裏番ってやつですか!?
アリシア・マーシュは伯爵家令嬢だ。艷やかな黒髪に榛色の瞳。整った容姿で社交界でも有名な彼女は王立学院の高等科二年である。同じく伯爵家の婚約者がいて、成績も優秀、順風満帆な立場に思えたが、実のところ彼女は特に幸福ではなかった。アリシアの婚約者、ロンド伯爵家の次男であるロイは女にだらしなく、いつの間にかアリシアの妹であるフローラと懇意になっていたし、フローラも姉に対する敵愾心を隠しもしない。母は後妻でアリシアと血がつながっていないためか、フローラばかりを可愛がり、父もアリシアには関心を寄せなかった。
けれどアリシアはこの不幸に埋もれる女ではない。なぜなら彼女には前世の記憶があって、その前世はこの世界と全く違う場所だったのだ。かつての生活の記憶はアリシアの孤独を慰め、生きる希望を与えてくれた。男尊女卑の強い貴族社会ではなく、平民の世界で女一人生きることを夢見て、アリシアは唯一の味方である侍女マーサとともにこれまで計画を練ってきたのだ。
一つ、学院での成績は落とさないこと。
一つ、学院での評判は落とさないこと。
一つ、味方になり得る友人を作ること。
一つ、平民として生きていくための資金を確保すること。
マーサの協力で、街の商人と提携した商品はヒットしていたし、着実にアリシア自身の財産は増えていっている。最大の問題は婚約解消とマーシュ家からの勘当をもぎ取ることだが、これも今のところ順調に計画が進んでいる。多少アリシアに疵が残るかもしれないが、それは貴族としての疵で、平民になるのなら問題はなかった。
そんなアリシアの生活が大きく変わったのは、王立学院高等科二年の初夏のことだった。
(遅くなってしまった……)
いつもならとうに図書館に着いているというのに、足止めをくらってアリシアは急いでいた。というのも、婚約者のロイがフローラと共にあらわれ、アリシアに難癖をつけてきたのだ。ロイはアリシアの一つ年上で、アリシアが十歳のときに婚約が決まった。当初はアリシアに対して婚約者らしく振る舞っていたが、一年もすればフローラのほうがロイのそばにいる時間が長くなった。アリシアは「なるほど、これが噂に聞く悪役令嬢ヘイト」と感心したものだ。放っておけばアリシアの不利になることは明白だったため、前世に読み漁った悪役令嬢ものの記憶から、事前に色々と策を講じてきている。いまのところアリシアの評判に傷はついていない。アリシアの品行方正な行動は周囲に高く評価されていたため、ロイとフローラは迂闊に手出しをできない状況になっていたのだ。だからだろうか、ことあるごとにアリシアに絡んでちくちくと難癖をつけてくる。アリシアにすれば可愛い反抗だと思うものの、時間が取られるのは面倒だ。さっさと切り上げてもいつもより三十分も遅れたのだから。
アリシアにとって図書館での勉強は必要なものだ。少しでも国の仕組みを把握したいし、経済についても学びたい。やっておきたいことは沢山あるのに時間が足りないのが本音なのだ。
(近道するか……)
仕方なく、回廊から外れる。裏庭を横切れば図書館まではわずかな距離だ。令嬢らしくはないが、普段裏庭に人は来ない。問題ないだろう。
そう思って、アリシアは刈り込まれた芝生に片足を踏み出した。
(え?)
キン、と耳鳴りのような音が聞こえた。ぐにゃりと歪んだのは空間。立ち眩みにも似た感覚をこらえて転げそうになるのを踏みとどまれば、眼の前には信じられない光景が広がっていた。
「囲め!」
叫んだ声の直後に、鈍い音が聞こえる。短い悲鳴とともに、倒れる人影。それを無造作に踏み越えて、もう一人。二人。殴り倒された人影の後ろから、新たに飛び出てきた攻撃を避けて、背後に迫っていた一人を裏手で殴る。
圧倒的な人数差をものともせず、背の高い青年が軽やかに拳を振るっていた。焦りと怯えを見せた残りの数人に不敵な笑みを向け、ごきごきと指を鳴らして近づいていく。
「飽きずに何度も向かってくる根性は認めてやるけどよぉ。毎回人数増やしてんのに、いまだに拳で勝てねぇってどーなってんの? 雑魚すぎんだろ」
「くそっ」
アリシアが呆然と見つめる先で、どこからどうみてもヤンキーの喧嘩が繰り広げられている。ここは、王国の貴族たちが通う王立学院。やってくるのは貴族の子息令嬢たちのはず。前世ですら見たことがないアウトローな殴り合いがこんなところで繰り広げられているなんて、誰が想像しただろうか。
(てゆうか、なんで拳? 魔法とか、剣とか、そういうのは使わないわけ? いや、拳より危険になるけど、喧嘩は肉弾戦って決まってるとか?)
