Key3 紐鎖の岐路3
これだけ旨そうなのに酒がお預けになるとはと、早速運ばれてきた生ビールに口をつけて飲み下す千ヶ原を恨めしげに関野は見つめつつ、味がいいからこそもったいなさ過ぎる定食に箸をつけて話を続けた。
「くっそ、今度帰る時はお前が運転しやがれってんだ。
精神疾患の件だがな、俺はどうも彼女が偽っているような気がしてきてな。最近の言動をみてもまともに話せているし、多少感情が高まったりする時以外は普通だ」
千ヶ原も酒と定食の天ぷらを食べながら、それには頷いた。関野の話を多少聞いてはいたが、彼女が疾患を抱えているという事はあるにはあるのだが、その程度がそれほど大袈裟な事だとは思えないのだ。
話してないあの夢話の状態でも愛華は饒舌に語っていた。むしろ夢話のほうが正常であるかのようだった。もちろん、正気を疑われる節だってある。だが、真っ先に疑われるのは自分だろう。
千ヶ原の昼間の車内でのこともあって、それだけは千ヶ原内は会話を省きつつ繋げて話していた。
彼女があれの正体について語る気が無いのならば、今は現実の話には出せない。それとこれとは話も違う事だ。ひとりで内心の整理をしていると、千ヶ原が含んでいた口の中のものを酒で飲み下して、更に大きく頷いた。
「そうだな、彼女が事件の事を話しているのはまだすこしだけでも、被害者にしては冷静さを取り戻しているようにも聞こえる。けど、そうすると俺は何でその当事者である彼女が、お前をここに越させたのかが疑問だ」
「疑問? こっちにあるかもしれないといったのは彼女だし、彼女自身が知らない事で何かあった可能性があるから俺はこっちにきたんだ。何処が疑問なんだよ」
更に酒をあおりつつ、千ヶ原は関野の言ったことに指を立てる。関野としては、何の違和感も覚えていなかった事を指摘されて、何があるのかと千ヶ原の答えを待った。頬が上気した朱色を帯びて、千ヶ原の口調もそれに伴い熱が入る。
「当事者の彼女が知っている事以外って何だよ? 事件に係わりのある事柄は警察でも、調べたし、それ以上でてくる事がないから愛華に集中してたんだぜ? その当事者である彼女が何も知らないって言うほうが、俺は怪しい。情報があるって言ったって古い情報位しか見つかってないだろう」
「だが、情報は情報だ。愛華自身が言った事だぞ、疑いが出来たとしても彼女がここを示したんだ。情報源が彼女に集中していたなら、愛華から聞き出した情報こそ真相に近い事柄だと思って俺はここに来た。何も知らないならそういうだろうさ」
交わされる舌戦に近い席の客達がチラチラとこちらとテレビの間で目線を泳がせている。お互いに熱くなるには早すぎると、関野は置いてあった氷の溶けかかった水を飲んで大きく息をついた。
千ヶ原と此処でそんな事を言い合うつもりで話し出したわけじゃない。千ヶ原も酒を更に飲むが、空気は熱のままに話したときよりも雰囲気が下がっている。もくもくと定食に二人が手をつけ、こちらを見ていた客達が目線をテレビに戻し始めた頃になって、千ヶ原が新しく注がれた水を含んで、話をついだ。
「関野よう、随分と入れ込んでいるな。何がそんな確信の元なんだ。車でもそうだ、突っ走るというか係わりを持ちたくないというか……。悪ぃ、感情的になっているのは俺かもしれないな。だけど、もう一回言うぞ。なんかあるなら俺にも話せ」
焦げ付く苛立ちがその言葉の棘を作っていた。勘が鋭いほうではない千ヶ原でも、分かるほどに昨今の自分はおかしいらしい。車での彼なりの心配も分かるのだが、関野は言った千ヶ原を見る前に深く目を閉じた。
