Key4 終章 夢刻の奏門 1
小さな水滴の落ちる音までが耳に痛い。愛華はそう思いながら薄目を開けて自分の腕に刺さっている点滴の針を見つめていた。精神安定剤の以前より一段階強い薬は、自分の中にある意識を朦朧とさせる。今はもう消灯されてしまった夜で、傍には寝ずの番をする人はいないまでも、薬のおかげで立てない状態では起き上がる事さえ困難だった。
「は、ぁ。」
息をして言葉を出そうとして出るのは乾いた喉の音と眠りを含んだ空気ばかりだ。助けた結果どうなるのか分かっていたさ、そう、わかっていたのにね。
愛華はふらつく状態で、反対側の手をベッドの手すりにつけてゆっくり半身を持ち上げていき、緩慢な動作ながらも其の力の入らない体を上半身だけ起こす事に成功した。
起き上がって窓から入る公園の電灯の明かりが、カーテンの隙間から外で輝いているのが分かった。ベッドの対角上で座っている見張りがいないのを確認して、其の状態から意識を落とす為にゆっくりと自分の外を閉じていった。
とろとろとまどろんでいる愛華はいつでも眠れる状態だった、実際薬は利きすぎるくらいで、彼女がこの体制で起き上がるのも必死の事だったのだ。
無理して起きる必要はない。だが、あの世界に入るときに横になったまま入るのだけは避けたかった。
愛華が意識を手放したのは、そう思ってからすぐだった。瞳が閉じて背中に柔らかな布団の感触を感じてすぐ、彼女は別のところで目を覚ました。
それは、眠りに入る直前の感覚を持ったまま、光を感じて目覚めるのに等しいまさしく、連眠の状態だった。
目覚めた先に誰かがいると言う以外は。
関野とともに入り込んだ夢の病室ではなく、愛華はまったく異なる空間に一人立っていた。それはあの話に出てきていた庭園、シュウラが作り出した庭だった。周囲は霧深く視界は白い靄ばかりだ。ざわざわと足元に生えそろっているのは柔らかな緑のコケの絨毯、今回はどうも日本庭園よりだが現実世界ではあまりお目にかかれない庭のようだった。
裸足のまま踏み出すと、自分の予想通りで何とも言いがたい。コケだと思っていた一面緑の植物は一つ一つに粒が付いたきのこのような物体だった。弾力はきのこよりもあるし、柔軟性も優れているが、長くは足に感じていたくない代物だ。
足跡が付くたびに、小さなつぶれる音がしてそうして緑のきのこ達がつぶれた跡には真っ青な液体が残る。おまけに暖かいのもいやだ。
踏みつけながら進むとそこ此処から風船から空気の抜けるような音が響く。靄を吐き出す何かがいるらしい、時折それが吐く音が低く響いている。
白い視界に目が慣れてくれば、徐々にそこがどういうところなのかが分かる。周囲には低い潅木たちが並び、横で這うように根を絡ませあいながら、頂点の光を受けようと其の葉を樹上へと向けて青々とさせている。コケキノコ絨毯は、そんな潅木たち体にところ構わず生えて、あたり一面が白と緑、ところにより青と言った景色だ。
足跡を残しながら歩いた先で立ち止まると、切り株がコケキノコとは別の何かに覆われて薄茶色の毛を生やしている。愛華はやっとみつけた椅子に座ると、周囲に生い茂る潅木と木々を見渡しながらシュウラを探した。
「随分とあの時の夢がお気に入りなのね。数ヶ月前だったかしら? このキノコはたしか、宮殿入りしたときに見たのと同じだったと思うけど」
声が反響して木々の合間をかけていくところは、幽谷といったところだろう。響いた声に返す声は、やはり同じように響いていた。
「やぁ、いらっしゃい。君からこちらへ来るなんて珍しい事だ。それとも、僕との約束が果たせる目処でも立ったのかな? 」
潅木のあいまで大きくそびえ立つ大樹、その上から声は聞こえたようだ。切り株に愛華が座ったままで返答を返さずにいると、切り株が大きく揺れた。ごそごそと根を器用に使って歩く様などまるで蜘蛛が足を動かしているようだ。
愛華を乗せたままの其の切り株は背もたれのような大きな突起をはやすと、大樹に根を突き刺してゆっくりと登っていく。乗せられて揺られる愛華は、もはや慣れた様子で切り株には目もくれずに頂上で待っているであろうシュウラに向かって声を飛ばした。
「約束ね、目処も何もあとひとつよ。私が関門の話をしきったら、彼にはあの事件の真相を話すと告げているもの。でも、それが何を意味するかまではまだ教えるつもりは無いのだけれどね」
声が飛べば、もうそこそこの高さに昇った切り株が其の声に驚いたように時折足を止める。そして、ゆっくりとその足を上へ上へとむかわせていく。そうしていくうちに、切り株の根先はまるで爪が生えた手のように徐々に複数の根を大樹に食い込ませていき、それはより合わさって固まっていった。
そんな変化にも、愛華は気にする事も無くシュウラとの樹上に続くまでの会話を始めた。
「そこは、君に任せているからな。なんせ僕は今回の一件での手助けはしないつもりだったからね。無論、君が危機に晒されるとき以外はだ」
「そういうだけなら紳士よね。あなたも。だけどね、どれだけ時間が経っても忘れられるわけが無いでしょう」
「おお、怖い。だけど君と交わした約束についての契約の条件、あれを満たすには些か条件が不利だと僕は思うがね」
会話の中に度々でてくる約束の二文字、愛華はそれを思い出して組んでいた腕組みをきつくした。自分の下で背もたれ付きの切り株は更に変形して、今では篭つきの切り株、いや篭をしょった手足の長い生き物になっている。乗り主の沈黙に切り株の蝶の触覚が上下に揺れてこちらを確認している。
