からない。でも、いつもその途端に消滅海がざわつき始め、レモン汁を入れられたバタフライピーのように赤く染まる。しかし、僕が に何度もその事を聞いても は決まって言葉を濁す。
ごめんね。
きっと、 にとって、隠さなきゃいけない事なんだよね。
ごめんね。でも僕は知ってるんだ。
それは『消滅海』が人を飲み込む前兆だってことを。
何故僕がそれを知ってるのか?
僕は、見たことがあるんだよ。
赤くなった『消滅海』に入っていく夫婦を、ね。
~ ~ ~
僕の両親は、もうこの世には居ない。
みんなに心配されるが、張本人である僕は寂しさも苦しさも感じない。こんなこと言ったら先生に怒られてしまいそうな気もするが、僕には常人には存在するべき感情が欠落してしまった欠陥品なんじゃないかって思う事がある。それぐらいに、両親を亡くして泣いた記憶もない。でも、これには理由がある。
誰にも言えない理由が僕にはあるんだ。
~ ~ ~
僕は、僕が消滅海の秘密を唯一知っている人だと思いこんでいた。
に出会う前までは、そう思いこんでいた。目の前で、知らない言葉を口にして、サファイアを変えてしまうまではそう思いこんでいた。何故 がこの秘密を知っているのかは僕も分からない。けれどなんとなく分かるような気がする。
何故かは知らないけど。
〜 〜 〜
はだんだんと、僕と一緒に蒼玉海に行く日を増やしていった。
海風が吹き荒れる海岸で、彼女のはたはたと力なくはためくスカートの下にある大きな痣が見え隠れする。おどおどする僕に は、「気にしないで、」と言った。でも、気にしないことなど不可能に近い。だから僕は問うようにもう一度 の瞳を見つめた。それでも は、力なく笑いながら人差し指を口にあてた。それからというもの、僕は の言う通りに黙って、見て見ぬふりをしていた。
今思えば、それは大きな間違いだった。
〜 〜 〜
が越してきて三年が経ったあの日。 は学校に来なかった。
先生から「君が一番 さんと仲が良さそうだから、」とプリントを届けるよう言われた。僕は一度家に帰って制服から着替えてから先生に教えてもらった の家の住所を頼りに自転車で の家へと向かった。何度も と一緒に蒼玉海に行っているものの、初めて の家に行ったのは、きっと先生も知らないんだろう。 の家に着いた時、まるでそこには誰もいないかのように、やけにしんとしていた。ドアのチャイムを押したが、応答がない。 はここには、いない。そう思った瞬間、 が居そうな所を思い出した。僕は即座に自転車に跨り、全速力で向かった。
空は今にも雨が降りそうだった。
〜 〜 〜
海辺が近くなった時、海の方から甘ったるい変な匂いがした。
微かに見える蒼玉海は通常時のサファイアとは程遠く、まるでルビーのような赤い色をしていた。俗に言う赤潮というものではない。透き通っている赤色。目を擦るが、依然としてその色は変わらない。夢じゃない。現実だ。空の黒と相まってまるで世紀末のようだった。僕の両親が心中した時とは違う、あの時よりも、もっと、もっと赤く、ずっと透き通っていて、海底まで容易に見えてしまうような、そんな赤色だった。
~ ~ ~
それはまるで、世紀末だった。
こんな世紀末を創っているのは、 だ、と僕は気づいた。 は色の変わったまるでルビーのような赤色になった消滅海の波打ち際に立っていた。そして、 はいつもとは違う、裾が赤色に変色した無地の青色のワンピースを着ていた。僕は自転車を乗り捨て、思わず彼女の元へと駆け寄った。海の方を向いていた は、僕の足音が聞こえたのか、こちらへ振り向いた。 は僕を呼び、続けてこう言った。
「この世界って、不条理よね。」
その時の の顔は全てを知りすぎた無実の人の顔をしていた。そんな の顔と目を見ると、僕はYesともNoとも言えないまま立ちすくんだ。そして僕は間を消すためだけに分かりきったことを に訊いた。
「どうして、 はここに来たんだ。」
そう聞く事だけしか僕には出来なかった。
「知ってる? この海はね、百年に一度、生贄が必要なの。」
彼女はそう言って悲しそうに笑った。
そしてその海は魚の様に を飲み込んだ。
サファイア
・九月の誕生石
・和名 蒼玉
・石言葉 真実
・ルビーとサファイアは同じ「コランダム」という鉱石である。
ルビー
・七月の誕生石
・和名 紅玉
・石言葉 自由
・ルビーの色が変わると持ち主に不幸が訪れると言われている。
・ルビーとサファイアは同じ「コランダム」という鉱石である。




