第32話 歌姫 その8
朝の光が、控え室の窓から差し込んでいた。
俺は床に白い粉で浄化陣を描き、その中心にカナリアが座る椅子を置いた。リーシャが薬草を焚く香炉を四隅に配置し、クロエが窓の開閉を調整して湿度を整える。
「指が吸い付くような空気……これでいい」
俺は手のひらを広げて確かめた。温度は少し高め、湿度は喉に優しい七割ほど。タイムとカモミールの香りが、ゆっくりと部屋を満たしていく。
「準備、できました」
リーシャが小さく頷く。
「カナリアさん、どうぞ」
マネージャーのセドリックに付き添われて、彼女が入ってきた。青白い顔、震える手。でも、目だけはまっすぐ俺を見ていた。
「……お願いします」
「任せてください」
俺は椅子に座る彼女の前に膝をついた。
「ハク、頼む」
「ぷるぷる〜」
ホワイトスライムが彼女の喉元に近づく。【痕跡解析】が静かに起動した。空気が微かに震え、喉の周囲に薄い光の筋が浮かび上がる。
「これが……」
「沈黙刻印の痕と、冷たい毒の残り香です」
光は蜘蛛の糸のように細く、喉仏の左側に絡みついている。カナリアが息を吸うたび、その糸がきゅっと締まるように見えた。
「リーシャ」
「はい」
彼女が杖を構え、目を閉じる。詠唱は短く、でも一音一音が丁寧だった。
「【光浄】――」
淡い光が杖の先端から溢れ、カナリアの喉を包み込む。糸がゆっくりと、ほどけていく。彼女が小さく息を吐いた。
「楽に……なった」
「まだ終わりじゃありません。次、いきます」
俺は深呼吸して、【ポーション生成】を起動した。
掌の上に魔法陣が浮かび上がり、光の粒子が集まっていく。今回は特別だ。共鳴調合――カナリアの声質、呼吸のリズム、喉の温度、全てに寄り添う配合。
(MP50……全部使う)
Sランクポーションが、瓶の中で琥珀色に輝いた。
「これを、ゆっくり飲んでください」
カナリアが震える手で瓶を受け取る。唇に触れた瞬間、彼女の目が少し見開いた。
一口、また一口。
温かな液体が喉を伝い、胸の奥まで染み渡っていく。凍っていた何かが、ゆっくりと溶けていく感覚。
「……温かい」
彼女の声が、ほんの少しだけ震えなくなった。
「次は、呼吸です。俺と一緒に」
俺は彼女の目を見て、ゆっくりと息を吸った。4カウント。彼女も、同じリズムで吸う。
そして6カウントで吐く。
何度も、何度も繰り返す。
やがて彼女の肩が下がり、顎の力が抜けた。舌の根本も、ゆるんでいく。
「ハミングを、試してみましょう。声は出さなくていい。唇を閉じて、喉を震わせるだけ」
カナリアが目を閉じ、唇を結ぶ。
「ん……」
最初は、息が擦れるだけだった。
でも、次の瞬間。
「んーー……」
微かな音が生まれた。
カナリアの目から、涙が零れた。
昼。
試し歌いの時間。
「母音から始めましょう。あ、い、う、え、お」
俺が先に声を出す。彼女が、ゆっくりと続いた。
「あ……」
擦れている。でも、音はある。
「い……」
震えている。でも、響きがある。
「う……え……お……」
一音ずつ、声が形を取り戻していく。
「半音階、いきます。ド、ド♯、レ……」
彼女が階段を登るように、一段ずつ音を積み上げていく。
途中で詰まる。息が続かない。でも、止まらない。
「レ♯……ミ……」




