第33話 歌姫 その9
――歌い始めたあの日。
初めて声を出した時の、胸の高鳴り。
初めて拍手をもらった時の、掌の温かさ。
人前で歌う喜び。誰かの笑顔を灯す、あの感覚。
それが、ある日突然――
――冷たい視線に変わった。
「歌えないなら、舞台に立つな」
そう言われた夜。
それでも。
それでも、私は――
「――本当は、もう一度、あの灯りの下で歌いたい!!」
彼女が呟いた。日記に書いたあの言葉を、今、声にした。
「ファ……ソ……ラ……」
音が通る。喉から、口腔へ、頭へ。
共鳴が広がっていく。
「シ……ド……」
一オクターブ。
彼女が、目を開けた。
「……歌える」
「ええ。歌えます」
俺は、小さく頷いた。
夕暮れ。
劇場の舞台袖。
カナリアは衣装を整え、深呼吸を繰り返している。セドリックが彼女の肩に手を置き、何か囁いた。彼女が頷く。
クロエは柱に寄りかかり、腕を組んで警戒している。リーシャは手を組み、静かに祈るように目を閉じている。
リーナが俺の隣に立った。
「緊張しますね」
「ああ」
俺はカナリアの方を見た。彼女も、こちらを見ていた。
二人、同時に胸に手を当てる。
言葉はいらない。
彼女が微笑んだ。俺も、小さく頷いた。
照明が落ちる。
客席が、息を飲んだ。
舞台中央に、一筋の光。
カナリアが、ゆっくりと歩み出る。
無伴奏。
最初は、ハミング。
「んーー……」
微かな、でも確かな音。
舞台の板が、小さく軋む。照明の熱が、彼女の頬を照らす。
客席の誰かが、息を止めた。
「――風よ 優しく吹いて」
彼女の声が、空気を震わせる。
「――消えかけた灯りを 連れ帰って」
一音一音が、会場に響く。
俺の力は、人を救うためにある。
胸の奥で、そっと頷いた。
「――夜が明けたら また歌おう」
「――あなたの名を 呼びながら」
間奏。
客席のすすり泣きが、聞こえた。
ラストサビ。
「――風よ 優しく吹いて」
「――忘れた温もり 思い出して」
「――灯りが消えても 怖くない」
「――あなたの声が ここにある」
最後の音が、天井へ昇っていく。
静寂。
そして――
拍手。
波のように、会場を満たす拍手。
カナリアが、涙を流しながら深く頭を下げた。
舞台袖。
彼女が戻ってくる。
俺と目が合う。
胸に手を当てる。
彼女も、同じように胸に手を当てた。
微笑む。
言葉は、いらなかった。
その夜、街には歌が戻った。
酒場から聞こえる楽器の音、通りを行く人々の鼻歌、子供たちの笑い声。
俺は宿の窓から、その温かな夜景を眺めていた。
「よかったな」
クロエが隣に来た。
「ああ」
「ヒナト、泣いてたろ」
「……泣いてない」
「嘘つけ」
リーシャがくすくすと笑う。
俺は、小さく笑った。
人を救う。
それが、俺の使命だ。
そして今夜、一つの灯りを取り戻せた。
それだけで、十分だった。




