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エルンストの計画

 夜半に髪を切り、湯浴みや食事を終えてアリシアが眠りについたのは、日が昇る頃だった。オルベルン家に甘えて昼まで寝ていたアリシアは、エルンストが用意してくれた服に着替えて部屋を出た。通された居間には、オルベルン夫人とエマ、アンドルがいた。


「おはよう、アリシアさん。昨日はよく休めたかしら?」

「はい、おはようございます。こんな時間まで寝てしまって申し訳ありません」

「いいのよ。昨日は疲れたでしょう。ここでは自分のおうちだと思って、自由に過ごしてちょうだい」

「ありがとうございます。何もかもよくしていただいて……」

「お姉様! 何がご不便はなくて?」

「大丈夫です、エマ様。自宅にいるときより快適ですわ。……あの、エルンスト様は学院ですか?」

「あの子なら、今日は学院を休むと言っていたわね。用があるとかで、朝に出かけたきり戻っていないわ」

「そうですか」


 アリシアはエルンストに改めて礼を言おうと思っていたのだが、外出中なら仕方ない。戻ってきてからにしようと気持ちを切り替えて、空いたソファに腰を落ち着ける。すると、そわそわしていたアンドルが、アリシアに向かって身を乗り出してきた。


「アリシア様、その髪型、とってもお似合いです!」


 言われてアリシアは微笑んだ。昨夜、マーサが泣きながら整えてくれた結果、長かった髪はとても短くなった。ほとんど男性の髪のような短さで、形のいい耳が露わになっている。なにせ、エルンストより短いのだ。まだ慣れないが、頭が軽いのと洗いやすいのは気に入っている。


「ありがとうございます、アンドル様」

「お姉様はお綺麗だから、どんな髪型でも素敵だわ」

「そうね。その髪型なら、もう少し大きな耳飾りのほうが合いそうだわ」

「お母様、素敵なアイデアだわ! 私、お姉様に似合いそうなものを探してきます!」

「僕も!」


 止める間もなく居間を出ていったふたりに取り残され、アリシアはオルベルン夫人と向かい合う。なんとなく手持ち無沙汰にしていると、侍女がお茶を淹れてくれた。礼を言って受け取り、ひとくち口に含む。昨日の昼間に訪れたとき出されたものと同じ、オルベルン領産のお茶だった。すでに懐かしく感じる味にほっとする。


「アリシアさん」

「はい」


 穏やかな視線を向けてくるオルベルン夫人と目を合わせる。にこりと微笑んだ夫人は、手にしていた茶器をおろして再びアリシアに目を向けた。


「あなた、ずっと大変な思いをしていたのね。エルンストが間に合わなくて、ごめんなさい」

「っ、そんな、エルンスト様にはとても良くしていただいて……! オルベルン家の皆様には沢山頼ってしまって、どうお礼を申し上げたらいいのか……」

「いいえ、あの子がもっと上手くできていたら、あなたの腕に傷が残ることもなかったわ」

「そんなことはありません。これは私の失敗です。むしろすぐに治療していただいて、本当に感謝していますわ。マーサのことも、私のことも、オルベルン家の皆様には関係のないことのはずなのに、こんなに良くしていただいて、どうやってご恩を返せばいいのか分からないんです。私にできることがあれば、何でも仰ってください」

「あら。じゃあお願いしちゃおうかしら」

「はい」

「うふふ。エルンストが戻ったら、あなたに色々とお話をすると思うわ。もしあの子が何かあなたにお願い事をしたら、必ず受け入れてくださらない?」

「? それはもちろん、私に出来ることでしたら必ずお受けします」

「きっとよ? 約束ね?」

「はい、分かりました」


 頷いてみたものの、いまいち意味が分からず首を傾げているアリシアに、オルベルン夫人は満足そうに笑いかけた。

 そうしていると、廊下からエマーシャとアンドルが駆け込んできて、両手いっぱいの宝飾箱を並べ始め、居間は一気に賑やかになった。並べられた耳飾りの中から、エマーシャ、アンドル、オルベルン夫人の選んだそれぞれを代わる代わる身につけていく。侍女が運んでくれた鏡を覗き込み、どれが似合うか議論を交わす。結局、満場一致で夫人が選んだ耳飾りに決まった。


