Key1白い扉3
一歩、扉の前に足を踏み出したのとほぼ同時、中から自分に染み付くような声が響いた。
「……。ああ、又来たの。記者さんね」
「あ、そ、そうだ、です」
足音で分かったのだろうか、不意打ちに関野が後ずさりをしながら扉を見ると、妙な圧迫感を扉から感じる。先ほどの声の主は、まるで向こう側から関野自身を値踏みしているかのように、扉の向こう側で、微かに皮肉の入った微笑をもらした。
「くふっ。くくくっ。何かおじさん面白い反応しているみたいね?」
おじさんという言葉にムッとして、関野の声は少し低くなった。 が、初めて声を聞いた相手に対して、こういう話し方をするのも仕方がないか、と思い直すと、向こう側の年下の相手に表情をつくろって声を出していた。
「いきなり、話しかければこっちだって驚く。で、記者だって分かっているのならどうする?」
「とりあえず、お名前だけ伺っておきましょうか。私の名前はご存知よね?」
関野は扉の向こう側で随分と楽しそうに話すものだと思った。こうして話を聞くと、とてもじゃないが彼女がここにいる理由が分からない。見えない向こうで彼女は答えを待っている。
まだ夏は終わらない時期だったが、冷房の冷たさが流れていた汗を止める。
「……ああ、知っている。佐原愛華、だろ。俺は実真東新聞記者 関野 幸一だ」
声の主の細った声は、関野の声を聞くと、今度は笑い方をぴたりとやめて、途切れながら言葉を選びつつこちら側へと答え出した。
「お名前ありがとう。……そうね、事故のことに、ついて、聞きに来たのでしょう?」
「そうだ。事故のことについての話だけを聞いて来いと、上司に命令されてきた」
「あなたの意思は無くて?じゃあ、私が何でここに居るのかも聞いてくれるの?」
声の主はあくまで言葉を繋げているが、違和感がある。何かを聞いているのは分かった。しかし、何を?
「それについては知らないね。おれは事故のことしか聞かされてない。だからここに居る理由なんか聞いても仕様がない」
聞かなくてもいいわけではないが、ここで何を言われるのかも分からない以上、関野は敵意のない事と必要以上かまわない事を示そうとした。今まで何人も相手をしてきた奴ならそれぐらい読めるだろうと踏んで。
案の定、扉の向こう側で重いものが倒れ掛かる音がする。愛華は扉を隔てて向こう側にいるのだろう。
「ふ~ん。ずいぶん正直ね。前の記者は面白がって聞こうと躍起になるから追い返したし、別の記者はあくまで優しくしようと徹して、逆にソレがすっごく気分悪くなったけど、あなたはあくまで、そこのところはソレでいいので通すの。ふ~ん」
近くなった声は高慢に聞こえた。いや、高慢というのは彼女の声が少し高いと感じたからだろうか?右手を胸ポケットに置いて彼は今、愛華の値踏みと向きあっていた。
「なら、もう一つ。これは何でもいい、答えて。いまあなたの周りで一番よく見える窓から、何色の光が見える?」
何の事やら、わけの分からないまま奥の窓を目だけで見やると、薄く映ったオレンジ色の輝きを見たまま答えた。すこしくすんだ灰色の建物が見え、この病院の雰囲気も表と同じだろう。と思えた。
「オレンジ色だ。向こうの建物の色で、オレンジだ。で、これが何だ?」
と、俺が答えると、彼女の言葉は途切れた。返ってこない。
そして、俺も自分のいった言葉に違和感を覚え、唇を浅くかんだ。何だ、何だ、この違和感は…………。
思わず、自分の携帯に手が伸びるが、携帯は院内では使用厳禁。切ってあるので確認も出来ない。いや、だが持っているアナログ時計は、時計は動いているはず。
関野が見た時計は、午前十一時と十四分。差し込んでいる光は、夕焼けのようなオレンジ。
腹の内側がぎゅっと引き絞られるような感触に、関野は数歩、窓に向かって歩いていた。
慌てて、靴紐に躓きながら窓まで駆け出し、窓に向かってとまることなく走った。激しく手を窓につけて、表を見ると、外は何一つ変わらないお昼時の光景で、鳩が公園に飛んでいくごくありふれた風景と、自分のあせって叩たきつけた手の横に映る眼を見開いた間抜け顔の自分自身。
では、あのオレンジの光は?隣には建物なんか無い。あるのは公園のうっそうとした緑が眼下に広がるだけ。
「そこの人!病院内は静かにと言われなかったんですか!」
年季を積んだおばちゃん看護婦が俺を叱責して、ようやく俺は気味の悪い空気の中から現実へと息継ぎをした。
「あ、ああすみません。つい、気分が悪くなって。大丈夫です。今は、もう、大丈夫ですから。」
看護婦は納得行かないような顔を見せながら点滴用具を片手に抱えて、無機質な音を立てながら廊下の曲がり角まで行って消えた。
「みえた、のね?」
扉からまた、タイミングよく彼女の声が響いた、通った声がやけにリアルなので振り返ると、うっすらとした茶色い栗毛色の髪があった。肩元で浅く縛られた三つ編みは彼女の細首を守るように揺れている。
瞳は浅い黒スグリの色、卵形の整った顔立ちに、あまり血色はよいとは言えないまでの唇の色がことさら、彼女の存在感を浮き立たせている。
「君が、この病室の。入れないのじゃなかったのか?」
手首にまいた包帯がやけに白くて、そのこ自身をその場に繋ぎとめるかせのように見えた。変わらぬ無表情のまま、彼女は、愛華は俺の中を覗き込むように見つめた。
「それは、話の通じない奴らだから。あなたは私の中の、あれの一端を見る事が出来た。誰も見えるはずが無いと思っていたのに、やはり、あいつは嘘吐きね」
愛華の最後の発言に関野は思わず問いかけた。
「お、おい?何をいってるんだ?」
関野がそういっている間に、彼女は関野の手を引くと、自らの病室内に彼を招きいれた。
引き入れられたというのが正しい。そのまま入ってもよかったが、一歩踏みとどまる気持ちがなかったわけではない。関野は彼女の招きに迷った。あまりにもうまい具合に運びすぎる。
「どうしたの?」
「いや、あっさり引き入れてくれるもんだからな。ちょっと驚いただけだ」
「引き返す?止めはしないわよ?それとも私のお話、記事にしにきたのなら最後まで聞いていくのかしら?」
愛華の微笑みが俺の顔に向けられた。挑戦、いや、挑発の気を帯びた目は深く自分の眼と交わった。こんな娘に馬鹿にされているのかと、関野はそのときの戸惑いを振り払い、引かれるままに室内に足を踏み入れてしまった。