Key2 流転の門3
二度目の病院への足を運ぶ事になる時、関野は仮病をでっち上げてでも帰りたかった。あの状態が嫌いなだけであって、実のところ愛華が悪いわけではない。あの空気、どうも納得がいかないが病院以外の空気が自分を囲むのが耐え難い。
一週間前に訪れたときと同じナースが受付に立っていて、こちらを見てからそそくさとどこかに行ったのにも気に入らなかった。
少し薄汚れている床を踏みながら歩いていくと、愛華の病棟からかすかに声が聞こえた。階段手前で関野が立ち止まると、その声はやんでいたが上階でエレベーターに入る男が見えた。どうやらその出で立ちから同じ同業者らしい。扉が閉まる前に聞こえた言葉は、
「あの糞女、忌々しい。――――」
怒りと恨みを含んだ低い呟きだった。
その後はこもってしまった音で聞き取れなかったが、どうやら愛華に扉前で駄目だし、絶対的な拒絶を食らったのだろう。見覚えのある帽子に関野は思い出すようにつぶやいていた。
「ああ、確か。……塚本?瀬本だったか?」
どっかの荒事ですれ違っただけの記憶だったが、あの色鮮やかなキャスケットは覚えがあった。後は言動がすさまじく下卑た男だというくらいだ。
ハッとした、もしやつが愛華の病室に先に来ていたのだとしたのならば?関野が煙草を取り出そうとする動作をしながら、愛華を思い出してしまい胸ポケットの手前で、持ってきていた右手を下ろした。
「何てことを。俺は数段底意地の悪くなった彼女、いや、悪魔を相手にしなくちゃならんのか。」
彼女に会うだけで気持ちどころから体温まで下がりそうになる中、あの病室の前に関野は立っていた。
いつものあの日差し、そして靴の底から水が染み入るような冷たい空気。取っ手を回して入っていいのかと悩んでいたところ、向こう側から一週間前と変わらない、錆付いた音を立たせて扉が開いた。
喉仏のあたりが嫌な音を立ててなる。彼女の機嫌は予想通り悪かった。
「で、何で俺がきた事が分かった?扉は確かノックしてなかったはずなのだが。」
少し声が上ずらせて、関野は愛華に声をかけた。少しばかりあがっている眦が関野をじっと見据えたが、無精ひげが残る関野の顔を見た愛華は硬さの取れた笑みを返した。
「ノックしてなかったんじゃなくて、迷ってたんでしょ。思い切りの悪い人影なんてあなたぐらいよ。ついでに、その前に来ていたあいつなら遠慮なく扉をがちゃつかせるしね。」
はき捨てるように行ったのは、先ほどの新聞記者の事だろう。鼻にしわがよっているところから見るに、彼女でもあまりいい記憶のある相手ではないらしい。
「あー、苦手なのか?」
「ん?ああ、そうね。苦手というか、うっとうしい天然電波ラジオが歩いてきたという風に思うわ。思うようにしているというべきかしら。」
肩を少し浮かせていった愛華の顔は口元だけ笑っている凶悪な笑顔。何をしたのかは分からないが、どうやら相当怒らせたらしい。
「どこの記者なんだ?」
「聞いてどうするの?」
なぜか口をついて出た言葉にちょっと、口ごもりながら関野は続ける。
「あーと、そんな状態で話して欲しくないという俺の個人的な要望だな。どこの記者か分かれば、多少対策ぐらい取れるようにしてやる。もっとも、対処療法的なことしか教えられんが」
窓辺の光が病室の床に延びているのが分かる。愛華は言葉を発さないまま、関野の手を引いて病室に入っていった。そのときにつかまれた手首にやわらかい力がかかった気がしたが、顔を見ることはできなかったので関野は気のせいと思う事にして、その後に従ったのだった。
あいも変わらず殺風景だった部屋は、いつの間にかつけられていた可愛いらしい金魚型の風鈴が風に揺られて軽やかに歌っていた。そして、クーラーがついていないのに愛華の部屋は風の通りが良いらしく、いつも病院の湿っぽい空気と、表から香ってくる公園の木々のにおいとが混ざりあった日の光のにおいがした。
「いらっしゃい?っていうのも二度目ね。なんだかあなた以外をこの部屋に入れるときは基本しゃべりたくなくて黙っているから、時々自分がしゃべれなくなってるんじゃないかって思うわ」