「このまま登っていいんだ。気にするところじゃないさ」
切り株に優しく話しかけてやると、切り株はそれならと、大きな腕を強く木に打ち込んで登るスピードを速めた。頂上にいる自分の主を目指す為に。不利だと言ったシュウラの言葉は正しい。だが、愛華はそれに落ち着いた声音で答えた。
「条件を満たすのが不利? そんな賭けなのは、はなから承知済みよ。さも無きゃこんな賭けなんて臨んでないわ」
昇るスピードの上がった生けるエレベーターは光が強くなる方向へと枝を避けつつどんどんと昇っていく。愛華がちらちらとエレベーターの外の景色を覗けば、九十度傾いた世界で霧を吹き散らす果実が見えた。
もう、潅木が下で黒くたごまった毛糸くずのように見えているのも何ともいえない光景だ。第一潅木かどうかも実のところ怪しい代物で、触るとほんのりと暖かかったのを思い出して揺れる篭の切り株に同じように目線をめぐらせれば、もはや切り株ではなくなっていた。
根だった腕は茶色の柔らかな毛をまとった腕に、篭の部分は木のままだがその下には何かの動物のたてがみが生えだしていた。切り株の上を向く側に出来た小さい頭はとがった耳が突き出している。
「迎えの来させ方にも随分と面白みが出てきたじゃない? シュウラ。今までは歩いたりなんだりしたのに比べれば随分と上等よ」
「なに、君があそこまであの男をひきつけた事に対する賛辞のようなものさ。だが、約束を果たすにはまだ足りてない。それを話すため、に、来たわけじゃなさそうだな。現実世界でも弱っているのは分かったがこちら側に来ない眠り方を続けていたな」
篭に揺られているうちに、気づけば大きく張り出した枝の一本にかごは止まっていた。下から息とともに獣が喉を震わせる音がして、降りろとかごの扉が開いた。
枝の付け根からすこしはなれたところ、どうやったのかあの喫茶店は其の枝の上に建っており、シュウラはこれまたどうやって持ってきたのかおなじウッドデッキの上で何かを飲んでいる。こちらを見る格好にもやはり卒が無い。
「ええ、こちら側にこられない眠り方をさせられていたからね。安定剤の強力なのを飲んでいてこちら側に意識を集中するどころか、散らす羽目になっていたのよ」
篭を振り返ることなく愛華は裸足のままで歩いていき、背後で篭を背負った獣は大きく伸びをすると、大きく尾を振るって彼らには興味が無いように、大きな毛玉の塊になって動かなくなった。
シュウラは緑茶にしては刺激臭がある飲み物をついで愛華の前に差し出し、あの時と同じだがすこしだけ手すりが丸くなりつやが出た椅子を引いて彼女を向かえた。
「だからか、現実世界で何があったか聞かせてもらいたいことだ。とはいっても君とあの男が何をやったのかぐらいかは想像が付いているがね」
注いだお茶には興味を示さない愛華に、やれやれと肩をすくめて見せると彼は自分が愛用している椅子に戻った。枝の上で開かれている茶会は、樹上からみる広大な森林の海を背景にして雄大なその息吹を直に感じられる。
何もいないわけではないその息吹は、途中の枝でみたあの果実が吐き出す花粉や、潅木から立ち上ってくる水と落ち葉を混ぜながら立ち上る森の匂いだろう。静かに流れる水の音に、木霊する何かの嘶き(いななき)はここが何処だったのかを愛華に思い出させていた。干渉に浸っているつもりではなかったのに、引き込まれていた愛華は、気付とばかりにシュウラの不気味なお茶を飲み下すと、顔をしかめていった。
「うっわ、すっぱ辛い。この夢のお茶はこんな味じゃなかったはずよ? おまけに後味はえぐいし。ああ、こん名ことはなしたいのじゃないのよ。想像が付いているって言うの、貴方が。想像が付いているなんて白々しい台詞を」
口元を押さえながら話す愛華に、見向きもしないでお茶の御代わりを飲み下すシュウラは、愛華が言ったような味など感じていないように平然としていた。そうして、細く目を開けると、茶器を置かずに愛華との話に戻った。
「景色はこっちのが私は好きなんだ。だからこの景色を使わせてもらっている。もっとも、君が好んでいるザナイ地帯の景色も僕は嫌いじゃないがね」
「そんなことを話すつもりで来たんじゃないでしょう、話をそらしながら会話するのには慣れているけどね、こっちにいられる時間を長くしてられないのよ、今日は特に」
愛華がそう言って茶器をシュウラに付き返すと、彼はそれにもまた先ほどのお茶を注ぎ返した。返すつもりで渡された茶器に愛華の口元が下がる。注ぎ返された茶器にたまったお茶とシュウラの顔を見比べて、取っ手を握り締めると、まだ湯気の立つそれをシュウラめがけて投げつけた。
「おっと、本当に切羽詰っているね。お茶を飲む時間さえ惜しいか」
「いっているでしょ、約束を果たせそうだけど、そっちはどうなのかって事よ。私ばっかりが果たそうとしてそっちが何も、じゃねぇ。話にならないじゃない」
まだ湯気立つお茶がシュウラに掛かったが、掛かったはずのお茶はシュウラを避けてとびちり、掛かった大樹の枝を深い青に染めた。飛んでいった器は彼にぶつかったが、音とは裏腹に痛そうでも無ければ切れた様子も無い。茶器が欠片を散らして霧散してしまい、後にはお茶が飛び散ったしみが残るだけだ。
ことが終わったのを見計らうと、懐をまさぐって飛び散った茶器を焦る様子も無く懐から取り出してまた注ぎ直すシュウラの周到さは、愛華の眉間に刻まれた皺を深くする。