Key2 流転の門7
飲まれてしまったぶんのお茶を買いなおして病室をあけて戻るまでの間、関野の踏まれたつま先はジンジンと痛んだ。塚本と名乗ったあの男の対策も、愛華以上に考えねばなるまい。
しかめっ面で病室に戻ってきた関野へ一瞥をくれた愛華は、興味無さげに彼の持っている新しいペットボトルのお茶に向かって手を差し出した。
「おかえりなさい。で、お茶」
「ほらよ。ついでに礼ぐらい言ったらどうだ」
ベッドに放ったお茶を布団に落ちる前に愛華は受け取ると、面倒そうに「ありがと」とだけ言った。色々と思うところもあるが、いつ叉彼女の具合が悪くなるかと思うと関野は強く出る事はできなかった。
彼女にしてもそれが分かっているに決まっている。色が戻ったとはいえまだ赤みが戻ったわけではないその頬に出来る笑窪がそう、関野に言っている気がしてならなかった。
気がした、そうみえる、それだけでは彼女に問い詰める事はできない。なんとも人の扱いを心得ているものだと呆れるのを通り越して、感心さえ覚える。
関野は放ったお茶を飲むのを見届けてから、また緑の椅子に座りなおしていた。
「で、すこしは気分が静まったか」
「多少はね。えーと、たしか旅館の話までしたのよね」
「そうだな、そこまでだった。でも、話せるのか? また気分が悪くなったりするようだったら医者に来てもらって俺は退散したほうが良いだろう」
「確かに気分は悪くなりやすいわよ。話せないほどじゃないだけよ。あー。でも、旅館にもしかしたら事件の鍵になりそうな話は転がっている か も、しれないわね。私がわからないところで」
愛華は後半わざと言い淀んだのかわからないが、それらしい事だけを香らせた。彼女の本音はまたも、あの仮面の微笑みの内側にしまいこまれてしまったのだろうか。頭をまた乱暴に手櫛でかきあげると、関野は何事も無かったかのように振舞うぐらいしか出来なかった。
「そうか。なら俺もあとでその旅館とやらを当たってみるさ。で、事件の話はそれっきりか。それとも夢の話にもっていきたいのか」
「あら、分かっているじゃない。後者よ」
「これ以上事件の話がしたくないからか? 」
問いかけに愛華は大きく首を振ってそれを否定する。そうして、自分をやわらかく指差した。
「違うわ。事件についての手がかりあげたからまずそっちを調べて欲しいの。それと、さっきの話の続きが引っかかっているだろうから」
腹の探りあいには慣れているはずの関野がこうして指をさされただけで、内側を小さく震えが走る事なぞ、まず無いだろう。その真意が欠片でも本人に含まれていたとしても、表に出す事はしない。
だが、何故彼女は心の内戸の隙間から、それを引きずり出す事ができるのだろうか。そうやって、隙間に入り込んだ彼女の手が自分の内側を撫でていくようだった。
昼を回った日差しがまたオレンジ色を含んでいるのを、目の錯覚にしたくて、関野は目を思い切りつぶった。なんどもその上から目をこすっておそるおそる開けると、病室の色は変わってないが、空気だけがまたもや、あの怪奇空間につながったのを肌が感じていた。粟立つ肌がまた自分が彼女に飲まれたことを告げる敗北宣言のようだった。
「ふふふふ。いいわね、叉半分貴方から踏み込んでくれたなんて」
「踏み込むだと、目をつぶっただけであの空間に行くって言うのか。ありえないだろう。今回は薬も飲んでないんだぞ」
そう言っている関野の隣を白い光がかけて行った。人工灯の明かりに思わず目を走らせると、表をゆったりと飛行船の影が横切っていった。ただし、現実の空ではなくだ。
向こう側の空間と現実世界の空間が入り混じるそれは、前回の空間に並ぶほど気色の悪い空気を作り出していた。
「分かってないわね――、貴方も。この空間を認めたからあの状態で現実と夢の半分がこちらに見える状態になったのよ」
愛華の言葉が示す事実、それは否定しているはずの世界をすでに半分は自分が信じているという無意識を肯定する言葉だ。奥歯を音立ててかみ締める関野に対してもやはり愛華は微笑を崩さない。そして、彼もその微笑が何を示しているのかの片鱗をつかみ始めていた。
飛行船が通り過ぎていったあとはまた、オレンジの夕日が、ゆらゆら陽炎が揺れるように部屋の中で踊っている。
「俺は、それに関してはまだ認めない。お前が仕組んだという事だけ考えておく。いずれそれ以外のことも全て納得済みでこれが何なのかをお前に正体ごと突きつけてやる」
言い切った関野に、愛華の口元の月は細く細く開いていた。言い知れない扉の入り口の鍵は、いつも彼女が握っている。自分の引き込んだ相手を満足そうに見つめ、愛華は先ほどの消える男の話を始めたのだった
「随分と大きく出た発言が最後まで言えると良いわね?消える男の話からでいいかしら。
もちろん消えるって言うのにも理由があるわ。覚えている限りで言っているし、彼の言葉から推測でしかいえないのがなんとも事実性に欠けてはいるけど、あの人は、夢の中で夢を見ているのよ。」
「夢の中で夢を見るか、今の俺みたいな場合に使いそうな言葉だな」
「違う。これとアレを一緒にしないで、あんな性質の悪いものとは叉違うんだから」
関野の発言に愛華は怒った。理由がどうしてなのか分からないが、関野が思っているよりも、あの変てこ世界は複雑なものであるらしい。空色とオレンジの色が混ざり合い、そこが薄紫となぜか緑色の蛍光色が生まれている。感情の起伏が多数見られる今日だからなのか、色もさまざまに変化していた。昂ぶるままに、彼女は話を続ける。
愛華ちゃんの夢世界にまたもや引きずり込まれていきます。
少々今回話が短い気もしますので、すこしがんばって今日中で第8話分を追加で書き込めたらと考えています。