アリシアがそう思ったときだった。視界の端で気配が揺らぐ。魔法の詠唱。ハッとしたときには、アリシアの手が動いていた。
「危ない!」
叫んだ声と、アリシアの魔法が発動するのは同時だった。数人の生徒たちを追い詰めていた青年の背後に、不可視の壁が立ち上がり、投げつけられた魔法弾が弾ける。魔法弾を放ったのは、植え込みに隠れていた一人の生徒だった。
ちらりと青年がアリシアを振り向き、魔法弾を放った生徒を見て、眼の前の数人に目を向ける。
「ふうん?」
低い声が響いた直後、青年の周囲に魔力が渦巻いた。青い色が見えるような魔力の本流。風が巻き起こり、その風が空気を切り裂いていく。
「魔法はご法度だって、そういうルールだったよな?」
眼の前の数人を弾き飛ばし、植え込みにいた生徒も吹き飛ばして。完全に周囲が沈黙したことを確認した青年は、くるりと踵を返してアリシアに近づいてきた。
怪我一つない青年の姿に、圧倒的な強さを感じつつ、アリシアは困惑しながら青年が近づいてくるのを待ってしまう。頭一つ分は背の高い青年は、アリシアと同じ黒髪だった。タイの色は最上級生を示す紺色。アリシアの榛色と、青年の青い瞳が交差する。
「お前さぁ、なんで勝手に結界入ってきてんの?」
ん?
「こちとら、人に見られねーように気ぃ遣ってんだわ。わざわざ不可視結界張ってんだからさぁ、空気読んで避けてくんない?」
んん?
「さっきのも勝手に手ぇ出されて迷惑なんだよ」
アリシアは確信した。こいつ、めちゃくちゃ失礼なヤンキーだ!
「おい、聞いてんのか」
アリシアは渾身の笑顔で青年を見上げた。
「ご忠告ありがとうございます。でも人払いが必要なら、不可視結界なんて簡易的なものじゃなく、本格的な除外結界を張ればいいのでは? 使われていた魔力量も少なくて、あっさり入れてしまいましたから。その程度の気配りしか払えないなら、喧嘩なんて野蛮なことはお止めになったらどうですか。そのうちヤンキーの化けの皮、剥がれて困るのはあなたですよ、オルベルン様?」
「ヤンキー……」
「私、急いでおりますから、失礼いたします」
アリシアは言いたいことだけ口にして、足早にその場を後にした。図書館に向かう時間が、更に遅れてしまった。失礼な発言もあって、淑女らしく歩くのを忘れてしまいそうだ。ああ、だめだめ。一つ、学院での評判は落とさないこと。
裏庭を越えた先、石造りの建物に入っていく。図書館で受付を済ませ、借りていた本を返して開架書庫に向かう。今日は王家直轄領の農業と灌漑についての資料を読みたい。奥の書架から数冊の本を取り出して、アリシアは日陰の席で読書を始めた。
資料を読みながら、先程の喧嘩を思い出す。黒髪に碧眼の青年は、エルンスト・オルベルン。オルベルン公爵家の嫡男だ。最上級生の中では成績は常にトップ。魔力量も剣術の腕もトップクラスの化物だ。穏やかで女生徒に人気があると聞いていたが、どうやら噂はあてにならないらしい。
噂なんてものは、真実とどれだけ乖離していても、人の中で広まれば真実になる。その恐ろしさをアリシアは少し感じてしまったような気がした。
アリシア自身、噂には気を遣っている。気を抜けばフローラやロイがアリシアの品位を落とそうとしてくる。それに抗って学院で地位を築くのは随分苦労したものだ。
(面倒ごとにならなければいいけれど)
ため息をついたアリシアの思いは、翌日に見事打ち砕かれた。
今日は誰にも邪魔されず図書館に到着できた。昨日の続きで、王家直轄領の灌漑設備の歴史について調べようとしていたアリシアは、いつもの席に座って資料を広げ始めたところだった。
