Key2 流転の門4
「なんだよ。いまさら病気ぶってるんじゃ。いや、なんだ、本当に具合が悪いのか? 」
関野も多少血が上っていたが、愛華の威勢が今日は少し違っていた。前のめりになったままで投げ出された手は以前あったときよりも白かった。仮病ではないかと勘ぐりながらも関野が近づくと、それに気づいたように頭が上がり、愛華の目線とかち合った。
「言ったでしょう。今、波が激しいんだって。文字通りそれに左右されるから、私が話したくないから話さないわけじゃないのよ。私からの話を聞いてもらって、それで聞いてもらったことに対する安心とか、そういう類のものが出来るから後のことまで話せるの」
前かがみのままで顔だけ上げてこちらと話していたが、愛華は大きく息を吸うとぐっと布団に腕を突っ張るようにして顔を上げた。
「こんな無様すぎる姿晒して悪いけど、早速話を聞いてくれる? きついから」
愛華の顔は辛さを押し殺しながらも不敵に笑っている。自分を無様と揶揄したのも半分は本気でそう思っているからなのだろうか。病人という言葉を使っても彼女は、自分の駆け引きの材料に素振りを見せるが、具合の悪い様を見せ付ける事はしなかった。
愛華はもちろん、駆け引きの場でそういう手札を使う事はあったが、自分の具合が悪い状態を誰かに知られる事は嫌だった。それが彼女の矜持だから、今自分がもてる数少ないものだったのだから。実際に同情されるのは真っ平ごめんだった。それだから、次の関野の言葉は思い切り彼女の地雷を踏んでしまう事となる。
「辛くは無いのか? 日を改めて話すほうがいいようにも見えるが」
「今言ったことちゃんと聞いていたの? 早く話をして、私が楽になったら貴方に話すって言っているでしょ! 話をして、楽になったら話が出来るからそれまで待てって言っているのよ。約束破る事になったら何でも逆にこっちが言う事聞いてやるわ。いいっ?! 」
「しーーっ。わかったよ、そう怒るなって。俺が話をちゃんと聴かなかったのが悪い。そうだな。お前の声で看護師が来たらそれこそ話が出来なくなるだろうが!」
思わず口元に指を置いてあわてて愛華の言葉を制した。怒りの表情のまま、ついと横を向いてしまった愛華をなだめる様に言葉をかけて、やっとの事で不機嫌煮まで戻した。しかし、愛華のそんな怒声の内情を知らない関野にとっては、何がなんだか分からないまま、話を聞かされることとなったのだった。
「ふぅーーーー。いいわ。じゃあ、話し始めるわよ」
「今回はあの部屋に行く必要が無いのか? 俺はそれならそれで嬉しいんだが。前回は結果としてあの状態で話すことになったけど、薬の力を借りて俺が眠らないと話はきけないのか? 」
不機嫌な愛華は手を遊ばせながら、怪訝な顔で関野を見つめ返した。
「必要ないわよ。あの時は偶然ああなったけど、本来はどっちでもいいのよ。どのみちアレを体験してもらうのが早いか遅いかだけだったし。行きたいって言うなら、安定剤を今回は予備の分があるから。今の聞いてそれでも飲む? 」
「出来るなら、あの部屋はよっぽどのことがない限り回避したい。未だに信じたくないけど、本当じゃないともいえないところなんだが、アレを現実と決めてしまうと何か大切なものをなくしそうな気がするよ」
そういうって持っていた青いボールペンで頭を掻く関野の安心して緩んだ表情を、話してである彼女はなんともいえぬ表情で見つめていると、ゆっくりと夢語りをはじめたのだった。
開いた扉の先がどこだったのか、それを考える暇があったら教えてもらいたい。愛華の踏み出した先は、足先に当たる芝生がさわさわと 足の裏をくすぐる草原?いや、丘陵地帯だった。
背後を振り返ってみるとやはりすでに扉自体が存在していない。
「いったいどこからこちらを見てるんだろうなぁ?」
ぼやきと呟きとも取れぬ声に、耳元でシュウラの風のように通る声が過ぎ去った。
「どこからでも。今回もここをどこまでも進んでいくことだ。」
驚いて耳に手をやったがやはり彼の姿なぞかけらもない。左右を見渡せば同じ丘陵地帯がなだらかに上へと続いている。見上げる先空が見えているし、その先が見えなくてもそう大きくない丘は歩きやすそうではあった。
とかく、また、歩くしかない。
先ほどの世界と比較すれば、水の中じゃないし時折体をなでる風も吹くどこか穏やかな世界だ。ただ、ずっとひたすらに丘が続いている以外は。
