第27話 歌姫 その3
「そんな時は……意地でも、楽しかった日々の歌を口ずさむんだ。不思議なもので、旋律に触れると、忘れていた故郷の匂いや、誰かの笑い声まで少しずつ戻ってくる」
彼女の手が、カップを握る力を少し緩めた。
「音楽は、歌は――失くしかけた幸せの場所をもう一度指し示してくれる。暗闇の中で『こっちが光だよ』って教えてくれるんだ」
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
「だからお願いだ。君の中のその灯りを、君自身の手で消さないでくれ」
しばらく、沈黙が続いた。
カナリアが、カップをじっと見つめている。湯気が、彼女の頬を優しく撫でていた。
やがて――彼女が、そっとカップを唇に近づけた。
一口。
ほんの一口だけ、蜂蜜茶を口に含む。
「……甘い」
掠れた声で、彼女が呟いた。
「温かくて……優しい味」
そして――もう一筋、涙が溢れた。でも、今度は違う。さっきまでの涙とは、明らかに違う。
「……ありがとう」
彼女が顔を上げた。その表情は、まだ震えていたけれど、ほんの少しだけ――光が差し込んだように見えた。
「……明日も、来てくれますか」
「はい。何度でも」
「治療を……してくれるんですか」
「焦らなくていい。君が準備できた時に」
彼女が、微かに頷いた。
「明日も……この、お茶を……」
「もちろん。毎日でも淹れます」
俺は、もう一度頭を下げた。
「ゆっくり休んでください。明日、また来ます」
扉を閉める直前、カナリアの小さな声が聞こえた。
「……ヒナトさん」
「はい?」
「本当に……ありがとう」
廊下に出ると、マネージャーが目を真っ赤にして立っていた。
「聞こえました……彼女が、お茶を飲んでくれた……」
彼の声が震えている。
「ありがとうございます。本当に……本当に、ありがとうございます」
「いえ。まだ始まったばかりです」
俺は静かに答えた。
「でも、小さな一歩は踏み出せました」
マネージャーが、何度も頭を下げる。
「明日も……お願いできますか」
「はい。必ず来ます」
階段を降りる途中、また床板が鳴った。
誰かが、立ち聞きしていたのかもしれない。
「……気づいたか?」
外で待っていたクロエが、低い声で訊いてくる。
「ああ。でも、今は放っておこう」
「尾行の件もある。油断するなよ」
「わかってる」
俺は小さく頷いた。リーシャが不安そうに俺たちを見ている。
「大丈夫ですか?」
「ああ。今日は、これで十分だ」
俺はもう一度、カナリアの部屋の扉を振り返った。
明日もまた、ここに来よう。治療を急ぐ必要はない。まずは、心の扉を開いてもらうこと。それが、何より大切なんだ。
階段を降りる途中、また床板が鳴った。今度は、もっと近くで。
俺は立ち止まらず、そのまま宿を後にした。
影の正体は、まだわからない。でも、少しずつ――何かが動き始めている。
そんな予感だけが、背中にまとわりついていた。




