第43話 歌姫 その10【カナリア視点】
【カナリア視点】
目覚める前に、喉が先に目覚めた。
息を吸う。喉の奥に、冷たさはない。舌根が浮いている。軟口蓋の奥に、細い風の道が通っている。
私は窓を指一本だけ開けた。外の空気を、ゆっくりと4つ数えて吸う。6つ数えて吐く。
「……戻ってる」
私は舌をそっと上顎に預け、鼻腔に細い風を通す。半音で「ミ→ファ」を微かにハム──朝はこの二音で、喉の縫い目がほどけるかを確かめる癖がある。
昨夜の舞台は、夢じゃなかった。
部屋のドアをノックする音。
「カナリア、入るよ」
ランディが、温かい蜂蜜水を持って入ってきた。私のマネージャー。穏やかで、いつも私の一歩後ろを歩いてくれる人。
「喉の調子は?」
「……うん。大丈夫。すごく調子が良い。ヒナトさんのおかげ…。」
彼は椅子に座り、私の目を見た。
「約束しよう。無理はさせない。君の速度で進む」
「ありがとう」
守られることが怖かったあの頃。今は、守りに支えられて前を向ける。
窓の外から、市場のざわめきが聞こえてくる。
午前、私は街を歩いた。
市場の路地を通ると、八百屋のおじさんが鼻歌を口ずさんでいた。昨夜、私が歌った旋律。
「おや、カナリアさん。昨日は素晴らしかったよ」
「ありがとうございます」
彼が笑う。その笑顔が、温かい。
宿屋の前を通ると、子供たちが遊んでいた。彼らも、私の歌を口笛で真似している。
音が、巡っている。
私が歌った音が、この街に戻ってきている。
宿の入り口に、小さな手紙が何通か置いてあった。
『声が戻って良かった。また聴かせてください』
『あなたの歌で、亡くなった母を思い出しました。ありがとう』
『次の舞台を楽しみにしています』
一通一通、胸に染みる。
私は手紙を抱きしめた。
午後、劇場の稽古場へ。
譜面台の前に立ち、ストールを喉に乗せる。水を一口、ゆっくりと飲む。舌が水を受け止め、喉が温まる。
「ん〜〜……」
ハミングから始める。
喉の奥に、水路が通る感覚。音が、胸から頭へ昇っていく。
「あ……い……う……」
母音が、形を取る。舌根が浮き、口腔に空間が生まれる。
「ドーレーミー……」
短い旋律。音が、ちゃんと響いている。
――初めて歌った日。
喉が震える感覚が、こんなにも嬉しかった。
誰かに届く音を出せることが、奇跡みたいに思えた。
私は、譜面に小節を鉛筆で置いた。新しい曲が、少しずつ形になり始めている。
稽古が終わると、ランディが稽古場に入ってきた。
「どうだった?」
「……調子、いいです」
「無理はしてない?」
「してない。本当に」
彼はため息をついた。でも、安堵のため息だった。
「今日の段階なら、週末の公演はまだ見送りでもいい」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「観客席の笑い声が……また聴きたいの。歌い始めた頃の私が、ここにいるうちに」
ランディが、静かに微笑んだ。
「わかった。段取りは僕が作る。君は歌にだけ集中して」
責任の重さを知る人の言葉は、こんなにも軽やかに私を歩かせる。
「ありがとう、ランディ」
昔は「止められる」のが怖かった。今は「支えられる」から一歩出せる。
「どういたしまして」
夕方、ギルドのラウンジへ。
ヒナトたちがテーブルに座っていた。クロエ、リーシャ、そして小さなハク。
「来てくれたんですね」
リーシャが笑顔で迎えてくれる。
「はい。お礼を、言いたくて」
私はヒナトの前に立った。
「あなたのおかげで、私は声を取り戻しました。本当に、ありがとうございます」
「いえ。俺は、ただ――」
「これ、受け取ってください」
私は小さな包みを差し出した。中には、紺色の細いリボン。舞台衣装に映える、共鳴色。
「これは?」
「お守りです。あなたが誰かを救う時、少しでも力になれたら」
ヒナトが、リボンを手に取った。
「……ありがとうございます」
「きれいなこえ〜ぷるぷる〜」
ハクが嬉しそうに跳ねる。私は思わず笑った。
「ハクも、ありがとう」
「ぷるぷる〜」
クロエが腕を組んで言った。
「また歌うんだろ?」
「はい。今度は、もっと強く」
「楽しみにしてるぜ」
リーシャが手を重ねた。
「応援しています」
私は、胸に手をそっと当てた。ヒナトも、同じように胸に手を当てる。
言葉は、いらない。
この合図が、私たちを繋いでいる。