「お母様が選んだものには敵わないわ。私が選んだものをお姉様に付けていただきたかったのに」

「うふふ。まだまだね?」

「エマ様が選んでくださったものも素敵ですよ。もしよろしければ、明日はこちらをお借りしても?」

「もちろんですわ、お姉様!」

「アリシア様! 僕のも!」

「ええ。アンドル様のものはその次の日に」

「やったー!」


 両側からふたりに抱きつかれ、アリシアは思わず笑ってしまう。なんて幸せで温かい場所なのだろう。ずっとここにいたいと思ってしまいそうになる。

 不意に扉がノックされ、侍女が動いた。開いた扉から、呆れた顔のエルンストが顔を出す。


「何やってんだ、お前ら」

「お兄様! お帰りなさい!」

「お帰りなさい!」

「おう、ただいま。楽しんでるところ悪いんだけどよ、母上とアリシア、応接間に来てくれないか」

「えー、僕たちは?」

「エマとアンドルはこっちで待機だ」

「えー」

「わりぃな。大人の話なんだ。落ち着いたら遊んでやっから」


 オルベルン夫人が立ち上がり、促されてアリシアも腰を上げる。エルンストは当然のようにアリシアをエスコートしてくれた。


「よ。昨日はよく眠れたか?」

「はい、お陰様で」

「頭、丸くなったなー。洗うの楽だろ?」


 大きな手がアリシアの頭に触れて、後頭部を確かめるように撫でていく。その手の優しさに、アリシアは思わず息をのんだ。先に進んでいたオルベルン夫人が振り返り、呆れた顔でエルンストを見る。


「エルンスト、他に言い方があるでしょう?」

「失礼。とても似合っていて素敵だ、アリシア嬢。思わず見惚れた」

「ふはっ」


 取ってつけたような言葉に、アリシアは吹き出してしまう。くつくつ笑うアリシアを見下ろして、エルンストはすっとアリシアの耳元に手を伸ばした。


「これ、母上が選んだのか? いいじゃん」


 ちゃり、と耳飾りに触れた指が、アリシアの首筋をかすめていく。それが妙に気恥ずかしく、アリシアは視線を逸らしてしまった。気にする様子もなく、エルンストはアリシアの手を取って歩き出す。無言で歩くのも気まずくて、アリシアは口早に耳飾りの話をした。


「明日はエマ様が選んでくださった耳飾りをつけて、その次の日はアンドル様の選んでくださったものをつけるんです」

「ふーん? じゃあ、その次は俺が選んでやるよ」


 どうということはない会話だ。なのに、アリシアの胸がざわつく。この落ち着きのなさはなんだろう。エルンストに触れている手が熱いような気もする。応接間までの短い廊下が、やけに長く感じた。

 オルベルン夫人とエルンストに続いて応接間に足を踏み入れると、落ち着いた雰囲気の紳士が待っていた。アリシアを目にした男性が、懐かしそうに目を細めた。


「お待たせしました。ミラベル侯爵、こちらがアリシア嬢です」


 エルンストの紹介でアリシアが挨拶をすると、ミラベル侯爵は優しく微笑んでくれた。好意的な態度に、この人が母を愛してくれた人か、とアリシアは思う。もしかすると、自分の実の父かもしれない。これまでの生活を思うと、マーシュ伯爵ではなくこの人が父だったらいいのに、と考えてしまうのは当然のことだった。しかしそれを証明する手段は、この世界に存在しない。


「お忙しい中、我が家までご足労いただいてありがとうございます。息子のわがままに応じてくださって、感謝いたしますわ」

「オルベルン夫人。どうか頭を上げてください。私こそ、オルベルン家にはお世話になっているのですから、お役に立てるならこれ以上嬉しいことはありません」

「ミラベル侯爵には貴重なお時間を頂いているので、端的に話を進めよう。アリシア嬢、君にはこちらのミラベル侯爵家の養女になってもらう。立会人の署名は母上にお願いします」

「任せてちょうだい」

「アリシア嬢。君はマーシュ伯爵家から除籍されたことになっているが、書類上は手続きが終わっていない。放っておけばいつ手続きが終わるか分からないから、俺が直接マーシュ伯爵家から聞いた話を証言して、養子縁組で君の籍をミラベル侯爵家に移す。過去に似たような実績があるから、問題なく申請は通るはずだ。もし手続きに引っかかっても心配はいらない。父上にゴリ押ししてもらう。侯爵家に籍が移れば、マーシュ伯爵たちは君に手出しができなくなる。ここまではいいか?」


 突然の話にアリシアは言葉に詰まった。いつになく真剣なエルンストと、こちらを見つめるミラベル侯爵、そしてオルベルン夫人。全員の視線を受けて、アリシアは戸惑ったように言葉を紡ぐ。