広い図書館の中、自習テーブルはいくつもあるというのに、アリシアの眼の前の席に座る人影がある。気が散るな。そう思った瞬間、結界が張られる感覚がした。
はっとして顔を上げたアリシアの前に座っていたのは、エルンスト・オルベルンだった。
「よぉ」
にっこりと微笑むエルンストに、アリシアは驚いた。人好きのする笑顔。その優しさは、噂に聞いていた『穏やかな好青年』に見える。
「消音結界を張ったから、ここでの会話は誰にも聞こえねぇ。単刀直入に聞くけどよ、」
エルンストの青い瞳がすぅっと細くなった。
「お前、異世界転生者だろ?」
*** ***
「何を仰っているのかしら?」
「あー、とぼける? ふーん」
エルンストは面白そうに頬杖をつくと、アリシアににっこりと微笑んだ。
「アリシア・マーシュ伯爵令嬢。成績は常に学年一位。品行方正で友人も多く、先生方の覚えもめでたい才女なんだって?」
調べてきたのか。アリシアが無視して資料に目線を戻しても、エルンストの口は止まらなかった。
「マーシュ伯爵の先妻の子として嫡子登録はされているが、婚姻時には腹の中にいたそうじゃないか。母親似の姿だからわからないが、父上とは血がつながっていないなんて言われているそうだな」
アリシアはその言葉をさらに無視した。
そう。アリシアの亡き母は、父と婚姻を結ぶ前に愛し合っている相手がいた。現ミラベル侯爵家の当主がその相手だ。王家がミラベル侯爵家の婚姻に口出しをしなければ、母はもしかしたらミラベル侯爵と結婚をしていたかもしれない。けれどその愛は引き裂かれ、母はマーシュ伯爵家へ嫁いだ。父からの情が薄いのは、そのせいだろうとアリシアは思っている。
「婚約者を妹に取られ、それでも腐らずに伯爵家の令嬢として過ごしている、随分できたご令嬢だ。話を聞く限りでは」
ひとり喋り続けるエルンスト。アリシアは図書の目次をもとに灌漑構造のページを開き始めた。
「そんなご令嬢が、街の銀行に特別名義作って預金してるなんて、どういうことだろうなぁ?」
アリシアは、その一言で手を止めた。
「……何が仰りたいんですか」
「べつに。たぶんマーシュ伯爵も妹御も、このことは知らないんだろうなぁって」
「……」
「そう睨むなよ。昨日、お前が言ったんだぜ? ヤンキーって。そんな単語、この世界にないよな?」
傍目にはとても優しげに、エルンストは微笑んで見せる。何も知らない令嬢ならば、見惚れてしまいそうな微笑を浮かべてエルンストは言った。
「話し相手になってくれね? こちとら、公爵家令息として猫っかぶりで生きてるからよ。気楽に話せる相手がほしいんだわ」
「……私になんのメリットが?」
「はは。俺に弱み握られてるの分かって、まだメリット取りにくるか。いいぜ。お前が欲しい情報、俺が分かる範囲で教えてやる。それでいいだろ?」
アリシアが欲しい情報。正直、王宮での父の立場や、諸侯の動きについてはあまり情報がない現状だ。オルベルン家なら王室にも近く、政治的な情報を多く持っているだろう。アリシアにとって、益になる情報も多いはず。
「……わかりました。ですが、私はこれでも婚約者がいる身ですから、話し相手になるのは放課後、図書館のこの席でのみ。それでよろしいですか」
「ああ、問題ない。じゃあ、今日からよろしくな? アリシア嬢?」
「かしこまりました、オルベルン様」
「エルンストでいい」
「では、エルンスト様。資料が読みたいので黙っていただいても?」
「……お前さぁ、話し相手になるっつった矢先にそれかよ」
「その喋り方、控えたほうがよろしいですよ。いつ本性が出るか分かりませんから」
「あ? 俺の猫っかぶり舐めるなよ?」
「バレてますけどね、私には」
「うるせー。で、何読んでんの? あー、王室直轄領における灌漑の歴史……? 地味なもん読んでるな」
