Key3 紐鎖の岐路
居酒屋の翌日、肌寒い空気を感じて関野は目を開けた。温泉からもどって窓側の布団にもぐりこんだところまでは覚えている。そうして寒さを感じるまで闇の中で眠りをむさぼっていたのだけは覚えていた。
愛華の言う夢は彼女が傍にいないと見る事はできないのだろうか? まだくっついたままの片目をこすり上半身を動かして部屋をみまわすと、皺がついたシャツのまま寝ている千ヶ原がドアの側に向かって転がった後が見えた。
寝相の悪い男だとおもいつつ、関野は自分の布団をはがして頭を明瞭にする為に洗面台へ向かった。鏡に映る自分の見た目は若干の寝不足気味で、まだ瞼がくっついたままの関野は冷たい水で顔を洗って残った眠気を覚ますと、昨日途中まで考えて結局出なかったここで得られる情報について考えていた。
煙草ケースを開けて朝の一本を吸おうとしたが、昨日投げつけたのだから無いに決まっている。ケースの空いた空間を指が掴んで、引き出した指先を見て鍵を片手に財布をもって部屋の外に出た。
まだ朝早いのか廊下には足元を照らす小さな明かりが昇りの浅い日差しで、ぼやけた輝きで足元を照らしている。
まだ眠る人もいるだろうと、関野は冷ややかな空気の中足音を小さくさせる。どうしても出てしまう小さなスリッパの乾いた音が旅館の本館に続く廊下で中庭を映す窓や壁に当たり反響していった。
ゆっくりとした足取りで向かった本館にある煙草の自販機までたどり着くと、残念な事に気づく。気に入りの銘柄が無くなっているではないか。
財布の中身と煙草を見比べながら大きく溜息をつく。仕方なしに口寂しいよりはと同じ銘柄のライトを一箱買うと、部屋に向かって歩き出そうとした。
時刻は午前四時と二十を回った頃、部屋に帰る途中で、彼の頭には此処にきた理由と、これ以上居る必要があるのかという選択に思考は移っていた。
老人、そして伝承とどちらにも決め手が無いのだ。土地の風習もそれに加わって、余計な事は聞きだせそうにも思えない。編集長に断ってきた取材も、これで良いのかとばかり思えてくる。
廊下が禁煙なのは知っているが、関野は煙草を咥えて部屋までの長い道のりを歩いた。
「どちらにも考えられないなら。いっそ愛華のところに戻るべきかもしれないな」
中庭の見えるところまで来たとき、関野はふとそう呟いた。見えないなら、見えるようにすればいい。それが何かに触れる事になっても。
庭に目をやっていた関野に新しく力がこめられた。信じられないなら、自分が体験した事も含めて考えれば良いじゃないか、あのときから経った時を考えれば日はかなり経ってしまった。此処で午前中事件漬けになって、それでもでなければ愛華の元に戻るべきだろう。
「手がかり無しって言うので怒られそうな気もするけどな」
そう言った関野は目線を上に上げると思い出していた。思い出さなくてもそうだ。間違いなく腕を組んで堂々とベッドの上から毒舌を吐くのが愛華だろう。
すっきりはしない回答だが、事件当事者である彼女の他に事件を知り得ている人物が居るのかどうか、それも疑わしいと思えてきていた。
「そうか、逆に何が出来ないじゃなくて、何処でも伸びる可能性で伸びきっている芽を刈るべきなのか」
関野はそういうと部屋に向かって足を速めた。探さなければならない場所は此処じゃないと、決めたからだ。冷えた廊下に新しく灯した熱の足跡を残して関野は去っていった。
去った後、朝日の廊下のはめ込まれたガラスが結露でやんわりと曇る。
キュ
かすかに音がした気がした。それは観葉植物が揺れた音だろうか? 窓際に置かれた棕櫚の葉が風も無いのにかすかに揺れていた。開いている窓は無いはずだ、玄関の自動ドアは開いていない。そして、その葉先にぬぐわれた窓の曇りは偶然にも指の先でなぞったような四本の細い線がついていた。
部屋に戻ってからも煙草を吸いながら昨日脱ぎ捨てた服をまとめると乱暴にかばんに突っ込み、すぐにでも帰る準備をしていると、その動きに目を覚ました頭の髪が爆発した友人がまだほぼ閉じた目で見上げていた。
「んだよ、朝っぱらから機敏な奴だなお前は」
「やっと起きたか。これだけ動いて手ほとんど起きないお前が鈍感なだけだと俺は思うのだが」
関野がそう返すと布団の虫と化した千ヶ原の手が伸び、携帯にそれが届く。片手でそれを開けて時刻確認をした彼の寝ぼけた怒りの抗議がしてくる。
「それは俺が寝坊なだけかもしれないと思ったが待て、まだ五時半だぞ! せめてあと一時間は寝かせろよ。今日も俺は現場のほう回らなくちゃいけないんだから体力回復に練る必要があるのに」
そう言ってもう一度布団にもぐりこみ、虫から蛹へ逆変化した千ヶ原に、関野は残っていた資料を突っ込みながら言った。
「悪い。だけど俺も予定が変わった。ここいらで調べても出てこなさそうだから一旦愛華のところに戻る。情報が何の役に立つか聴かなきゃならないし、あの事件に他に関わっている被害者からも意見を聞きたい」
「あ――そうですかぁ。…………んだと? かえるだぁ!? 」
