Key1 白い扉
さて、何処から話したものだろうか。この話をするのは、簡単なはずなのだが手順を追わないと、とても意味のある話には繋がらないだろう。
何せ、今も続いていて、おれ自身にも把握し切れてないところが多少ある話だ。
まずこの話は、聞いた俺の実体験と、この話の主といえる人間とで作られた話であることを断っておこう。あの頃、当時の俺の名前は 関野 幸一。実真東新聞記者でそこそこの稼ぎをしていた……。
朝の通勤ラッシュが終わった頃、垂れ込める雲を見上げると、鈍った靴の音がやけにビルの谷に響くように感じた。昨日降った雨のせいだろう、湿ったアスファルトから立ち上ぼる陽炎を遅刻しそうな学生が走り消していった。
水溜りを蹴散らして走り抜けた彼のおかげで跳ねた泥水に、微かな怒りを覚える。いや、これは、泥のことでだけで怒っているのじゃない。今任されている事に自分が、納得がいかないことは分かっている。
男は右胸ポケットに入れていたすこししけった煙草に手を伸ばす。足を止めて学生の後ろ姿を見やると、近場の喫煙所に立ちよることにした。
やはり気分が晴れない時はこうするのがいい。関野はなれた手つきで愛用の少し黒ずんだ銀のオイルライターを指で音を立ててあける。
滲んだ音を立ててついた煙草をくわえ、湿っぽい空気を吸い込みながら面を上げる関野の顔には、なんともいえない苛立ち、それとも不満でもあるのであろうか?口元に刻んだしわと、無精ひげがその感情を物語っていた。
「や、おはようさん。にーさんなんだか浮かない顔しているな?どうしたい?」
隣の揚々とした男が話しかけてくる。電車待ちなのだろう。時計をちらとみながら、重く煙草をすっている関野に話しかけてきた。
「いや、別に。あんただって揚々としている割には、随分所在無さげな格好してるじゃないか」
違いない。と、言いながらくたびれたスーツを軽く正すと、かれは持っていた書類を片手に、喫煙室から歩いていった。
出て行った後で、関野はさらに深く煙を飲み下した。
「分かっているとも。分かっているさ。」
煙と一緒に気持ちを吐き出す。分かっているからこその自分に対する苛立ちなんだと。
今回の命令の件はそれこそ、政治関連特種専門の俺の記者魂というちっぽけなプライドが放っている些細なおごりからくるものに過ぎない。くゆらせ、灰をこぼしたタバコが熱い。
既に半分以下になっていたタバコを銀色の灰皿に突っ込み、喫煙室の扉を押しやると、携帯から聞かされた病院に向かって、濡れた靴で歩いていた。
今朝の新聞記事のネタは、早朝三時半近くまで待ち伏せした小物代議士だった。ゴミ箱からの盗撮という前衛時代的な写真の撮り方だったが、結果は成功。小物集団の会談後の取引まで写真に収めることに成功した。
そして、その後に休む間も無く回された仕事。もう、数ヶ月も前のタネになるだろう。いまさらと思うようなタネを副編集長自らの権限で、無理やり向かわされることになった。それが昨今だ。
「いやいや、ねむ……ぃね」
あくびをかみ殺しもせず堂々と大口を開けているところを、遅刻で急いでいたサラリーマンに見られたが、これが勤労の証なので俺は気にしない。せこせこと忙しく働いているサラリーマンたちには無い、別の苦労をして俺はここに居るなんて事をいちいち考えるような気配り人だったら、こんなところで走ってはいやしないだろう。
足先が重いが、記事にしなければならない人間がこの先にいる。副編集長に無理矢理やれといわれた事故からの奇跡の生還者への取材だ。
「関野、兎に角行け。お前ぐらいしか後はうちの部署でいってないのだからな」
無理やり全員が行かされるインタビューって何だ?そんな大物が居たのだろうか。副編集長はいつもと変わらぬ声だったが、俺にこれを頼んだ際には、どこか疲れきっているように聞こえた。
まぁ、聞き違いだろう。
この時、何も知らぬまま、俺自身はこれから現実との間を見ることになるであろう病院へ向っていった。
いまも、つくづく思う。あの時本当に、俺は若かったし、完全な現実主義者だった。 幻想主義者になった気は今も昔も無いが、それでも、今の現況を誰かが聞けば、おれは間違いなく変人扱いされるだろう。
どうにもこうにも自分の気持ちが、収まりがつかないままなので、叉煙草を乱暴にくわえた。
新しく加えて火をつけたタバコの苦さを飲み下し、車通りの多い大通りまで剥がれたレンガタイルを踏んでひたすら歩いた。考えたってこの件を解決はさせられない。やるだけやらなければ、これは一段落もつけないだろう。
軽く燻らせた白煙が口から滴るように漏れて、おれ自身の気だるさを外へ外へと流しださせる。気分を変えるためにふかしたタバコが半分まで来た頃、やっと、俺は白永原衛生第一病院の前に到着する事が出来た。