Key1 白い扉 開錠10
ふぅ・・・と、吐く息をきいて、関野は現実に引き戻された。
「うわっ!」
支えをなくして、前のめりに大きな音を立てて関野は机からずり落ちた。床に口づけする前に手をついて、なんとか前に体を倒した状態から、背筋でぐっと反り返るように上体を起こす。
ズキズキとした頭の痛みとともに感じたのは、息がなぜか軽い事で、下にはメモ帳が背表紙を向けたままで落ちていた。反応が鈍って、数瞬してからそれを拾い上げる。
それをニヤニヤと愛華が笑った顔で見下ろしていた。
「どうだった?まだ途中までだけど少しは引き込まれてくれた?」
「あ?ここは現実……?」
息の軽い事でまさかとは思ったが、関野は窓を見た。夕日の色を見てだまされた!と思うよりも早く、ガラスの水槽が消えている事と鉄格子が戻っている事で自分の目何度もをこすり、眠気を払う。
表は夕焼けの景色はあるが、廃墟はない。カラスの鳴く声がして、窓辺には関野お気に入りのタバコのケースが置いてあった。
そこにあるいつもが、関野を迎えてくれていた。
「さっきの言葉を気にしているのなら言っておくけど、あの奇妙な夢はこの現実じゃないのは確かよ。もっとも私にはどうでもいいことだけど」
「俺も眠っていたのか……?」
「その顎の無精髭についたよだれで明らかでしょ」
言われたのに反応して袖であごの辺りをこすった。たしかに乾いた線とそれにまだぬれているよだれのあとがあった。これ以上見られてなるものかと、きつく赤くなるまでこする。
「お前、大人にそれを堂々と指摘するな。こっちだってプライドがあるんだぞ。」
「そのプライドを保つために病室から出て、おばちゃん連中のうわさになりたいなら今後は止めないわ。」
単に忠告してくれているだけなのだが、おきてからも彼女の言葉に容赦は無かった。
「俺が悪かった。気遣いありがとうな。」
そういいながら、関野は今見ていたものについて触れられずにいた。『我ながら情けない』とはいえども、あの空間である場所から帰ってこられただけでも、九死に一生を得たような感覚に近い。
今も起きぬけの心臓はあっと言う間にドクドクと跳ね回りだしている。カラスの鳴く声がして、夏の夕暮れの生ぬるい風が吹き込み、続くように響くセミの声。そして、急くように愛用の煙草入れをさっとポケットにしまいこんだ。
夢であった場所。愛華と同じ名前であるおそらく愛華本人。そしてシュウラと呼ばれる男との話。いくつもの情報が絡み合い、今起きたことを言葉にするのは、頭をどこまで整理するのか、それとも自分が精神病院の通院を必要とするのか。
関野は半ば考えることを否定するように、タバコを手に取った。
「ここ、禁煙。」
「あ?ああ…………。」
わかっていたのだろう。愛華は先ほどよりも柔和に微笑んで。こういった。
「いくつもあるのは、初めがいろいろありすぎたから。私もあのころはそうだったわ。ただね、あなたが望んでいる記事を書かせることもできる。今後私の夢話に付き合ってくれるなら、今日は無理だけど、明日、事故の時に何があって、私がどうだったかを話してあげるわ。」
関野は約束をするのを迷った。先ほどの勘がいっていたのはこのことだった。そして、警告を無視した結果がこの始末。
「事故の事だけ、聞けないのか?」
乾いた喉がひりつくのを覚悟で出した言葉を、彼女は分かっていたように見つめていた。窓からの光が反射されない黒い瞳その目は明瞭に逃げられない。と語りかけてくる。
「確かに、一方的だったしついでに唐突で、理不尽で、横暴だった。でもね、この部屋へはいるって言うのを選んだ時点で決まったのよ。言ったでしょう?逃げる選択肢は、『あの時出来た』って」
「取材して、来いとしか聞いてなかったから、こんなことになるとは」
まだまだ頭がふらついている、俺個人の判断では返答しかねる。そういった言葉が流れていったが、喉からせり上がってきても、その言葉は引っ込んでしまった。
かわせる言葉が上手く出てこない。まるで子供の言い訳のようだと関野にも分かっていた。そして彼女が強めた言葉が何を意味するのか?関野の返答を聞くまでも無いというように彼女はそれに付け加えた。
「それは今も。って、ついでに言っとくわ」
彼女の言葉を強めたのは、こういうことだった。ここから逃げる事は今でも出来る。何をされても逃げる事はできる。だが彼女が言いたいのはそんな生易しい事ではない。
同じ光景を見た自分が、これが何を意味するのか知らずに、この先暮らしていけるのか?そう、暗に問いかけているのだ。
