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第8話 200シルバーと、二つの月

 商業ギルドを出た俺は、ずしりと重みを増した革袋を握りしめた。


 中には、200枚のシルバー硬貨。俺がこの世界に来て、初めて自分の力で稼いだお金だ。


「200シルバー……」


 これがどれほどの価値を持つのか、まだ実感はない。だが、ギルドの班長ダリウスさんの驚きようや、受付のリーナさんの安堵したような笑顔を思い出すと、決して少ない額ではないことだけは確かだった。


 街は夕暮れのオレンジ色に染まり始めていた。行き交う人々の活気はまだ残っているものの、日中の喧騒は少しずつ落ち着きを取り戻している。俺は今日の寝床を探すため、石畳の道をゆっくりと歩き始めた。


 いくつか通りを曲がった先で、木製の看板に「風見鶏の宿」と書かれた宿屋を見つけた。三階建ての、いかにも旅人向けといった感じの素朴な建物だ。よし、ここにしよう。


 少しだけ緊張しながら木の扉を押すと、カラン、と軽やかな鐘の音が鳴った。中はランプの温かい光に満ちていて、木のテーブルと椅子がいくつか並んでいる。奥のカウンターには、人の良さそうな恰幅のいいおじさんが座っていた。


「いらっしゃい。お客さん、泊まりかい?」

「あ、はい。一泊、お願いできますか?」

「おう、いいとも。一泊二食付きで、シルバー硬貨12枚だよ」

「12枚……」


 思わず、革袋を握る手に力が入った。


 12シルバー。


 ということは、手持ちの200シルバーがあれば、計算上は16泊もできることになる。ポーション1個で、一泊と二回の食事がまかなえる。俺が思っていた以上に、あのポーションは価値のあるものだったらしい。


「お願いします」

「あいよ」


 俺は革袋から12枚の銀貨を取り出し、カウンターに置いた。チャリン、という硬貨の音が、なんだか妙にリアルに響く。


「ちょうどだね。夕飯はもうできてるから、そこの食堂で食べていきな。部屋は二階の突き当りだ」


 おじさんから古びた鍵を受け取り、まずは食堂のテーブルについた。すぐに、女将さんらしき女性が食事を運んできてくれる。


 木製の皿の上には、こんがりと焼かれた肉の塊と、黒っぽいパンが二つ。それと、野菜がごろごろ入ったスープ。実にシンプルだが、腹ペコの俺にはごちそうに見えた。


「いただきます」


 まずは肉にかぶりつく。少し硬いが、噛むほどに旨味が出てくる。


 獣の肉だろうか、独特の風味があるが悪くない。スープは塩味で、野菜の甘みが溶け込んでいて体に染み渡るようだった。


 そして、問題はパンだった。


 手に取ると、ずしりと重い。見た目からして硬そうだとは思っていたが、一口かじって、俺は思わず動きを止めた。


「……かっっった!?」


 なんだこれ。石か? アゴが砕けるかと思った。


 あまりの硬さに、ちょっと笑いがこみ上げてくる。


 これが、この世界のスタンダードなのか?


 俺はスープにパンを浸し、ふやかして食べる作戦に切り替えた。


 それでもなかなかの歯ごたえだったが、小麦の素朴な味がして、これはこれでおいしいのかもしれない、と思い直した。

 食事を終え、鍵を使って二階の部屋に入る。


 部屋は広くはない。ギシリと音を立てる木製のベッド、小さな机と椅子、それから水差しと盃が置いてあるだけだ。だが、きちんと掃除されていて清潔感がある。


 ベッドに腰掛けてみると、マットレスは藁か何かだろうか、少しゴワゴワした感触がした。


 でも、草原で魔物に襲われたことを思えば、屋根と壁があって、鍵のかかる部屋で眠れるだけで天国だ。


 ふう、と息をついて、俺は窓辺に歩み寄った。木の窓枠をそっと押し開けると、ひんやりとした夜風が頬を撫でる。


 そして——俺は、息を呑んだ。


 空には、月が二つ浮かんでいた。

 一つは、俺が知っているのと同じ、穏やかな光を放つ銀色の月。


 そして、その隣には、ひと回り小さな、どこか儚げな青い月が寄り添うように輝いている。


「……ああ、そうか」


 頭では理解していた。異世界に来たのだと。


 でも、この二つの月を見た瞬間、その事実がストン、と胸の奥深くに落ちてきた。


 ここは、俺のいた世界じゃない。もう、帰れない場所なんだ。


 幻想的で、吸い込まれそうなほど美しい光景なのに、胸の奥がきゅっと締め付けられるような寂しさを感じた。


 一人なんだ、と。この広大な世界で、たった一人なんだと。


 その時、ふと脳裏にリーナさんの顔が浮かんだ。


『本当ですか!? ありがとうございます、ヒナト様!』


 俺がポーションの定期納品を約束した時の、あの満面の笑み。青い瞳がキラキラと輝いていて、見ているこっちまで嬉しくなるような、そんな笑顔だった。


「……一人、じゃない、か」


 まだ会ったばかりの、ギルドの受付嬢。


 それだけなのに、彼女の存在が、この孤独な夜に小さな灯りをともしてくれた気がした。


 人とのつながり。


 俺が日本で当たり前に持っていたものが、ここではこんなにも温かく感じられる。


 窓を閉め、机の椅子に座る。ランプの頼りない光が、部屋に俺の影を落としていた。


 さて、これからどうしようか。


 やることがない。


 日本にいた頃は、この時間はテレビを見たり、スマホでゲームをしたり、ネットを見たりして過ごしていた。だが、ここにはそのどれもない。あるのは、静寂と、考える時間だけだ。


「ちょっと……退屈、だな」


 ポツリと、本音が漏れた。便利な娯楽に慣れきった体には、この静かすぎる夜は少しだけ手持ち無沙汰だ。


 俺はこれからのことを、ぼんやりと考え始めた。


 スキル【ポーション生成】は、間違いなく強力だ。MPは時間で回復するだろうし、1日に10個までという制限はあるが、今日の様子ならEランクでも十分に生計を立てていけるだろう。


 リーナさんとの約束通り、週に一度ギルドに納品すれば、安定した収入は得られるはずだ。


 問題は、戦闘能力がゼロだということ。


 今日のように、街の外で魔物に襲われたらひとたまりもない。


 あの時は運良く逃げられたが、次も同じとは限らない。ポーションをいくら持っていても、使う前に殺されたら意味がない。


「やっぱり、街を拠点にするのが安全か……」


 しばらくはこの街で暮らし、情報収集をするのがいいだろう。ポーションの相場や、この世界の常識、危険な場所。知らなければいけないことが山ほどある。


 仲間を見つける、という神様の言葉も頭をよぎるが、どうすれば信頼できる仲間なんて見つけられるのか、見当もつかない。


「まあ、焦っても仕方ないか」


 考えはまとまらない。でも、今はそれでいいのかもしれない。


 まずは、明日だ。明日、この街をもっと歩いてみよう。どんな店があって、どんな人々が暮らしているのか、この目で見て確かめよう。


「よし」


 俺は立ち上がり、ベッドに潜り込んだ。


 硬いパン、質素な部屋、そして、空に浮かぶ二つの月。


 ここは俺の知らない世界だ。不安も寂しさもある。


 でも、俺には誰かを助けられる力がある。そして、その力を必要としてくれる人がいる。


 それだけで、前に進む理由としては十分すぎる。


「二つの月が照らすこの世界で、俺は、俺の明日を探す。」


 俺は静かに目を閉じた。明日、何が待っているのかは分からない。それでも、不思議と心は穏やかだった。

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