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図書館にて

 アリシアは毎日、放課後を図書館で過ごしている。自宅よりよほど図書館のほうが勉強が捗るからだ。だというのに、ここ数日は家に帰ろうかどうか悩んでいるのが正直なところだった。

「でよ、陰で色々言ってくるのが面倒くさかったから、拳でなら相手してやるっつったんだよ。そしたら、俺のことが気に入らねぇやつらが群れて襲ってくるようになって。こっちから仕掛けることはねぇから正当防衛だよな」

 勉強するアリシアの前で、エルンストがひとり喋っている。意外とお喋り好きなこの男は、アリシアの迷惑も顧みず、毎日のように図書館へやってきた。アリシアが授業を終えていつもの席に座り、さぁ勉強を始めようという時間から、図書館閉館の時間までべったりなのだ。さすがに集中できないため、お喋りは最初の一時間だけにしてくれと頼む羽目になってしまった。

「と、もうこんな時間か。俺も勉強するわ」

 律儀に時間を守り、最初の一時間を喋り倒したエルンストは、自分も書架からいくつかの書籍を引っ張り出してテーブルに広げ始めた。

 ようやく集中できる、とアリシアも本に目を落とす。そろそろ期末試験が迫ってきているが、アリシアがこの時間に授業の復習をすることはなかった。ちらりと見れば、エルンストもどうやら授業範囲を勉強しているわけではなさそうだ。なにやら小難しい本を真剣に読んでいる。

 エルンストが図書館に現れるようになって、自習室の人口は増えた気がする。遠巻きにこちらをチラチラと見てくる視線を感じ、アリシアはため息をついた。会話は常に消音結界で他人に聞かれる問題はないし、座席も正面に向かい合う形だから特にアリシアがエルンストと懇意にしている、というわけではないのだが、遠慮して近寄れない令嬢たちからは鋭い視線が飛ぶこともあるのだ。

「ん、どうした?」

「いえ、べつに」

「分からないことがあったら聞けよ、答えられる範囲で教えるから」

 エルンストは雑多な知識を豊富に持っていた。アリシアが興味を持っている農業改革や都市改良、土木関連についても詳しく、一体どんな教育を受けてきたのだろうかと疑問に思う。努力して人並み以上の成績を収めているアリシアとは異なり、どうやら大した労力もかけずに記憶できているらしい。神に与えられた恩恵が大きいのか、何をやっても人並み以上で、一体何が苦手なのだろうかと疑問に思うほどだ。自分が同じ年だったら、もしも男だったなら、エルンストに対して劣等感を感じたのかもしれない。それとも、人並み外れた姿に畏怖や憧憬をおぼえたか。けれど、彼が語った前世の記憶の生々しさが、アリシアにエルンストを人らしく見せていた。

 図書館で過ごす最初の一時間、エルンストは自分の話を一方的にすることもあったし、アリシアに議論を求めてくることもあった。

「お前は灌漑設備を中心に農業改革しようとしてるだろ? でも品種改良だって必要なはずなんだ。各地で栽培されている小麦の品種の違い、知ってるか?」

「……いえ、詳しくありません」

「王家直轄領の小麦は生育が早い。収穫までの期間が短いから、小麦を収穫した後に畑を別の用途に利用できる。南のほうでは季節風の影響を考慮して、背丈の低い品種が作られている。他にも土地に合わせて穀物の種類は異なるが、売られるときは混ざっていたり、生産地がどこかは明記されていない状況だ」

「品種によって、味や特性が異なるのでは?」

「そのはずだ。でもそれを研究した報告はこれまでにない」

「この世界の人って、無頓着なところは本当に無頓着ですよね。それぞれの品種で同じ料理を作ったらどう変わるのか、気になります」

「だな。だから、夏休みに入ったら研究してみようと思う」

「エルンスト様が料理するんですか?」

「するわけねーだろ。俺は食う専門。料理はうちの料理人にしてもらう」

「まぁ、そうですよね」

「結果が分かったら教えてやるよ」

 エルンストがノートに料理の名前を書き連ねている。どんな料理で比較をするか、検討しているようだった。

「どうせなら、芋類とか別の作物も比較してみたらどうです?」

「おー、いいな。あと豆類もか」

「そうすると結構ボリュームありますね」

「夏休みなげぇから、いけるだろ。結果が分かったら教えてやるよ」

 ふふっと笑うエルンストの、西日を反射した青い瞳がキラキラと光っている。アリシアは単純に綺麗だな、と思った。虹彩の中に星が散っているようだ。ふとエルンストも目を上げた。視線が交わり、見つめ合ってしまう。数秒の空白をはさんで、エルンストがにやりと笑った。