「……とても、有り難いお話ですが、ミラベル侯爵はよろしいのですか?」

「もちろんだよ。わが侯爵家の子どもは息子ばかりでね、妻も娘を欲しがっている。君のことを話したら、大喜びだったよ。君は王立学院で優秀な成績をおさめているし、第二王子殿下も君に期待していると聞いている。ぜひ我が家に来てほしい。……君の母上、シシリアのためにも協力させてくれないか」

「アリシア嬢。ミラベル侯爵は、君が学院に通えるよう、学費も出してくださるそうだ。学院を卒業したいって、言っていたよな?」

「そんな……」


 信じられない思いで見渡せば、その場にいた全員がアリシアに優しい目を向けてくれていた。こんなことがあるのだろうか。夢を見ているのではないだろうか。

 震えるアリシアの手に、エルンストが指を重ねた。力強く手を握られ、思わずその手を握り返す。


「アリシア。これが俺の計画だ。お前は逃げなくていい。諦めなくていい。こんな良い話に、まさか乗らないなんて言わないだろうな?」


 まっすぐに見つめてくるエルンストの瞳に、アリシアは瞬きした。青く輝く瞳は、いつだってアリシアに希望をくれる。視界がにじみそうになるのを堪え、アリシアはしっかりと頷いた。


「ありがとうございます、よろしくお願いします……!」


*** ***


 その後の話は早かった。事前にエルンストが用意していた書類へサインを済ませ、そのままミラベル侯爵が申請に向かってくれたのだ。二日もすれば手続きは終わるという。その間に、アリシアはミラベル侯爵家へ移ることになった。ほとんど着の身着のままで飛び出してきたアリシアだ。学院の制服やテキスト類も改めて準備をしなければならない。

 エルンストに伴われて訪れたミラベル侯爵家では、義母になるミラベル夫人が大喜びで出迎えてくれた。すでにアリシアの部屋は用意されていて、マーサもアリシアの侍女として受け入れてもらえることになった。侯爵家の子どもは男児がふたり。揃って王立学院の初等科に通っているらしく、帰宅を待って挨拶をする予定だ。

 日が暮れそうになった頃、それまでミラベル夫人やアリシアに何かと助言をくれたエルンストが、オルベルンの屋敷に戻ることになった。車寄せまで馬車を呼べばいいのに、エルンストは馬車を待たせている停車場まで歩くという。見送りに出たアリシアは、ミラベル家の広い庭をエルンストと並んで歩いていた。 


「あとは申請が通るのを待つだけだな。邪魔が入るとめんどくせぇから、学院に戻るのは申請が通ってからにしろよ。二、三日授業に出れなくても、お前ならどうってことねぇだろ?」

「はい。問題ありません」

「よし。俺は明日から学院に戻るわ。申請が通ったらミラベル侯爵に連絡がいくはずだから、そっちで確認してくれ」

「分かりました」

「じゃー、また学院でな」


 ひらりと手を振って去ろうとするエルンストの上着を、アリシアは慌てて引っ張った。


「ちょっと、待ってください!」

「ああ? なんだよ」

「お礼、を、言わせてください。本当にありがとうございます。いつも助けてもらってばかりで、私はなにもお返しできていません。何かできることがあれば教えてください」

「あー。まぁ、それは、そのうちまとめて返してもらう予定だ。気にすんな」

「もちろん、一生かけてでもお返しするつもりです! でも、今できることでも、何かあったら……」

「つってもなぁ。別に欲しいもんもねーし、手伝ってもらいてーことも……」


 うーんと唸ったエルンストが、あ、と短く声をあげた。長身を屈めて、アリシアの顔を覗き込む。青い瞳が、いたずらっぽく緩んでいた。


「だったら、お前からキス、してくれねぇ?」


 ん、と目を閉じたエルンストに、アリシアは固まった。一瞬の空白。エルンストは、ふはっと笑い声を漏らす。


「はは、なーんつっ、」


 て。

 最後の言葉はアリシアの唇に飲み込まれた。押し付けられた唇の感触を意識する前に、眼の前でアリシアの榛色が揺れる。真っ赤に染まったアリシアの顔は、夕日に照らされただけの赤ではない。

 目を見開いたエルンストから逃げ出すように、アリシアは背を向けて叫んだ。


「また、学院で!」


 屋敷に向かって走っていくアリシアを、エルンストは中腰のまま見送った。停止していた思考が回りだす。唇に残る柔らかな感触。泣きそうに潤んで見えた、榛色の瞳。

 遅れてやってきた羞恥にずるずるとうずくまる。エルンストは、しばらくその場から動けなかった。

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