関野も見てしまった。
愛華と同じ光景を、愛華の視点で。そして、わずかながら楽しみも兆していた。現実ではないと分かっていても楽しんでいた事実を突きつけられている。
思考はめぐる。愛華も、眼前で戸惑う男を見て楽しんでいた。そして、彼がこちら側に傾くことを期待していた。
なにも話しかけずとも、それがどういうことを招くのかを知っていた。自分と同じように、問う事をやめない人間がこの先の疑問を抱えたままでいられるはずがないと、知っているのだから。
「どの道、おれはもう一度来る事になる」
じっと俯いて考え込んでいた関野は、見ていた愛華の前で、男の、関野幸一の顔を上げた。その顔には戦いを決めた、彼の仮面がつけられている。
「これが、俺がはめられたとしても、行き着くところまで行ってやる覚悟だ」
関野は下手を打てばどこに落ちるのか分からない賭けに出ていた。それが陶酔であり、昂ぶりであるかもしれないにしても、彼も、彼女と同じ道を進むことを決めた。
「ここからさき、何があっても俺は事実と今起きていることがなんだか、突き詰めるぞ。それにきっちり答えられる保証がないなら、話をきる。できるか?」
「いいわ。ただ、言い方が変だったり、例えがおかしかったりしてもきっちり聞いて頂戴?説明はするから」
そういうと、愛華は夢と同じ右手を差し出した。今の関野はその手を見ることができた。
夢と同じ文様。そして彼女の手にある鍵が。
契りの握手、暖かなくせに滑らかだった手を握り返し、その二人の密約は完成した。
「で、俺はこっからどうでたらいいんだ?」
「簡単よ、右に二回、左に一回ガチャガチャすれば出れるわ」
今は開ける気を起こさせない扉だったが、いわれたとおりに回すと、引きずる音とともに扉は開いた。
やっと外に出られた背後で愛華が力なく手を振る様を見届け、関野は帰途についた。
いつもの自宅のアパートで、関野は二箱目のタバコの蓋を開いていた。長引く間の抜けた扇風機の
機械音と、画面がまっさらなままの文章作成の白いページが開きっぱなしだ。首が振れる度に夜になっても生ぬるい空気が自分の撫で付けた髪を吹き散らす。
吸っても吸ってもうまくない、ただ煙だけが行き来する。酒の缶も開けたが酔う様に飲んだはずが逆に熱くなった肌で自分だけがここにいるような冷ややかさに襲われた。
あの異質な空間から吐き出されたのはなぜか。俺は出た瞬間にどうしてああも熱くなりながら、内面では冷静でいられたのか。なぞだった。
そして、机の上に放り出したメモ帳を見下ろした。シャープペンをとって、そこにまた、愛華の話を書くと、滑らかに筆が運んだ。
夢でなぞったメモ書きが、こちらで寝ていて書けているはずはないのに、ペンをとって書き込むごとにどうして書き込めていくのか?数行書き込んだところで、叉ペンを放り出す。
雑然とした自分の部屋にいらつきを覚えて、またそばにあった原稿用紙の成りそこないを丸めて背後に放り投げる。
「ははは…………。何だってんだ」
背後にたまった丸紙を軽く追いやって、窓辺に置いておいた蚊取り線香の火に当てて一気に燃やす。灰になった紙が線香の灰置きにたまり、小さな山が出来ていた。
関野は窓の外に見えている河川敷の鉄道橋に向かって、飲んだばかりの中身の残る缶を投げつけた。届くはずもない缶は土手に当たったのか、草にぶつかる柔らかい音と酒のこぼれる液体の音がしてそれとともに転がる音がする。
「約束か。守れる自身のない約束なんざするものじゃない。見得を切ってしまった以上、つづけるしかないのも事実だがな」
そういうと、もう一缶を開け、関野は豪快に飲み下していった。
今日の出会い、愛華と呼ばれるアレに、出会ってしまった事が間違いなんて信じたくなかったから。あの約束をしたのも自分ではないようだった。まだ回っていられる歯車がゆがんでいるように感じた。回り続けてくれれば良いのにと、それを関野は願った。
これが、自分の現実と異常との接点を作り出したきっかけになってしまったとは思いたくはなかった。
第一章しあがりました。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。続く第二章なんですが、一章の不備が無いか見直しながら書き込んでいくので、遅くなる+少々ページが少なくなるかもしれません。
それでも良いからと、待っていてくださる方は、数日ほどお時間をください。その後第二章を乗せたいと思います。