Key3 紐鎖の岐路6
「お客さん、まぁ立ったままでお話しするのも疲れますからこちらへ。
そうですねぇ、此処の地方に昔から言い伝えられている昔話でね。もともと来地颪峠は名前の無い峠でした。そこには風の神がいらっしゃったという話でね」
「ふむ、昔話らしいはなしですね。その風の神様が名づけたのが始まりなのでしょうか? 」
関野がそう聞き返すと、女性はゆっくりと首を振って否定してこう言った。
「いえいえ、そんな優しい話じゃありませんよ。怖いお話でね。
その頃は村も少なくて、新しい土地を開拓したり、山間に狩りに出かけながらこの近辺の地形を探る人もいたそうです。
そんなころから風の神は峠に住まわれていたそうですが、あるとき一人の若者が風の神見たさに夜の峠に向かい、峠で風の神とその峠の隣の森に住む鬼がなにやら話しているところに遭遇したそうです」
薦められるまま自分も丸太椅子に腰掛けると、その女性の話に耳を澄ませた。怪奇だろうが民話だろうが何が情報源になるかもわからない。昔話を真剣に書き綴る記者に、女性もすこし声を低くして話を更に続けた。
「若者は神に見つかり、峠の向こうで待てといわれますが、好奇心を押さえきれずに隠れて二人のやり取りを見てしまいます。その結果神の怒りを買ってしまい峠から吹き降ろす風にこの土地に飛ばされてしまいます。
ですが、それだけでは神の怒りは収まりませんでした。飛ばされた若者には呪が掛かり、土地を通る道を幾度も変えて歩いてもこの土地から出る事はできなかったそうです。そこで名前がついたのが、颪が来る土地の峠、『来地颪峠』。そして若者が出られなかったここは道が加わり続けるので、『加の路』そう呼ばれています」
「随分と理不尽な昔話でもありますね。覗いてしまったことで死ぬことになってしなうなんて」
「ええ、ですからこの昔話の教訓では、好奇心は犬をも殺す。それを特に表しているんです。だからこそ、余計な事に関わってはいけないと。そういう言い伝えが残る土地でもありますから、他所様に対して排他的な態度を取ってしまうみたいです」
女性はそういった話をすると、傍で書き続ける関野にお茶を入れる野に一旦席を立った。ボールペンの走る音が最初は早かったが、女性の物語が終わりまで来るとその音は鈍っていった。ペン先が止まって一筋の汗が流れる。
「そういうわけで、あまりお話は出来ない理由も、お分かりいただけたと思いますから、あの事故のお話は聞いて回らないほうがよろしいと思いますよ」
「え、ええ。怖いお話ですけど興味深い話をありがとうございました。あ、お茶ちょっといただいたら相方が車で待ちぼうけになってると思いますので失礼しますね」
関野は淀みなくそう答えると、女性は軽くお辞儀をして地元の男性を起こしに関野のそばから離れていった。
お茶はそれほど熱くはなかったが口付けて一気に飲み干すと、すぐに店ののれんをくぐって出て行こうとした。
「おい若いの、つり銭忘れているぞ」
店主の声掛けにすぐ引き返してつり銭を引っつかむと、関野はそのままと横に引き戸を引っ張ると後ろを振り返りもせずに車に向かって歩いていった。
すぐに車についたが車内で待っていた千ヶ原はほろ酔い気分だったのもあってか、既に席を倒して寝入っている。車内に入る前に関野は車に体を預けて、一服する為に煙草を取り出した。
夜風に揺れるライターの火を見つめていたが、勢いよくそれを閉じると、くわえていた煙草を再度胸ポケットに突っ込み隣にあるメモ帳も、ふれる気が起きなかった。
言葉にならなかったのとは違う、只の昔語りの此処まで驚く自分じゃないはずだ。そう思うのに昔話に自分が重なった気がしてしまい、最後まで状態を保てなかった。煙草さえ吸う気が起きなくなる。
「なんだよ、なんなんだよ。俺ばかり振り回されて一体なんだって言うんだ。たかが夢に何で振り回されなくちゃならない」
そうはいっても昔話に重なった好奇心の若者は、今真実を知ろうとして、未知のところに踏み込んでいる自分に聞こえる。夜に冷やされる自分の体が熱どころか、生気まで奪われる気がした。
「それとも、これもまさか愛華が知っている事だって言うのか? そんな事あってたまるかよ。彼女はここにいない。それに、俺が此処まで調べるのを知っていることなんて不可能だ」
そうは言っても、それも不確かにしてしまう現実があった。あの夢の空間、安定剤で不眠の状態に夢の空間に引きずりこまれたというのが仮に、彼女が催眠術だの何だのを使ったとすると仮定する。
もし、それで自分の精神状態に深い催眠による罠が仕組まれていたとしても、催眠が簡単に効くようになる状態になるには一定の条件が要る、それはだからありえない。
考えたくなくても思考は更に複雑になった。まとまらない思考にもどかしさばかりが先走り、関野は持っていた煙草ケースを地面にたたきつけた。飛び散ったまだ吸えるはずの煙草の白い色は、浅黒い地面に放射状に飛び散っていった。
