お茶会騒動
はじめまして。侍女のマーサでございます。マーシュ伯爵家の長女であるアリシア様にお仕えして十年。アリシア様のご母堂であるシシリア様からお嬢様を託されてのち、私の生きる目標はお嬢様の幸せひとつとなりました。マーシュ伯爵家にお嬢様の居場所はなく、後妻である現奥様や妹のフローラ様からの嫌がらせを防ぐことで精一杯の日々。防ぎきれなかった悪意にさらされたお嬢様が傷つく様を、何度も目にして不甲斐なさを感じておりました。けれど、お嬢様はとてもお強い方でした。お嬢様が王立学院に入学される十三歳の年に、私に語ってくださった壮大な計画。いまはそれを成すのが私の使命でございます。
「お嬢様。お手紙が届いております」
「ありがとう。誰からかしら?」
「ミンネ子爵ご令嬢のミランダ様、それから……オルベルン公爵家ご令息のエルンスト様、ですわね」
二人目の名前にお嬢様はあからさまに嫌な顔をなさいました。夏の長期休暇が始まり、避暑地である別荘に移られてから、お嬢様のもとには何度かご学友からのお便りが届いています。多くはご令嬢からのお茶会のお誘いや近況を知らせるお手紙でしたが、その中にひとつ、異色があるとすれば、このエルンスト・オルベルン様からのお手紙でございましょう。
他のお手紙と比べても厚みがあり、長文がしたためられていることは明白です。婚約者のロイ様からは一通もお便りが届きませんのに、エルンスト様とは何度もやりとりをされているのです。
「……はぁ、あの筆まめめ……」
「お嬢様?」
「ああ、ごめんなさい。ありがとう、受け取るわ」
上位である公爵家からのお手紙は、何にもかえてすぐにお返事を出す必要があります。そうして早々に返したお返事へ、また更にお返事が届く、といった有り様で、お嬢様は返信に苦慮なさっているご様子でした。
一度、お手紙の内容を拝見したことがあるのですが、とても男女のやりとりとは思えぬ内容で、いささかマーサは驚いてしまいました。エルンスト様からは、各領地における水害対策についての議論が投げかけられており、お嬢様の意見を聞きたい、という文言で締められていたのです。お嬢様は安易な返信はできないと、書庫にこもってお返事を書かれておりました。お勉強熱心ではありますが、色気も何もない内容で安心したといいますか、肩透かしといいますか……。いえ、お嬢様には形だけとはいえ婚約者がいらっしゃいますから、妙な噂が立たなければいいのです。もちろん、こちらのお手紙に恥ずべきところはなく、何も問題はないのですが、お嬢様がお疲れのご様子なのがお可哀想で……。
「お嬢様。ミランダ様からはどのようなご要件でございましたか?」
「お茶会のご招待ね。行きたいのはやまやまだけど、エルンスト様からのお手紙にもお茶会のご招待があって……同じ日なのよ。なんてタイミングの悪い……」
「まぁ」
「さすがに公爵家を蹴って、子爵家へ、というわけにはいかないわよね?」
「そうでございますね」
「はぁ。気は乗らないけど、返事を書くわ。エルンスト様のお手紙は、議論の内容は返信に含めなくてもいいわよね。会うならそこで話せばいいし」
「よろしいのですか?」
「正直面倒なの! こっちが一返せば十戻してくるのよ。紙がいくらあっても足りないわ!」
珍しくお嬢様が感情をあらわにされています。いつも感情を殺していらっしゃるお嬢様のそんな表情を見れたのが嬉しくて、私は思わずくすくすと笑ってしまいました。
ですが、そうして笑っていられたのもつかの間。
その日の昼食の場で、エルンスト様からのお手紙が話題にのぼってしまいました。
「アリシア。最近、オルベルン公爵家の方と手紙をやりとりしているらしいな」
「はい、お父様。ご嫡男のエルンスト様からお手紙をいただいております」
「婚約者がいる身で別の男性と文通ですって? はしたない」