「なに? 俺に見惚れてんの?」

「……自意識過剰ですね」

「ふはっ、そんなこと言うの、お前くらいだわ」

 楽しそうに手元のノートに視線を戻しながら、エルンストは思い出したように言う。

「そうだ。夏休み中さ、お前に手紙書いていいか?」

「え?」

「ここでお前と色々話すんの、意外と楽しいんだよ。夏休み中、暇だろ? 手紙で議論しよーぜ」

「えぇ……めんどくさ……」

「まぁ、嫌だっつっても送るけどな。公爵家からの手紙だったら返信するしかねーもんな」

 アリシアの嫌そうな顔を見て、エルンストは楽しそうに笑った。こういう、意地の悪いところは気に入らない。実家にエルンストからの手紙を来ることを想像して、アリシアはため息をついた。面倒なことになりそうだ。各自への手紙は家令が仕分けしてマーサを経由し、アリシアの手元に届く。中身が見られることはないものの、誰から届いたかは家族に筒抜けになるだろう。そうなった時の家族の反応を考えるだけで憂鬱になる。

「なに、そんなに嫌か?」

「いえ、別に問題ありません」

「……家族になんか言われる、か?」

「!」

「お前んち、複雑そうだもんな。妹とも仲良くねーだろ」

「ええ。でも、味方になってくれる人はいるので、問題ありません」

「誰が味方なんだ?」

「侍女です。亡くなった母の遺言で、ずっと私に付いてくれている人がひとり」

「それだけか?」

「ひとりいれば十分です。それに、学院を卒業したら家を出るつもりなので、あと少し我慢すればいいだけですから」

「卒業したら、結婚……はしないんだったか?」

「はい、婚約解消と実家からの絶縁を計画しています」

「平民になるって?」

「そのために貯金しているので」

「……なるほどな」

 どうしてエルンストにこんなことまで話しているのだろう。このことがエルンストから誰かに漏れれば、アリシアの計画は潰れてしまう。転生者という仲間意識が、無意識のうちに自分にも芽生えてしまっているのか。

「つっても、学院卒業ってあと一年以上あるじゃねーか」

「もう十年近く耐えてきてるんですよ。あと一年くらいどうってことありません」

「変なところで肝が座ってるよな、お前」

「ありがとうございます」

「褒めてねーよ。……まぁいいや。手伝えることがあったら、言ってくれ。コネと権力ならあるからよ」

「……頼もしいですね」

「おい、棒読みやめろ」

 別に、エルンストに助けてもらうことはない。少しずつ準備をしてきた計画を、予定したとおりに進めていくだけ。そのために、沢山勉強をしてきた。問題ないはずだ。

 一時間の約束が過ぎ、それぞれが勉強を始めると、アリシアの意識は手元の資料に集中しはじめた。だから気づくのが遅くなってしまった。

「おい」

 不意にかけられた声に顔をあげる。立っていたのは、ロイだった。剣呑な表情でアリシアを見下ろしている。

「何してる」

「……勉強ですが」

「そうじゃない。なんでオルベルンと一緒にいるんだ」

「席が近くになっただけです」

「こんなに空いているのに、か? 恥知らずめ、お前は俺の婚約者だろう!」

「図書館ですよ、静かにしてください」

「っ! この!」

 強く腕を引かれ、勢いあまった体がテーブルにぶつかる。痛みに顔をしかめるアリシアに構わず、ロイは感情的にアリシアを立たせようした。瞬間、ロイの体が一瞬びくりと震え、固まった。エルンストがゆっくりと立ち上がり、ロイの腕をアリシアから解く。どうやら、エルンストがロイに魔法をかけたらしい。

「随分と手荒な真似をする。大丈夫か、アリシア嬢」

「……問題ありません」

 握られていた腕を抱きしめるようにしてアリシアが答えると、エルンストはロイに向き合って冷たい視線を向けた。いつもの穏やかさが嘘のように、感情を削ぎ落とした瞳には威圧感がある。

「女性には優しくしろと教わらなかったのか?」

「っ、この」

 ロイは悔しげにエルンストを睨みつけているが、面と向かって文句を言うことはできないようだ。図書館中の視線が、自分たちに集まっていることを感じて、アリシアはため息をついた。面倒くさい。

「ロイ、あなたが何を勘違いしているのか知りませんが、勉強の邪魔はしないでください」

「なんだと!」

「静かに話すこともできないんですか? エルンスト様にも失礼ですし、他の方にも迷惑です。それに、私が今まであなたの行動に口出しをしたことがありましたか? あなたには、私に命令する権利はありません」

「なっ」

「エルンスト様、失礼しました。ご迷惑になるので、本日は失礼します」

「ああ。……ロンドにかけた魔法は、君が帰ってから解こう。図書館の本も、そのままで。俺が片付けておく」

「ありがとうございます」

「っ、待て!」

 わめくロイを置いて、アリシアは荷物を片付ける。エルンストがロイを留めておいてくれる間に、図書館を出ることができたのは助かった。きっと、この話は自宅にも伝わるのだろう。今日は夕食が抜きになるかもしれない。まぁでも、夜は眠るだけだ。一食くらい抜いたところで、どうということはない。