森が風にざわめき吹かれた煙草が軽い音を立てて転がっていく。落ち着かない考えに、何もかも振り回された関野は、それ以上考えたくもないと、煙草ケースだけ拾い上げると車に乗り、ラジオの音を上げて加の路の居酒屋から旅館に向かった。
旅館についてから、千ヶ原を部屋の敷かれた布団に転がしてくると、まだ十時をまわる前だったので残っている時間だけでも温泉につかるかと、服をまとめて薄暗い廊下を歩いて湯殿に向かった。
浴場について服を脱ぎだしてから、ハタと気づく。彼女が話していたのは隣の女湯だが男はいなかったと。
「きてから気づくってのも、面倒なもんだ」
半分脱ぎきってしまった状態だし、これ以上考えるのも億劫だった。なんでもないさと、服をロッカーに放り込むと関野は浴場へと入っていった。
夜遅くなのもあって人のいりはなく、すれ違った腰の曲がった老人等が最後に上がっていき浴場には誰一人居ない。掛け湯だけして湯につかると、湯の出る口からあふれ出る水音のほかには天井から時折滴り降りる雫、そして遠くで回っている換気扇の音ばかりだ。
関野はそれまでのむしゃくしゃしていた感情も思考も、湯に浸かってそれがほぐされていくのを感じた。室内の誰も居ない空間が余計に気持ちを和らげていく。
大きく息をついた関野は、入れていた手ぬぐいで顔周りを拭くと周囲に目をやった。湯煙がうっすらと浴場内に篭っている中、洗い場やサウナ室などに自然と目線が行く。誰も居ない風呂に隣の女湯からも女性の声は聞こえてこない。そのまま浸かっているつもりだったが、数分も持たなかった。
桶を抱えたまま露天の入り口に向かっている自分に、居酒屋の昔話が耳で反響した気がする。音を立てて滑らせたドアの向こう側に湯煙が引き出され、熱の篭った体に外の空気がちょうどいい具合に吹き付ける。
露天は見回しても当然ながら誰も居ない。屋根の下にある風呂と作りが違う湯の口から同じように湯があふれるだけだ。
「ここでね。声は響くみたいだが逆に響きすぎる気もする。だったら誰と話してたんだ」
そういいつつ、関野は屋根の下に入ると腰から下だけを湯船に沈めた。あれだけ加の路の辺りで鳴いていた蛙の合唱は今はすこし収まった様に思える。
女湯の露天は高い岩壁がさえぎっているので見えはしない。仕切りは大きいし、湯を流す為に向こう側には堀がある。
湯の中をわたって堀を確認したが、大きな岩で仕切られた岩の向こう側の堀は深さも幅もあり、黒々とした苔に覆われているように見えて、とてもじゃないが隣にいけるようには見えない。
「堀のほうから女湯に向かって話しかけるのは難しそうだな。だったら男が話していたというのもわからん。老人のそれが嘘だという線も考えに入れたほうが良いのか? んー。」
一人考えを呟いていたときだった、昼間の悪寒が前振りもなく襲ってきた。関野は調べていた岩から手を離して大きく水をかくと、後ろを振り返った。
もちろん誰も居るわけがない。だが、直に肌で感じる悪寒は服を通してよりも気持ち悪い。何処から見られている気がしたのかを体ごと動かして左右をみるが、人影なんてありはしない。湯で濡れた産毛まで逆立つほどに鳥肌が立つ。
そして、色々と見ていた視線が内風呂とを繋ぐ入り口付近で止まった。何もない、それでもどうしてかそこに引き寄せられるように目が留まる。
内湯に続く扉は閉まったままだったし、何かが扉に触れたとかで扉にも変化はなし。
一分ほどそこを注視していたが、来たときと同様に悪寒は去っていった。
「この、悪寒も愛華繋がりな気がしてくるな。ここも曰くつきと幽霊が出るとか、そんなのであればそれで納得しておきたいぜ」
関野はそういうと、悪寒が去った扉に向かって歩み寄ると内風呂も早足に通り抜け、千ヶ原が寝ている分だけまだ現実に近い部屋へ向かう事にした。
鳥のさえずりが聞こえる。夜の空に浮かぶのは日差しの光をたたえた銀月だ。それを見上げながら木製の椅子に座る少年、いや青年だろうか。柔らかそうな服一式を身にまとい何かを青の花に彩られたティーカップで飲んでいるのは、愛華にシュウラと呼ばれたその人だった。
「やれ、愛華とも話したし、現状がどうなっているのかも聞けたね。けど」
誰に言うでもなく話す彼は、浮かんだ月を肴にテーブルに三つの腕それぞれに火を灯す燭台に、指を触れた。燃え上がりもせず揺れるそれは、指を包んで火を大きくすると指を拒絶するようにその舌の穂先を横に反らした。それさえも満足そうに眺めるシュウラの目にも、同じ色の火がともっている。
「これはどう転ぶのかさぞ見ものだ。愛華の言っていた約束も直に本当になりそうだしねぇ。これはしばらく僕ものんびりはしていられなさそうだ」
忙しくなると暗に言いながらも、シュウラの口調に慌てた素振りはまったくなかった。クスクスと笑いながら燃える火を掴みたくて堪らないと、指先を動かす。
真昼の光の夜に照らされたスズランや露草を植えられた庭に夜風が吹き付ける。彩られた庭で彼は静かに約束の時が来るのをいつもと変わらぬ茶を飲みながら待った。