奥様が吐き捨てるように仰っても、旦那様はフォローひとつなさいません。ですがお嬢様も慣れたもの。素晴らしいテーブルマナーでお食事を続けながら、奥様にもご意見なさいます。
「お言葉ですが、お母様。公爵家は王家に次ぐ高位のお立場ですから、お手紙をいただいたからには返信せざるを得ません。文句ならエルンスト様に仰ってください」
「なんですって!?」
「オルベルン家とはどのようなやり取りをしている?」
「普段は学院の勉強についてですわ。今回はお茶会のご招待でしたわね。近々、この近くの別荘にいらっしゃるとかで……」
「まぁ! エルンスト様のお茶会に!? 私も行きたいわ!」
唐突に、フローラ様が顔を輝かせました。その様子に旦那様も奥様も顔をほころばせていらっしゃいます。真顔なのはお嬢様ひとり。
「フローラ。あなたはご招待いただいてないでしょう? 連れて行くことはできないわ」
「妹の頼みも聞けないの? なんて冷たい姉なのかしら」
ここぞと奥様がおっしゃいますが、お嬢様の言い分のほうが正当です。低位のアリシア様から公爵家にそのようなお願いをするのは、いくらなんでも無礼が過ぎます。だというのに。
「ふむ。アリシア、オルベルン家に返信は出したのか?」
「食事が終わったらお返事を書きますわ」
「では、フローラも参加するとお伝えしておきなさい」
旦那様の言葉に、お嬢様は絶句されました。奥様とフローラ様ふたりは、嬉しそうに笑っていらっしゃいます。
「……お父様は、私にそのような無礼な返信を送れと仰るのですね」
「妹の可愛い頼みくらい、叶えてやりなさい」
お嬢様の冷めた目に気づいているのかいないのか、旦那様はお嬢様のほうも見ずに言葉を足されました。オルベルン家に返信をするのはお嬢様。無礼はお嬢様ひとりが被るとでも思っていらっしゃるかのようです。なんて浅はかな。
「……分かりました」
お嬢様の冷たい言葉だけが、虚しく食堂に溶けていきました。
お嬢様がすぐにしたためられた返信に、数日後にはお返事が戻ってまいりました。なんとフローラ様の参加はオルベルン家から正式に認められることになりました。エルンスト様がお嬢様の顔を立ててくださったのか、どうか。お嬢様は浮かない顔でしたが、オルベルン家から許可が降りたことは覆しようがありません。
お嬢様の心配をよそに、お茶会の日程は近づいてまいりました。はしゃぐフローラ様と浮かない顔のお嬢様を乗せて、馬車はオルベルン家の別荘へ向かいます。今回は、私も付き添わせていただけることになりました。フローラ様もお付きの侍女を連れていらっしゃいますが、私もフローラ様が失礼を働くことのないよう、目を光らせておかなければなりません。
眩しい日差しの中、緑ゆたかな木立を抜けて、馬車はオルベルン家の別荘地帯へ入っていきます。広々とした馬車道はよく整備され、公爵家のお力を見せつけられるようでした。お嬢様は途中見かけた水車小屋が気になったご様子です。わが領内の水車とは少し形が違うようでしたからそこに興味を持たれたのかもしれません。
しばらくすると立派な門扉が見え、お屋敷へ到着いたしました。出迎えてくださったのはエルンスト様でしょうか。長身に黒髪の、見るからに美しい方がお嬢様に向かって微笑まれています。なんということでしょう! 婚約者のロイ様よりも、ずっとずっと素敵な方ではありませんか!
そのお姿に見惚れているフローラ様をよそに、お嬢様はいつもどおりのご様子で、エルンスト様にご挨拶をされています。
「よく来たな、アリシア嬢」
「お招きいただきありがとうございます、エルンスト様。この度はわがままを申し上げて申し訳ありません。妹までご招待いただいて、本当にありがとうございます」
「堅苦しい挨拶はなしにしよう。夏休みだろう? もっと気楽にしてくれて構わない」
にっこりと微笑まれたエルンスト様の美しい微笑みに、お嬢様も優しげな微笑みを返されます。ああ、なんて美しいお二人……。絵師を! 絵師を呼ばなければ……!
