Key3 紐鎖の岐路(ちゅうさのきろ)1
ヒグラシの声が夜風に乗って響いてくる時間、夕方になっても関野は部屋の机でメモを見直していた。昨今、とはいっても数時間前のことになるがあの庭師の老人から聞きだした事で仮定を考えていたのだ。
メモ帳では小さかったので新たに大学ノートを使い今分かっている出来事を大まかにまとめてみた。ひとつは、この事件について全てを知っているのが愛華であるということ。
雑多の情報が細かく続いて、事件自体がおかしいという千ヶ原、過去記事の裏の見解。どれをとってもそれが関野に関わりがあったかを考えていた。
シャープペンの頭をカチカチと鳴らしては戻してみるが、煙草を吸おうが溜息をつこうが記憶の中でも、メモ帳でもそれらしい事件に係わった跡が無いのだ。
偶然だったとはいえ、愛華の取材に係わることになったのは納得する。だが、何故愛華が自分を選んだのか、変な映像をどうして見ることができたのか、口元にペンを当ててから病院に一度足を運ぶべきかという項目に斜線を引いた。
「頭がおかしかったらまともな生活が出来るかってんだ」
また今日だけで煙草一箱を吸いつぶしてしまった。それほどヘビースモーカーじゃなかった彼にしてみれば、最近の煙草の量は自分でもいささか異常だとは思っていた。けれども、吸わなきゃやってなんぞいられない。
何度目かの旅館のコーヒーを飲み干すと再度書き散らしたノートとメモ帳の単語に目をやった。
思い当たるのは、扉から出てきた愛華からはなたれた言葉くらいだろう。それは、『やはりアイツは嘘つきね』という言葉だ。アイツとは誰か? ここでパッと浮かぶのがシュウラという少年だが、夢の中で会ったという登場人物でしかも愛華が話しているだけしか存在し得ない人物だ。
庭の方からはもう剪定する音は聞こえてこないが昼間に会ったあの老人が言っていた言葉も気になる。
事故のあった出立の日、風呂場で聞こえたという愛華の声は、そんな気はない、そして嫌だ。これだけでは何が何だか分からない。今の時点では愛華がこの時から精神的に疾患を起こしていたという話の裏づけの補助程度にしかならないだろう。
だが、それだけではどうにも引っかかる。僅か二回ほどだが彼女と数時間は話している関野には、話し方におかしい点は見られず、夢を語っているという以外は叫んだり狂気に囚われたような動作を見受けられなかった。
メモの項目にもこれは書き写した。だったら、何がこの事件でかかわりを持っているのだろうか? 真実味の無い情報と裏の取れない会話ばかりがそこにあふれているのを見て、部屋で考えていた時間も無駄に思えてくるようだった。
シャープペンシルを机に置き、もう喉にも入らないコーヒーを洗面所へ捨てに行くと、聞きなれた携帯のメロディと振動が数回鳴りだした。あの音楽は千ヶ原だ。
コップを置き去りにしてハンガーにかけていた上着のポケットを探ると、千ヶ原の文字が白く輝いた。
「はい、関野だが」
携帯を開いて耳元に当てると、昼間より明るくなった千ヶ原の声が水音とともに聞こえてくる。
「もーし、俺だ。やっと終わったぜー。まだお役所さんのとこから聞いてきた情報だけだがな。胡散臭いほどじゃないがどっち着かずなところがある言い方で手間取っちまったよ。んで、いまバスに乗ってそっち向かっているわ。乗ったのが遅かったせいで一駅前のバスになっちまってさ。頼むから迎え来てくれないか」
「えらく元気だな。おれにもその元気が欲しいよ。ったく、何処までいきゃいいんだ」
迎えの催促の電話だが、関野は少々気乗りしなかった。いつもならひとつ返事で行って連れて来るだけでいいのだが、それさえ今の頭では億劫に感じる。
「加のじ?あー、加の路っていうところだ。そっからだったら二キロくらいだよ。元気ねーなら、いい店バスのおっちゃんが教えてくれたから夕飯そこで食おうぜ。元気ないなら飯食って部屋戻ってから愚痴れよ」
電話向こうで千ヶ原が苦笑している顔が浮かんだ。じゃあな、という言葉ですぐにも彼は電話を切ってしまったが恐らく彼も自分の具合の悪さを電話越しで感じ取ったらしい。向こうも疲れてないわけじゃないだろうにと、関野は思った。携帯をそのままポケットに突っ込んで上着を羽織ると鍵を片手に部屋から出る為に財布とハンカチをズボンに突っ込んで、部屋の鍵をさがした。
散乱した机のメモ帳と大学ノートの紙をかき分けつつ、細長いルームナンバーキーを捜したが、転がりでてくるのは消しゴム滓やら残していたシャープペン、赤ボールペンと関係の無いものばかりだ。
「あっれ。俺鍵は机の上に置いといた筈だったんだが、どっか持ってったか、いや、部屋の外に出たのは爺さんから話を聞いて戻ってきてから出てないし。んー? 」
鍵は目のつくところに置いておくのだがと、机の上を更に崩したが鍵が出てこない。金庫や上着を再度探したが見つからない。と、洗面所のほうから硬貨を落とすような軽い音がした。
「あ、そうかそういや戻ってすぐに水引っかぶったんだっけか」
汗を落としに行ったそのときに取り落としでもしたのだろう、千ヶ原の事だからバスを降りる前ぐらいによこした電話に違いないと思うと、急がないとまた催促の電話が掛かってきそうだ。
音のした洗面所を見ると、鍵が洗面台の中に落ちていた。先ほど置いたコーヒーのカップがその隣に置いてある。
カップを置いたときに視界に入らなかったのが気になるが、すぐに鍵を取ると部屋からでるべく襖に手をかけて入り口に向かおうとしたときだった。
肩を撫でられるような寒気が走った。何故か分からないが虫が這うようなそんな気味の悪い感覚が右肩からして思わず庭を見やった、すでに暗くなった庭と石灯籠に灯された電気の明かりが白く煌々としており、どこから飛んできたか羽虫や蛾がその周りを飛び回っている。
感じた悪寒はその一瞬だけだったが、消えたわけじゃない。まだ誰かが見ている、そう感じて関野は背後の洗面台も振り返った。もちろん、鏡に自分が映っている他に誰が写るわけでもない。ひどく驚いて挑みかかるような目の男が立っているだけだ。
「気の、気のせいだと思いたいもんだ。怪談やらなんとか言う話は愛華の話だけでいっぱいだって言うのに」
そういうと、悪寒が残る部屋から関野は靴を突っかけるように履いて、千ヶ原を迎えに行くべく廊下を音高く踏みつけて部屋の電灯をつけたまま後にした。
散々に散らばったメモや紙が網戸から吹く風で重なって音を立てる以外、誰もいない部屋では音はしない。
その時、吹いた風にメモのページが大きくめくられた。幾つかのページごとめくられたそれは、関野が彼女の鍵についての思考を書いたページで止まると、ノートの上で目に付くような形になった。
誰もいないはずの部屋のそと、庭灯篭の一つに虫の集まりが悪い灯篭があるばかり。ちいさく震えたその灯篭の明かりがまた元に戻ると、虫たちはその灯篭にも光を求めてやっと集まりだしたのだった。