第44話 歌姫 最終話【カナリア視点】
その夜、劇場の舞台袖。
照明の熱が肌を撫でる。木の匂い。汗の塩味。客席のざわめきが、幕の向こうから波のように押し寄せてくる。
私は深呼吸した。
4つ吸って、6つ吐く。
顎の力を抜く。舌根を浮かせる。胸骨の上を開く。
心臓が、早鐘のように打っている。
指先が冷たい。けれど、震えてはいない。
この瞬間を、私は何度夢に見たことだろう。
再び舞台に立つこと。再び歌うこと。
その夢が、いま、現実になろうとしている。
目を閉じる。
暗闇の中に、たくさんの顔が浮かぶ。
声を失った日、泣き崩れた私を抱きしめてくれた友人。「焦らなくていい」と言ってくれたボイストレーナー。遠くからエールを送り続けてくれたファン。
そして――ヒナト。
私の呼吸を聴き、沈黙を理解し、命を返してくれた人。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
怖さは、ある。今でもある。
また壊れてしまうかもしれない。また誰かを失望させてしまうかもしれない。
それでも。
それでも、私は歌いたい。
恐れごと抱えて、光のほうへ進みたい。
「――カナリアさん、出番です」
スタッフが呼ぶ。
私は目を開ける。
息を吸う。吐く。
胸に手を当てる。鼓動が、力強く応えてくれる。
私は、舞台へ歩み出た。
照明が、一斉に私を包む。
客席の闇の中に、無数の瞳が光っている。
静寂。
張り詰めた空気。
私は、立つ。ただ、立つ。
そして、最初の音を――
声が、出た。
震えながら、でも確かに、声が出た。
音符が連なり、旋律になる。
旋律が重なり、歌になる。
歌が響き、空間を満たしていく。
ああ、これだ。
この感覚だ。
声が身体を通り抜けていく感覚。
音が空気を震わせ、人の心に届く瞬間。
私は、歌っている。
失った時間も、流した涙も、すべてを抱えて。
傷ついた喉も、怯えた心も、すべてを連れて。
高音に差し掛かる。
一瞬、喉が緊張する。
けれど――。
胸に手を当てる。ヒナトがくれた、あの合図。
呼吸が、深くなる。
力が、抜ける。
声が、伸びる。
音が、届く。
最後のフレーズ。
私は、すべてを込めて歌った。
失われたもののために。
戻ってきたもののために。
そして、これから紡がれるもののために。
音が、消える。
余韻が、静かに溶けていく。
沈黙。
そして――
終演。
拍手が、波のように押し寄せる。
轟音のような、それでいて温かな音。
客席のあちこちで、人が立ち上がる。
拍手が、鳴り止まない。
涙が、頬を伝う。
私は何度も、何度も頭を下げた。
ありがとう。
聴いてくれて、ありがとう。
待っていてくれて、ありがとう。
もう一度、この場所に立たせてくれて。
やがて、幕が下りる。
音が、遠ざかっていく。
私は深く息を吸い、舞台袖へ戻った。
そこに、ヒナトが立っていた。
目が、合う。
彼は、何も言わない。
ただ、静かに微笑んでいる。
その瞳の中に、すべてが映っている。
私の歌。私の呼吸。私の、いま。
私は胸に手を当てる。
彼も、胸に手を当てる。
――ありがとう。
命を返してくれて。
時間を返してくれて。
歌を返してくれて。
初めて歌った夜の楽しさも。
期待に潰れた時の痛みも。
舞台を降りた日々の寒さも。
声が出なくなった朝の絶望も。
リハビリ室で流した涙も。
ひとつひとつ、息を吹きかけてくれたあなたの優しさも。
全部が一気に、胸へ押し寄せる。
でも、溺れない。
もう、溺れない。
それでも私は歌う。
怖さごと抱えて、灯りのほうへ。
あなたがくれた合図を、お守りにして。
何度でも、立ち上がる。
何度でも、声を出す。
何度でも、歌う。
言葉は、いらない。
呼吸が、合っている。
それだけで、十分だった。
ヒナトがゆっくりと頷く。
私も、頷き返す。
廊下の向こうから、スタッフの笑い声が聞こえる。
誰かが「お疲れさま」と声をかけてくれる。
劇場は、温かな余韻に包まれている。
夜、自室の窓辺。
譜面を広げる。
新しい曲の二小節目が、ふと降りてきた。
鉛筆を走らせる。
音符が、少しずつ連なっていく。
最初は小さな点だった音符が、線で結ばれ、旋律の形を成していく。
不思議だ。
こんなにも自然に、音が降ってくる。
こんなにも素直に、手が動く。
かつて、歌うことが苦しみだった日々。
声を失って、音楽が遠ざかった日々。
それらすべてを経て、いま、私はここにいる。
窓の外から、子供の口笛が聞こえた。
昨夜の歌を、なぞっている。
少し音程が外れている。でも、嬉しそうだ。
声は、巡る。
歌は、誰かの心に残り、また誰かの口から生まれ、街を巡っていく。
それはきっと、終わらない。
止まらない。
私が歌う限り。
誰かが聴いてくれる限り。
歌は、戻ってくる。
何度でも、形を変えて。
何度でも、新しい色で。
私は、また歌う。
何度でも、灯りのほうへ。
譜面に、もうひとつ音符を書き加える。
それは小さな希望の粒。
それは新しい物語の始まり。
そして――
終わらない、歌の続き。
窓の外、夜空に星が瞬いている。
風が、優しく頬を撫でていく。
私は微笑む。
明日も、歌おう。
明後日も、歌おう。
怖さも、喜びも、痛みも、温もりも。
すべてを声に乗せて。
すべてを歌に変えて。
灯りのほうへ。
ずっと、ずっと。