私が感動で打ち震えていると、あろうことかフローラ様が声を上げられたのです。
「エルンスト様! ご招待いただきありがとうございます。フローラ・マーシュと申します!」
その時の空気を、なんと表現したらよろしいのでしょうか。お嬢様はさっと顔色を変え、即座に頭を下げられました。
「申し訳ありません。フローラ。まだお名前を呼ぶ許可も得ていないのに、失礼ですよ」
「ええ〜? お姉様はお名前で呼んでいるじゃありませんか。構いませんよね? エルンスト様!」
フローラ様が、いつもの様子で無邪気にエルンスト様を見上げていらっしゃいます。きゅるん、と音が出そうな角度でエルンスト様を見上げ、あろうことか体を寄せていらっしゃるではありませんか。あざとさというのを目の当たりにして、私はお嬢様の苦労に胸が痛くなりました。フローラ様のお付きの侍女は何も言いません。
そんなフローラの様子を見下ろしていたエルンスト様は、にっこりと笑うと、自然な仕草でフローラ様の腕を解き、お嬢様に向かって頷かれました。
「構わない、アリシア嬢。さぁ、他のみんなはもう揃っているんだ。こっちに来てくれ」
私、マーサは直感しました。エルンスト様は、できる男でございますね? フローラ様のあざと可愛い所作にも靡かず、あくまでお嬢様とだけお話になるご様子。とても好感が持てます。フローラ様は不服なご様子ですが、失礼をしているご自覚はないのでしょうか。
他のみんな、というエルンスト様のお言葉に、お嬢様ははて、と首をかしげていらっしゃるご様子でした。しかし屋敷の中庭に通されると、そこにいらっしゃる方を見て、さすがのお嬢様も絶句なさったようでした。
「殿下。お待たせしました。こちらが、マーシュ伯爵家のアリシア嬢と妹御のフローラ嬢。アリシア嬢、知っているかな、こちらは我が王国の第二王子であるレイモンド殿下だ。俺の従兄弟でね。王太子もお誘いしたけど、さすがに断られてしまった」
なんでもないことのようにエルンスト様が仰る横で、お嬢様の対外スマイルが多少引きつっているように思えます。もしかしなくても、事前にお話はなかったようですね。
お嬢様はさっと気持ちを切り替えられたのか、いつもより丁寧な礼で殿下にご挨拶をされました。
「第二王子殿下にお目にかかれて光栄でございます。マーシュ家のアリシアと申します。この度は遅参しましたことをお詫びいたします」
「いや、構わないよ。私が予定より早く着いただけだからね。君のことはエルンストからよく聞いている。今日は有益な議論ができることを楽しみにしていたんだ。よろしく頼むよ」
「もったいないお言葉でございます」
お嬢様が深々と頭を下げている横で、フローラ様がちらちらと殿下へ視線を向けていることが分かります。さすがに、お声もかからないのに王族へ無礼を働くことはないようですが、お嬢様が顔を伏せていらっしゃるのに、フローラ様はほとんど顔が下がっていません。王家の方を直視するのは許可があってから。そのマナーも忘れてしまわれたのでしょうか。
「さぁ、顔を上げてくれ。みんな座って。エルンストも」
「エリックは?」
「忘れ物をしたとかで、馬車のほうに行ったよ。すぐ戻ってくるだろう」
「あいつ……仮にも王子をほっぽって……」
「仮にも、はないだろう?」
気安いご様子でお話をされる男性陣の横で、お嬢様たちが席に着かれます。空いている席はひとつ。すぐに屋敷の表からひとりの青年がいらっしゃいました。
「悪い悪い、遅れた!」
「レディを待たせるな、エリック。アリシア嬢、俺の友人で、レイモンド殿下の護衛を務めているエリック・エバーシーだ。俺と同学年だから、学院で見たこともあるだろう」
座ったばかりでしたが、お嬢様はさっと立ち上がってエリック様にもご挨拶なさいました。フローラ様は椅子に座ったまま。やれやれ、でございます。
しかし、エルンスト様も、周囲のおふたりも、清々しいほどフローラ様には話しかけていらっしゃいません。まるでお嬢様しかいないような空気の中、フローラ様は見る間に機嫌をそこねてしまわれたようです。それでも、周囲にいらっしゃるのは高位の方ばかり。わがままを言う隙はありません。
「さて。エルンストがせっかく用意してくれた会だ。有意義な話し合いをしよう。エルンストとアリシア嬢は、学院でよく議論を交わしているとか。どんな議論をしているか、聞かせてもらってもいいかな、アリシア嬢?」
「はい、殿下。エルンスト様とは農業における灌漑設備についての議論を中心に、農業改革や都市改良のお話を行っています。はじめは王室直轄領の灌漑設備を調べていたのですが、他の領地でも土地ごとの特色があると教えていただいて、それぞれの違いを比べるのが大変興味深かったです」