分かっているはずだった、だからそれを話せるはずがないと。あの空間は体験した人間以外が聞いたら漏れなく精神病棟行きになる内容だ。それを分かっているからこそ、真摯に聞こうとする彼の心遣いの受け止め方が拒否をとる形になってしまう。
目を開けても彼と対面して話すことは難しい。残った定食に手をつけながらふと考える、愛華にも同じ事が有ったのだろうか? 今感じている理解不能を他者に伝える術は無い。同じ感覚を共有できない限りは。
「そうかっ!! それで」
「あ? なんだよ俺に言いたい事が決まったか? お前が最近おかしかった理由は何だ」
「いや、そのな。個人的な事だから言いたくなかっただけなんだよ。強いて言えば部屋の事だな……」
思わず口から出た嘘は半分真実だった。部屋の事、空間は初めて共有できる人間が自分だったからあの反応だった。それに気づけたこと、今まで考えながらそこが抜けていた。千ヶ原には悪いがその事はやはり話せない。関野は続けるようにそれらしい言葉を並べた。
「なんだよ、個人的なことで部屋? 」
「あー……部屋に、最近 らしいのが出てきて、それの対処に困っていた。それだけなんだ。俺は苦手だからな」
「ああ? もしかし黒くて素早いアイツか? そういえばお前虫除けとかの常備がしっかりしていたし、部屋もきれいな方だからそういうことに縁が無いと思っていたんだが。で、それかよ?! そこまで悩むような事か!! 」
「いや、虫があまり好きじゃないのは知っているだろ。黒いGは特に嫌いだ」
すらすらと自分でも言葉が出てくる事に驚いた。言葉は切れ切れだが確信に迫る要点はその実、抑えてはいない。事実はつなげている言葉だが千ヶ原に後はどうとでも取れるようにしか話していないのだ。だが、彼の表情は思いつめていた先ほどの疑念を溶かす笑顔だった。
「そうかよ、なんだそんなことだったか。てっきり俺はあの事件に関わったせいでお前が精神的に辛いんじゃないかって思ってたんだ。病院から戻った後はいつもより状態が目に見えて悪くなるからな」
安心したのか、追加で更にもう一杯を注文してつまみも付けると、千ヶ原は残っていた漬物に箸をつけながら微笑んだ。
「いや、病院で出ない分自宅に戻ったらって考えたらそうはならないか? 」
「お前そんなに虫嫌いだったのか。じゃあ今度はカブトムシでも連れてきてお前の机に仕込んでやろうかね。俺を心配させた礼だ」
追加できた酒を飲む千ヶ原はいつも悪ふざけをするように話す雰囲気に戻り、関野の肩をバンバンと叩いた。酒臭い息がかかってきてそれをいえば、更に酒を注文するといった風だ。
顔では笑い顔を作っていたが、気づいたことは消せない。理解不能であるあの空間の理解をしてしまった自分だから、それを認識してしまったから、彼女はそれを感じ取って話しかけてきたのだろう。
そして此処に行くようなヒントを与えたのも、二人の間でしか理解できない事柄があるからだ。笑っている千ヶ原をみて、関野は運ばれてきたウーロン茶の冷えた喉越しが心臓に届くほど冷えた感情をもっていた。表の事に関わっている同僚を、あの空間の犠牲者にするわけにはいかないと。
愛華は見えたらと言っていたが、それも今では怪しい。いや、全てが信用に足らない。そうして、またひとつ謎の仮説が浮かんだ。男と話していたという愛華の相手、あの空間を彼女があそこでも感じたとしたら?
夢が現実に関わるなんてそんな筈は無い、だが…………どれも確証が無い今現実さえ曖昧だ。来地颪峠で一体何が起きたというのか、笑い顔の内面で関野は拠り所の無い現実を、千ヶ原との間に出来た現実の境界線で隔てられた気がしてならなかった。
そこにいる彼との距離は確実に、すこしづつ引き離されている。顔を手で何度も押さえて今有る自分の形を覚えるように、関野は居酒屋で大きく紫煙を吐き出した。