関野がしまい終わったところで千ヶ原が布団を跳ね飛ばした。先ほど閉じていた目が完全に開いていて、現状を把握できて無いが帰るの言葉に反応して大きく頭を左右に振っている。
「関野いきなり帰るっていうのはどういうことだ、俺にも分かるように説明しろ」
「一度言ったんだが。ここで調べても何も出てこないように思える。だから愛華に直接効きに行く。そのついでで生き残った被害者達の証言も聞く。それだけだ」
そう言った関野に頭を抱えて聞いていた千ヶ原だったが、口を結んだまま表情は硬い。昨日の今日でいきなり帰ると言われれば無論納得など出来ない、おまけに収穫はあの唯事の見つけてきた爺さんだけだ。千ヶ原は額に手を当てたまま関野を見やって言い返した。
「お前、それだけで帰るのかよ。というか待て、俺が寝ている間に何があった。そしてどうして帰る結論になったんだよ。おまけに、お前だって何回も俺に言わせるな、なんかあって話せる事なら俺が力になるって行っただろうが」
「いや、何があったも、どうしたのかも無いが? 強いて言うなら来地颪の由来をお前が寝ている間に聞かされたのと、此処の住人がその昔話のせいで、好奇心には目をつぶれと言われているのを守っているのが分かっただけだ」
関野がそう告げると、千ヶ原はまだ納得がいかないように乱れたシャツの上ボタンをひとつ外すと、そこをふって首に風を送り込んだ。関野の言葉の後でお互いに言葉が続かない。
千ヶ原は何か言いたげだったが、それを黙っているようで、あえて何も言わないで居るようだった。お互いが目を見る沈黙が数分は続いただろう。黙っていた千ヶ原が、そこでやっと口を開いた。
「あのよ、関野。お前本当にどうかしているぞ」
「黙ってからの開口一番がそれか。俺は何処も変わってない、只情報がないから知りたいことのあるところへ行きたいだけだ」
「それがおかしいって言ってるんだ。昨日の晩のあれも、中身は違うな? え? そうだろうが」
「中身が違う? ゴキブリは出るし俺は虫が嫌いとしか言ってないぞ」
「それは本当だろうが違う。それ以外で、あの記事に関わってからのお前が変だって言っているだろうが! 」
千ヶ原はそういうと、布団の上でダンと拳を打ちつけた。音に関野が驚くとすぐに布団から立ち上がり、収まりきらない感情で関野の襟首を掴んだ。
「ちがうっていってんだ! いきなり帰るだの、メモ帳の束にあるおかしいだの何だのって言葉の羅列は何だよ。俺が気づかないとでも思ったか、知らないなんて思ったのかよ?! お前一体何に関わったんだ、事件だけじゃないだろう」
千ヶ原が掴んだ襟が締められ喉が痛い。掴まれた手を引き剥がすと、足元に崩れ落ちるように関野は咳き込んだ。
上からそれを見下ろす千ヶ原の両の手は引き剥がされたままの形だったが、それが僅かに震えている。関野は顔を上げてから、その両の手の震えに気づいたのだった。襟首を掴んだのは千ヶ原だったが、その顔は苦しんでいた。
「おまえよ、抱え込むなよ。言いたくないのは分かるがよ。何で言いたくないのかぐらい聞かせてくれよ。そうじゃないとおれだってわからねぇ、どうしてそこまでして他人を関わらせたくないのかがな」
「千ヶ原。げほっ、コホッこほっ。あのな、俺が関わらせたくないからとか、そんな事だけじゃなくて話せないでいるのも分かってくれ。だけど、すまない。気、使ってくれてんだろ」
咳き込みながらも、関野は目の前で立っている千ヶ原にそう言った。分からない事を知りたいと思っているのは何も千ヶ原だけじゃない、今の自分がそうなのだ。まして、信用できそうにも無い話をどう話したら良いだろうか?
関野はそう考えるほどに千ヶ原に話せば楽になれないと考えていた。だが、心配してくれる同期の悪友にもこれ以上心配をかけても良いとは思えない。千ヶ原が何かを言おうとして口を開いてから、関野はそれにかぶせるように言葉を続けた。
「悪いな。関わらせたくないとか、そうじゃない。今俺も整理出来てないから、それを話していいのか分からないんだ。来地颪の事件が怪奇事件だというのを、いや、それより前だな。愛華と話してから俺も頭が整理できなくなったのかも知れん」
「佐原と話してから? 話の内容は、その言い方だとまだいえないみたいだな。 いい、わかった。俺も突っ込みすぎたよ。整理が出来てからでいいからお前の話を聞かせろ。
事件とかそういうの関係なく、同期の友人としてだ。分かったら心配かけるなよ、お前の様子からまさか早駆のあれみたいになったかと思ったぜ」
納得いかないのを我慢して千ヶ原が言った最後の一言に、関野は飛びついた。
「まて。早駆だと? それは別口の記者のことか? そっちに何があったか教えてくれ、もしかしたら手がかりになるかもしれん」
逆に肩をつかまれて、千ヶ原は関野から頼み込まれて朝一番に大きな溜息をつく事となった。
愛華の居ないときには、関野ではなくて千ヶ原さんが振り回されていて、今後もしかしたらそういう役回りになるかもしれないなーとの溜息かもしれません;