「なるほど。君が灌漑設備に興味を持ったのはなぜだい? それと都市改良というのは?」
「まず、灌漑設備に興味を持ったのは、領地の穀物高の差に気づいたからです。領地によって穀物にかかる税の比率が違いますでしょう? 特に王室直轄領は収穫量が他の領地より多くなっています。対して我がマーシュ領での収穫量は平均以下。私は領地の収穫量を上げたいと考えています。土地によって穀物の生産量が変わるのは、作物の品種、気候と土壌や灌漑設備の違いによるものでしょう? 気候は変えることが出来ませんが、作物の品種、土壌や灌漑設備は改良しやすいはずです。とはいえ、品種改良や土壌成分についての議論はまだ深まっていません。調査研究が進んでいない分野に門外漢の私が手をつけるより、手っ取り早く取り掛かるなら灌漑設備のほうが構造物ですから分かりやすいと思ったのです。それに、灌漑設備の構造は都市部の上下水道にも応用が効きます」
「上下水道?」
「簡単に申し上げると、飲料水路と排水路です。殿下は、雨が降った後の街をご覧になったことはありますか?」
「いや、ないな」
「都市部では排水路の整備が進んでいません。大雨が降ったあとは特に、路上に汚水が流れて大変不衛生です。貴族が使う通りは石畳になっていますが、領民の大半が使う道は土が剥き出しの状態ですから、歩くのも一苦労と聞きました。川が溢れて屋内が水浸しになることもあるとか。そういった環境では、病気も蔓延しやすくなります。王都はそれほどでもありませんが、我がマーシュ家の領地では雨季になるとこうした水害が多く発生します。それらを解消するためにも、灌漑設備や上下水道の整備が必要だと考えました」
お嬢様がお話になる内容を、第二王子殿下は興味深く聞いていらっしゃいます。エルンスト様はこれらの議論をお嬢様と行われた後なのでしょう。特に驚いた様子もなく、穏やかに紅茶を飲んでいらっしゃいますが、その瞳が楽しそうに細められていることから、お嬢様の意見が筋の通ったものであることは確かでした。
エリック様はお嬢様の話を聞いて、呆れたように頭を掻いていらっしゃいます。エリック様のご様子を見たエルンスト様が、お嬢様の話が途切れたところで声をかけられました。
「どうした、エリック」
「いや、なんというか、アリシア嬢は領地経営を行うつもりなのか?」
「それは……分かりません。将来的にマーシュ家を継ぐのは私の夫となる方の予定ですが、必要があればお仕事のお手伝いは行いますわ」
「ああ、婚約者がいたな。ロンド家の次男だったか」
エルンスト様がそう言うと、お嬢様の隣にいたフローラ様がここぞとばかりに身を乗り出しました。
「そうなんです。お姉様の婚約者はロイ・ロンド様ですわ」
「確か伯爵家だったね? 次男というと、エルンストやエリックと同学年だったか」
「ええ。あまりいい噂は聞きませんがね。なんでも、婚約者のアリシア嬢をほったらかして、妹のフローラ嬢とばかり遊んでいるとか」
エルンスト様が笑顔でそう仰るので、お嬢様の顔色が変わりました。「殿下の前でなに言い出すんだ、こいつ」といった表情です。お嬢様、淑女の仮面を被ってくださいませ!
「違いますわ! お姉様がロイ様のお相手をなさらないから、私がお相手しているだけです」
フローラ様の高い声に、エルンスト様は更に楽しそうに言葉をつなぎます。
「おや? おかしいな。ロイ・ロンドはアリシア嬢にプレゼントのひとつどころか、手紙一枚送らないらしいじゃないか。舞踏会でも婚約者じゃなく、君をパートナーにするんだろう、フローラ嬢?」
「そうですわ! お姉様に可愛げがないからです。ロイ様を引き立てないといけませんのに、お姉様は先程のように難しい話ばかりをされて!」
この日はじめて自分に向けられた言葉だからか、フローラ様は胸を張って答えていらっしゃいますが、身内を貶めているとどうしてお気づきにならないのでしょう。
対してお嬢様はとても上品にお茶を飲んでいらっしゃいます。まるで、自分の話題ではないかのように。
「いくらなんでも、婚約者を舞踏会に誘わないのはいただけないな」
呟くような第二王子殿下の言葉にも、お嬢様は反応されません。代わりにフローラ様が鬼の首を取ったかのようにドヤ顔……失礼、自信たっぷりな表情で胸を張っておられます。
「ロイ様と舞踏会に行きたいなら、お姉様からお誘いすればよろしいのよ」
