第25話 歌姫 その1
昨夜のギルド併設の酒場は、妙に静かだった。
週の終わりの夜なのに、カウンターに並ぶ冒険者たちの声も上擦っている。いつもなら響き渡る楽器の音も、歌声も、何もない。この街から、音楽が消えた夜だった。
「なあ? カナリアが歌えなかったって、本当か?」
「ああ。舞台に立とうとして、声が出なかったぞ……」
ジョッキを傾ける男の言葉が、店内に重く沈む。
俺はその会話を聞きながら、麦酒の泡が消えていくのを眺めていた。音楽のない街は、色を失った絵のようだ。
翌朝、俺はカナリアのマネージャーが滞在している宿を訪ねた。
「失礼します。ポーション職人のヒナトと申します」
扉を叩くと、疲れ切った中年男性が顔を出した。目の下には深い隈、髪は乱れ、シャツの襟も曲がっている。疲労が全身から滲み出ていた。
「……何の御用でしょうか」
警戒するような、それでいてどこか諦めたような声だった。
「カナリアさんの件で、少しお力になれるかもしれません」
彼は、長いため息をついた。肩が落ち、視線が床に落ちる。
「彼女は今、誰とも会いたがらないんです。私が何を言っても、部屋から出ようとしない。食事も喉を通らない。水さえ……」
言葉が途切れる。マネージャーの手が、小刻みに震えていた。
「昨夜は一晩中泣いていました。声が枯れ果てるまで……いや、もう声にすらならない。ただ、泣き声だけが聞こえて……」
彼は顔を覆った。
「私は、彼女のマネージャーです。守るべき立場なのに、何もできない。医者を呼んでも、『喉に異常はない』と言われるだけで……」
俺は、静かに頷いた。
「心が折れてしまったんですね」
「ええ……」
マネージャーは、震える息を吐き出した。
「それでも、一度だけ試させてください。俺は医者じゃありません。でも、ポーション職人として――いえ、一人の人間として、彼女の力になりたいんです」
「どうして……? あなたは彼女のファンでもないのに」
「ファンじゃないからこそ、できることがあるかもしれません」
俺は真っ直ぐに彼の目を見た。
「俺は、彼女の歌を聴いたことがありません。でも、彼女の歌で救われた人たちの顔を見ました。昨夜の酒場で、誰もが沈んでいた。街全体が、まるで色を失ったようだった」
マネージャーが、わずかに顔を上げる。
「彼女の歌は、この街の光なんです。その光が消えかけている今、俺にできることがあるなら――たとえ小さなことでも、やらせてください」
彼は、俯いたまま黙り込んだ。やがて小さく頷く。
「……わかりました。でも、無理はさせないでください。彼女が拒絶したら、すぐに引いてください」
「約束します」
案内されたのは、街外れの小さな家だった。
宿から少し離れた、静かな住宅街。マネージャーが用意した療養用の部屋らしい。
扉を開けた瞬間、空気が変わった。湿気を含んだ重たい静寂。閉め切られた部屋の、少し酸っぱい匂い。カーテンの隙間からわずかに差し込む光が、埃を浮かび上がらせている。
部屋の中は薄暗く、時間が止まったような静けさに包まれていた。
「カナリア、お客様です」
マネージャーが、できるだけ優しく声をかける。けれど、奥のベッドから返事はない。毛布にくるまった小さな背中だけが見えた。
「……誰?」
掠れた声。いや、声というより息の摩擦音だった。喉が傷ついた人特有の、痛々しい響き。
「俺はヒナト。ポーション職人です」
「……ポーション? 何しに来たの……もう、何も要らない……」
「いえ、ポーションを売りに来たわけじゃありません。ただ……」
俺は、一歩だけ前に出た。
「あなたの歌で救われた人たちがいる。その人たちのために、少しだけ話を聞いてもらえませんか」
「……帰って」
「カナリアさん」
「帰ってってば!!」
彼女の声は、空気を震わせることができない。高域がざらついて、サ行が擦れて消える。息の流れが途切れ途切れで、まるで壊れた楽器のようだった。
それでも、その声には――拒絶だけじゃなく、悲痛な叫びが込められていた。
マネージャーが、申し訳なさそうに俺を見る。
「すみません……」
「いえ」
俺は、黙って頭を下げた。
「……失礼しました」