「喋りたくなくって、喋れなくなっていると思うってか。それはなんとも都合が良いな。自分がそう思っているから『喋れない』っていうのは、言い訳に近いだろ。実際俺と話している間だけ多弁って言うのもな」
そういった関野に、愛華は凶悪な顔でにっこりと微笑む。この微笑に背筋が叉冷気におそわれた。
「あら、いうわね?でも実際話しているのを知っているのはナースたちもよ。心理的外傷がすこし緩和されているから、貴方の事は歓迎したいって言っていたわね。そんなところで、その元になった人間があたしを傷つけたとしたら?ねぇ?関野幸一さん」
ああ、と関野は極寒の眼差しに晒された。やはり機嫌が悪いのは変わっていない。まくし立てるような発言に加えて、一転して自分を突き落とせる状態を作り出すところなど悪辣極まりない。
本当に自分はこの先彼女の記事を書き続けることが出来るのだろうかと、切実に安危の境が気になってくるところだ。途方にくれている関野を見て気が晴れたのだろう、愛華は寝台の上に乗り、足だけもぐりこませるといつでも話が出来るようにしていた。
「まぁ、少し突いた位でそんな顔ばっかりされても困るわ。約束の話、とっとと始めましょうか」
「で、その話を聞いてから俺の記事の話になるのか、それとも反対か? どっちだ」
逡巡したよう頬杖をついた愛華は、「私」と一言ですませる。それを聞いて、今度は関野が深々と溜息をついた。
「おい待て。俺がこの前の約束に応じたのは事件の話を聞かせてもらえるからと言う事だったんだぞ。その約束を反故にする気なのか」
もちろん彼は話を聞くという約束を自分なりに守る気だった。だが、彼女は守ってくれるかどうかさえ分からない。関野の問いにも愛華はまったく動じる様子見せずに、ついた頬杖の位置を何度か直しながら仕方ないというような調子で言った
「反故にする気なんてないわよ。だけど、私の話が先になったぐらいで文句言わないで頂戴。それにねぇ」
「なんだよ、この上まだ約束事を増やすつもりなのか」
彼女の事だからろくでもない条件を更に増やすのではと関野は声を荒げた。
しかし、それに応える愛華の声はなぜか小さかった。
「違う。私が優先にして欲しいっていうのはあるけどね、まだ波が激しいのよ。好不調の。この前のあのあとも、薬が無かったから困ったんだからね」
「あのあと? 」
関野が鸚鵡返しに聞き返すと、彼が部屋で飲んだ水差しとコップを愛華はあごで示した。けれど、それだけでは納得がいかない。何の薬が係わっているのだろうかと思案したところでハタと、気づいた。気づいたと同時に、驚きと怒りが芽生えて出す仮説に行き着く。
「俺の推測だが。愛華、お前水差しの中に何の薬を入れてやがった」
そう、もしも薬が入っていたら、それが精神安定剤のようなものだとしたら、考えてみれば関野も気づいていたはずだった。誰とも知れぬ病室で、幾ら前日徹夜をしていたとはいえ、いきなり寝るのだっておかしい。こんな形であのときの眠った理由が分かるとは思っても見なかったが、そういう関野に対しても愛華は声音も変わらずにしゃあしゃあと言ってのけた。
「人が用意しといた水差しの水の中身を確認せずに飲むほうが悪いでしょ。あれは、飲み薬が飲み辛いから私がお医者さんに確認とってから飲めるようにしといた安定剤入りの水なの。おかげで、あの後自分が飲んだと思われて次の薬まで結構しんどい時もあったのよ」
「しんどいかどうかはともかくとしてもだ、言えよ! 薬が入っているの一言ぐらい」
「自分で許可をもらって飲んで、寝落ちた人の台詞にしては図々しいわよ! まぁ、それを利用させてもらったのはあるけど、そこの結果に導いたのはあなたじゃない。どうなのよ、それは否定できるの? 」
愛華は、途中から語調が萎えたものの、関野の言葉を強烈に打ち返した。納得が言ってないとはいえ、愛華の言葉も事実、そして関野の言葉も事実。双方が拮抗したようににらみ合う。どちらかが折れるまで、その姿勢は崩れる事はなさそうにも見えたが、先に姿勢が崩れたのは愛華のほうだった。腿から先を覆っていた布団の上に前屈をするように、前のめりに崩れる。