Key1 白い扉7
愛華の夢の中だという病室の中で、関野はガラスやら扉やらを叩き割ってでも飛び出したい衝動に駆られながら、彼女の話をメモに取っていた。
「夢の中でとったメモなら、俺のノートにも余計な事を書かなくてすむだろうな」
夢の主は、といえば顔色がいい。どういうわけだか青白い顔だったその頬に、薄桃の赤さが出ているくらいだ。現実よりもこっちの方がいいのだろう。
「そんな事でメモが取れなくなるとでも?甘いわね。書き続けなさいよ。ここから出るためにね」
愛華の顔色がよくなったというのは言葉にも表れた。先ほどの態度よりも、ずっと気が強くなったようだ。
次第に暮れていくと思われた表のオレンジは未だに明かりをともしたままで、それも気味が悪かった。音が聞こえないことも、余計に不気味だ。
「余計な事も何も言わない方がいいのは分かってるんだが、今まで人の夢の、しかも病室になんか通された事は無くってな。気持ちの整理をつけていただけだ。さ、話しやがれ。とっととここから出す為にな」
そういった関野へ愛華はうなずき返すと、あの異様な空間に続いているかもしれない此処で、その話を始めた。
「どこまで話したかしら?そうね、いきなり写真みたいになって彼が消えたところからだったわね。」
滑り落ちた空間を見る事はできない。白い空間に一人取り残される形をとった愛華はとあることに気づいた。何もなくなったはずの空間に、足元にぽっかりと穴が開いていたのだ。
その穴は、ちょうどシュウラの写真が吸い込まれた空間の真下だった。
そして、消えたはずのシュウラの声が響いたのも、そこからだった。
「そうそう言い忘れていた。課題一、まずはどこまでも歩き続けろ。そしてそこで何かを起こす事」
水溜りから響いた彼の声に驚きで小さく肩がはねた。あわてて穴の縁に手を着いて覗き込見ながら大声で問いかけた。
「シュウラ。シュウラ!ね、どういうことなの?課題って何よ、なにをすればいいのよー」
聞こえた声に逆に問いかけても彼の返信は無かった。言うだけいって電話を切られたような言葉に喉の奥が詰まる。そうして、一人残されたままで、愛華は謎解きを始めなければならなくなった。
穴といってはおかしいかもしれないが、穴というほかあるまい。愛華が覗き込むと、自分の息に穴が震えた。すこし指をつけると、冷たくもぬるくも無い水の感触。穴ではなく水溜りらしい。
透明でありながらにごった白を思わせる重量感のある色、周りの空間と同化する色。一周する円の細い線がここと違うものである印になっている。
「水溜り?雨もないし、水もないのに」
何かに気づいたように関野は叉、語りに突っ込んだ。
「独り言が多いんだな、やっぱり友達がいないからか」
水槽の向こう側の色が流れていく雲にさえぎられ滲む。彼女の怒気もそこに含まれているようだ。
「今のあなたと同じような状態だったから。もっとも、私は当時七歳で、あなたはいま……三十くらいかしら?だったらどっちが無様かしら?ねぇ」
関野の鬱憤晴らしの発言は、棘付きに倍返しに返された。
「三十路にもいってないぞ俺は。それは、四捨五入したら三十にもなるがまだ二十九歳だ俺は」
思わずそれに言葉を継いだ関野にさらに止めを愛華は加えた。
「なら約三十路男ね。二十九だってほぼ三十じゃない。それに年如きでおたおたする所から見ても、あなたって年齢に随分なこだわりでもあるの?こういうのあれね、愚直って言うのかしら」
「わかった!わかった!俺が悪かった!三十路だろうがなんだろうがなんでもいい!これ以上この部屋の空気よりもひどい気分にされたら困る」
わかればいいのよ、と、軽く鼻を鳴らすと、愛華は叉自分の語りに集中し始めた。年のことに関してはそれほど気にしていないはずだった関野はどうしてだか、胸がズキンとうずいた。
コケにされた事よりも、どうしてなのか年のことで自分がショックを受けている事もまた、衝撃だったと、彼は気づいていなかった。
今にも干上がりそうなそれに、顔をぐっと近づけると色は深みを増した。光はないはずだし、反射する水であるわけもない。
「ああ。そうか」
愛華はその水溜りを見て納得した。どうやらここがスタート地点だという印であるだけかもしれないと。
早速始まった自分の夢と違う空間を歩き続ける課題がこの色のない世界と水溜りもどきのスタート地点だけかと思うとため息もでようものだ。
「なによ。こんな水溜り」
撒き散らせるかどうかも分からないそれを、愛華は思いっきり踏みつけた。足が薄い水溜りについたと感じるはずだったのだが、足の先からいっきに愛華は前のめりに水溜りの中にはまり込んだ。
顎が水溜りの反対側にぶつかり、ぶつかった反対側の線のふちが緩くたわんだ。仰天し、必死に手を伸ばしたはずだが愛華の手は真上に伸ばしきれず、同じように縁にぶつかり先ほどの空間同様に縁は曖昧な感触を残したままつかむ事ができなかった。
「いやああああああ」
最初に出た絶叫は水の中で、ついで手のぶつかった後に続く残りの腕の先が水に引き込まれる重さのある水音が一緒に聞こえた。
「やぁあああ! やああああ!」
声が止まらないまま、水たまりの口が遠くなる。暴れて暴れて息が続かずおぼれると感じたときだった。怖かったはずの水の中で、自分が苦しくない事に涙のたまった目で気づいた。
「あれ? なんでこう苦しくないの? どうして私息ができて、それに壁がない? 」
水溜りの下に続くトンネルのような闇の空間を想像していた愛華だったが、常識はずれの世界に自分の思考は通用しない事をよりいっそう思い知らされた。