さすがに、その発言にはお嬢様もため息を吐かれました。女性が男性を誘うのは、はしたないことだと言われています。男性にとっては侮辱と受け取られる方もいるほどに。けれど、もういつものことだと思われているのか、お嬢様はフローラ様をたしなめることなく静かに口を開かれました。
「そうね。昔は勇気を出してお茶会やお買い物にお誘いしたことがあったわ。どれも断られてしまったけれど」
「お姉様の伝え方が悪かったのではなくて? 私はいつも承諾していただけますよ」
言外に自分からロイ様をお誘いしていると言ったフローラ様を、エリック様が奇異なものを見る目でご覧になっています。ああ、この方もどうやらまともな方のようです。エルンスト様と第二王子殿下の顔色は変わりませんが、お嬢様はやはり我関せずといった様子で茶器を下ろされました。
「エルンスト様、議論の途中でしたが、話を戻しますか?」
「お姉様! 自分に都合が悪い話になると、すぐに話題を変えようとなさるの、お止めになったら?」
フローラ様はいつものようにお嬢様を貶めようとされているご様子。くだらない話を切り上げようとしたお嬢様に、噛みつくような言葉が投げかけられます。ちらりとフローラ様をご覧になったお嬢様は、小さく息を吐いてフローラ様を見つめ、続く言葉を待っていらっしゃいました。
「この際だから申し上げますわ。お姉様はロイ様を軽く扱いすぎなのです。婚約者なのですから、もっと大切になさったらどうなんです?」
軽く扱っているのはどっちだ、と申し上げたいところですが、一介の侍女である私が口を挟むことはできません。さっきから笑顔でいるエルンスト様に視線をやれば、彼の青い瞳と目が合いました。お嬢様の後ろに控える私に、にっこりと微笑んだエルンスト様が声をあげます。
「まぁとにかく、ロイ・ロンドはアリシア嬢ではなくフローラ嬢と舞踏会に出ているわけだ。これじゃ、どちらがロイ・ロンドの婚約者か分からないな」
「ええ、私も何度もロイ様の婚約者と間違われますの」
「事実、ロイ・ロンドはアリシア嬢よりフローラ嬢と仲が良いんだろう? 学院でもよく一緒にいるらしいね?」
「ええ。そうですわ!」
エルンスト様は、満面の笑みをフローラ様に向けられます。美しい青色の瞳に見つめられたフローラ様の頬が、薔薇色に染まるのをお嬢様が冷めた目でご覧になっていました。エルンスト様がその言葉を口にするまでは。
「じゃあ、君がロイ・ロンドの婚約者になればいいんじゃないか?」
お嬢様、ふたたび「何言ってんだ、こいつ」の表情になっていらっしゃいますよ!
エルンスト様は、お嬢様の顔を見て、さらに美しい笑みを浮かべられました。普通のご令嬢なら、卒倒しそうな微笑みです。けれどお嬢様は慣れているのか、険しい顔を崩されません。
「アリシア嬢、君は都市改良や農業改革に興味がある。上級文官の職につけば、その仕事ができるだろう? さすがに伯爵夫人じゃ文官にはなれないだろうが、独身なら前例がないわけじゃない。まぁ、結婚していても夫の許可があれば別だが、ロイ・ロンドの様子を見ていると許可なんで出しそうもないしね。マーシュ家はロンド家と婚姻関係を結びたい。それなら、不仲のアリシア嬢が婚姻を結ぶより、良好な関係を築いているフローラ嬢のほうが適任だ。爵位はフローラ嬢とロイ・ロンドに譲って、君は上級文官になればいい。アリシア嬢、爵位への拘りはあるかい?」
「……ありません」
「なら、いい案じゃないか? 殿下はどう思います?」
「そうだな。アリシア嬢は現職の文官たちより先を見ている。私は公務で文官長の補佐をしているが、常に人手不足でね。君が上級文官を目指してくれるなら、私にとっても心強いよ」
「じゃー、殿下からマーシュ伯爵に連絡したら話が早いんじゃね?」
エリック様が何事もないかのように仰って、フローラ様以外の全員がなるほど、という表情になっていらっしゃいました。
「で、でも! 私がロイ様の婚約者になっても、お姉様にだって新しい婚約者が……!」
「いや、私からマーシュ伯爵にその点は詳しく連絡しよう。アリシア嬢に文官になってもらいたいと言えば、あえて新しい婚約者を探すこともないだろう」
第二王子殿下が直々に。お嬢様、昔落書きされていたチベットスナギツネとやらのお顔になっていますよ! 遠い目をされているお嬢様に向かって、エルンスト様が視線を向けられます。
「それでいいかな、アリシア嬢?」
お嬢様に拒否権はありません。けれど、あのろくでなし婚約者との縁が切れるのは僥倖です。内心で私は拍手喝采いたしました。ブラボー! ハラショー!
エルンスト様の眼差しに、お嬢様はとうとう呆れたような笑顔を見せてくださいました。
「ええ、問題ありません」