「地味で結構」
「ふーん。そんなもん読んで、領地経営でもするつもりか?」
「いいえ」
「でも予定通りロンド家の愚息と結婚するつもりはないんだろ?」
「どうしてそう思われるんです?」
「どう考えても地獄じゃねーか。前世の記憶があるとさぁ、貴族社会は窮屈じゃね?」
「そうですね。あなたも大変でしょう、公爵家の嫡男なんて」
「そうでもないけど?」
以外な反応にアリシアは資料から顔をあげた。エルンストはアリシアの手元から取った一冊をぱらぱらと眺めながら言う。
「俺んち、公爵家なんて大仰な地位のわりに家族仲が良いんだわ。お陰様で可愛い妹と弟に恵まれてよぉ。あいつらが楽に暮らせるようにするのが俺の目標っつーの? だから、なんでも頑張れるし、政敵蹴散らしててっぺん取ってやるって思ってて。だから別に大変じゃねぇよ」
エルンストの左耳につけられた青色のピアスが光る。夕日に照らされた図書室で、俯いたエルンストの微笑は絵画のように美しかった。
「……そうですか」
「あ。俺の前世の話聞く?」
「……」
「後でお前の前世の話も教えろよ」
エルンストはアリシアの返事を待たず、手元の本に目を落としたまま喋りだす。
エルンストの前世は、わかりやすいヤンキーだった。両親の家庭内暴力から逃れるように自身も暴力を身につけ、幼い頃から外で揉め事を起こすことが多かったという。高校まではなんとか卒業したけれど、まともな職にはつけないまま、少ない稼ぎで日々を過ごしていた。そんな中で大切な女性に出会い、子どもが出来てやっと幸せになれると思った矢先のこと。生活のために掛け持ちした仕事で事故が起こり、あっさりと命を落としてしまった。
「心残りがあったから、記憶持ちなんて状態で生きてんのかな。今回は、大切な家族を幸せにする。まぁ、割と今でも幸せだけど」
「……そうですか」
「じゃ、次お前の番な!」
アリシアは十歳の頃に思い出した記憶を遡る。婚約が決まる少し前のことだ。高熱を出して寝込んだ夜に、めまいと吐き気の中思い出した見慣れない世界の記憶。映画を見たような記憶なのに、どうしてか残り続ける思い出。
アリシアの前世は特筆することもない人生だった。平凡な家庭に生まれ、淡々と生活をこなして大学を出た。中小企業に就職してそこそこの評価と給与を得ていたが、趣味と呼べるものは読書くらいで、楽しかった記憶も、苦しかった記憶も少ない。最後に残っている記憶は、真っ白な病院の天井。吊り下げられた点滴と、手を握ってくれる誰かの温もり。その温もりが、自分にとってとても大切なものだったことは確かだ。前世のことを考えるたびに、その温もりを思い出す。
「ふーん。いい人生だったわけだ」
「そうですね」
「それで? 今回の人生の目標は?」
「特にありません」
「あ?」
「私は平穏無事に過ごせればそれで」
「なるほどね。まぁ、いいか。転生者のよしみだ、困ったことがあったら、助けてやるよ」
「……あなた、単に面白がっているだけでしょう?」
アリシアの不審な視線に、エルンストはにっこりと微笑む。ここに他の令嬢がいたら、卒倒するかもしれない笑顔だ。
「お前にとって損はないだろ? 使えるもんはなんでも利用しろよ。ここじゃ狡猾なやつが生き残る。クソみてぇな婚約者も妹も、なんならマーシュ家全部ぶっ壊して、てめぇの好きに生きてみろよ」
「物騒ですね。領地には領民がいるんですが」
「そんなもん、領主が変わっても生きてけんだろ。自分の幸せ考えとけよ」
エルンストが言う言葉は暴論なのに、そう言って笑われるのは嫌じゃなかった。この日、結局アリシアは、予定していた範囲の学習が終わらなかった。