 馬車で自宅に向かいながら、アリシアは考えた。ロイはアリシアを所有物のように扱っている。自分はあれだけ自由に過ごしながら、アリシアの自由は許さない。夏休みになれば、きっと今よりも辛くなる。学院の授業や図書館に逃げることができないから。学院の夏期休暇は二ヶ月近く。その間のことを考えるとため息が出た。最近、ため息を吐いてばかりだ。避暑地に向かうのをやめようか、でもタウンハウスは暑くて勉強には向かない。極力部屋に閉じこもるようにしよう。そう決めて、アリシアは静かに目を閉じた。


 自宅に帰ると、しばらくしてロイがやってきた。図書館での出来事を大げさに吹聴し、アリシアは夕食を抜かれただけでなく、父からひどく殴られた。見える位置に傷をつけないのが卑怯で笑ってしまう。うっすら笑ったアリシアに、父はさらに激昂してアリシアを突き飛ばした。

 母と妹の嘲笑を受けながら部屋に戻る。侍女のマーサが心配してくれたことだけが慰めになった。けれど、アリシアは明日も図書館に行くだろうし、エルンストも来るだろう。またロイの邪魔が入るようなら、勉強場所を変える必要があるかもしれない。空き教室か、どこかの教授の部屋を借りるか。許可を取るのは面倒だが、勉強をやめることはできない。アリシアができることは、少しでも知識を自分のものにすることだ。脳に刻んだ記憶は、誰にも奪われない。アリシアが強くあるために、勉強することは必要不可欠だった。


 次の日、アリシアの懸念をよそにロイは現れなかった。アリシアに遅れてやってきたエルンストが、正面の席に座りながら話しかけてきた。

「昨日は災難だったな」

「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

「お前が謝ることじゃねーだろ。クズな婚約者を持つと苦労するな」

「ふふ、そうですね」

 昨日殴られた腕が痛い。けれどそれをエルンストに言う気にはならなかった。言ったところで、何かが変わるわけでもない。

 いつものように一時間、エルンストと議論を行う。エルンストが夏休みに計画している実験について、彼は家族にも味見をさせると意気込んでいた。どんな項目についてチェックをするか、ふたりで意見を交換しあう。実験の計画を立てるのは楽しく、アリシアはひととき、家族のしがらみから解き放たれた。エルンストとの会話はアリシアにとって良い気分転換になっていた。叩けば響くように返ってくる言葉、アリシアが想像もしないような提案、知らない単語や技術の情報。こんな風にアリシアの視野を広げてくれる人は、今まで出会ったことがなかった。

 議論が終わり、アリシアはいつもの書架から読みかけの本を取り出すために立ち上がった。分厚い土木関係の本を手に取ると、腕に痺れが走って思わず手から取り落としてしまう。大きな音が図書館に響き、アリシアは周囲に頭を下げて両手で本を拾い上げた。

 何事もなかったように席に戻る。エルンストが無言でアリシアを見つめてきた。あえてそちらを見ずに席に座る。本を開こうとしたとき、エルンストの腕が伸びた。

「っ!」

「腕、どうした」

「……離してください」

「言えば離す」

「……なんでもありません」

 掴んだ腕を引っ張られる。大した力ではないが、何度も殴られた腕は痛みを訴え、思わず顔を顰めてしまう。その表情を、エルンストは見逃してくれなかった。青い瞳でアリシアを見つめたまま、エルンストが腕を離す。アリシアはとっさに腕を引き、守るように腕を抱えた。鋭い舌打ちが聞こえた。明らかに苛立っているエルンストを前にして、アリシアはどうしたらいいのか分からず俯いた。

「いつもそうなのか?」

 顔を上げられないまま、アリシアはどう答えたものか判断できず動けなかった。それが逆に、エルンストに確信を与えたようだ。再び舌打ちが聞こえ、エルンストは大きく息をつく。

「なぁ、あと一年、ほんとに今のままで過ごすのか?」

「……学院を卒業したいので。貴族でないと、ここには通えませんから」

 本当なら一秒でも早く離れたい。でも学ぶ機会を失うのは怖かった。アリシアにとって、知識だけが身を守る術になるから。父はアリシアを政略結婚の道具としか考えていない。けれどそのためにはアリシアの存在を娘と認めることが必要で、貴族の子女だというなら学院に通わせなければならない。存在を抹消され、飼い殺しにされるよりはよほどマシな待遇だ。それを分かっているから、多くは望まない。

「……分かった」

 エルンストはそう言うと、それ以降はずっと黙ったままだった。アリシアものろのろと本を開いて勉強を始める。いつもより時間はかかったが、集中してしまえば、腕の痛みは忘れることができた。

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