歩くべくして歩かされているのか。それとも歩いていく事で何かが始まるのだろうか?愛華の謎の答えを導き出せるのは大方の事情を知っているであろうシュウラと、この先に何があるか自分で見る以外にはない。
青々とした風の中をどこまでも進んでいく。心地よすぎて夢なのを忘れるくらい清涼としているここは、自分の中にある何かを引き出してくる。郷愁か?と問えば違う。ではなんだろうか、唯心地よいというだけでこんなにも透き通る感情が持てるものだろうか。
気づけば歩いている事を忘れそうになった。
「あ? 何で歩いていたんだっけ。」
軽くまぶたを開けてもう一度見ると、丘の上まで歩ききっていた。そして、丘の先に見えているのはさらに連なる緑の大海。その中でまばらな胡麻粒が転々としている。
その転々とした何かは動いているらしくて、こちらの歩くスピードよりも早かったり、時に立ち止まったりを繰り返しながら、一定のところからあまりはなれずにいた。
「草原にゴマ粒か。なんとも形容しがたい光景だろうな。そんなでっかい胡麻が転がってれば。」
席に座ったまま茶化す関野に、愛華は少しつぶやいて関野にいった。
「ああ、説明して欲しいなら言いなさいって言ったじゃない。胡麻粒は比喩。実際に動いていたのは人間よ。」
思わず持っていた缶を少しへこませてしまった。やはり只では話は進まないらいしい。
関野のその反応をみて、したりといった顔で愛華は笑った。
「ええ、そうよ。人だったわ。」
実際に近づくまで愛華はまたひたすら歩く羽目になったらしいが、近づく事はできなかった。
草原は思っていたよりもずっと広がっていて、果てがない。胡麻粒のところにたどり着くまでの距離感も狂わされていたらしい。
現実の時間の概念が適用されないこの夢の中では、時間の感覚を求める事自体が馬鹿らしい事だった。
やっと小さな歩幅で遭遇する事ができたそこにみたのはいくつもの人、らしき物体だった。
人らしきといったのは理由がある。彼らは確かに人なのだが、形は人でありながらどうみても影のように薄くなっている人もいるという。まるで昨今見たシュウラと重ねるようでもあった。
「あなたも、ここに連れてこられたの?」
自分よりも背の高い人に話しかけるのは怖い。それでも誰かいることは愛華にとっての安心でもあった。話しかけて一分ほど、声が小さかったのだろうか、彼らしき人影は何を告げる事もなく愛華の横をすり抜けていった。
「え?」
彼の目を少し離れたところから見ても、見えてないわけではないはずだった。彼は何かを探しているからだ。ただ、口は動いても言葉は聞こえない。そしてかわらずにどこかを見ている。
反応は何一つないまま、彼はみるまに透けていきそして草に溶けた。もちろん驚いた愛華は消えた草に手を付いて探しだす。だが、男性が草になったのか、それとも草が男性を飲み込んだか、はたまた草のさらに下の地面に降りていったのか。愛華は分からずに首をひねった。
「どこにいったの?なんで草になんか」
見終わった後から背後で音がする。そして、何故だか自分の右腕に鳥肌が立った。すぐに風を伴って振り返ると、思ったとおり彼はまたこちらに歩いていた。消えた場所から土の中でも移動したのだろうか?そうこうしているうちにまた、彼は目の前を通り過ぎていく。
何を見ているのか、そして何でまた行ったりきたりを繰り返しているのか。愛華はその表情だけでも見ようと必死に爪先立ちになった。まだ背の低い愛華にとって彼の顔を覗き込む事はちょっと無理があったからだ。爪先立ちになった愛華の横をすり抜ける際、彼も何かを感じたのだろうか。顔がこちらを……。
「――――ひうっ」
口の端から笛が鳴った。彼の顔を見た、いや、いってみれば何かとして見られたのだ。男は笑っていた。それはもう満面の笑みで。細く細くつりあがった口唇、顔の端には長い間笑っていたのからなのだろうか、刻まれたしわが小さく震えている。
「あ、の、なんでもないです」
返した言葉に反応はない。男はまた先ほどなぞった道を、引きずる足取りで歩いていった。
その姿を見送りながら、愛華は恐怖を感じた。最初に赤の他人が笑ってこちらを見つめている恐怖。続いて湧き上がってきた恐怖は理解できないものだった。なぜそう感じたのか、胸元にナイフがペタリと張り付くような冷たい恐怖。小さな音が自分の歯の音だと気づいても、とまらないまま彼女は男を見ていた。そして、また目の前で男は消えた。