Key1 白い扉9
「第一の鍵の変容はおわったね」
叉唐突に声が耳のそばから聞こえた。聞き覚えのある悪戯っぽいこの声は、そう思って振り返った瞬間目の前が真っ暗な水に変わった。
引きずり込まれた、そう気づいたのは右手首をつかむあの手が潜るときに見えたからだ。ふさがっていた視界が開けるの一秒ほど、引きずり出されるように私はその場から、生ぬるい大気の中に吊り上げられた。形容で言っているのではなく、本当に吊り上げられたのだ。
引き込まれたのは横からだったが、出たのは上に向かってというまた、無茶な物理法則。おまけに吊り上げられたら吊り上げられたで、そのまま放り投げられ、青臭いにおいと抵抗の少ない柔らかな草らしい物の上にそのまま落とされたからだ。
ゴホン、と大きくせきをすると、胸から下が水浸しになったように感じる。何が起こったのか確認しようにも、目を開けられないほどまぶしいのだ。落ちた場所で座りなおし、目を開けようとしてもまだあけられない。
開こうとするほどに、大気がまぶしいと感じて盛大に目を覆い隠し、腕に水が掛かるのもかまわずに私は咳き込んだ。腕が濡れ、花と紅茶と古びた木の香り。息をするのがこんなに苦しかっただろうか?
げふん
何かをもう一度吐き出した。少し落ち着くと目が光に慣れてきて、シュウラの行ってしまったさきの側に引きずり込まれたのにやっと気づいた。
そして、自分を濡らしている物の正体にも気がついた。扉の反対側に入り息をした瞬間、肺の中で満ちていた水の大気が、こちら側で変化を起こしたのだろう。こちらの大気に水の泡をこぼすという変な状態を目にしている。
咳き込んだら道理で激しく腕が濡れたわけだ。
泡を最初は気にしていたが、周囲を見渡し、シュウラの座っている場所を見て驚いた。
小ぢんまりとしたつくりの喫茶店。表の看板に書いてある字は擦れて読めないが、店外のウッドデッキの上で古びた青銅色のテーブルがおかれ、そこに彼が向かって歩いていくところだった。
はなしかけようとすると、口からまだ水の泡が出るらしく水風船をつぶしたような嫌な声しか出ないので、吸ったり吐いたりをして話せる様になるまでと、周囲の観察を始めた。
シュウラはそんな自分に一瞥をくれると、どこから取り出したのか白地に青薔薇の模様の入った茶器を手に取ると、あの空間に入る前に持っていたティーカップに優雅に紅茶を注ぎ始める。そしてこれまた、気づかないうちに出現したとしか思えないテーブルと同じ作りをした華奢な足の椅子に座って足を組んでいるのだ。
それを見ていれば意見の一つも言いたくなる。おきようとすると、それを見た彼から声が掛かった。
「まぁ、まちなさい。こちらに慣れないまま立ち上がって魚みたいになられても困るし、それを現実に持っていかれても困る」
彼と数時間はなしてない間にどういう変化があったのか、彼の言葉遣いが若干現代に近づいていた。
「魚になるって。お前それ信じたのか」
「小学生で超常げ、ってねぇ。何回言えばいいのよ。夢のこんな世界で、しかも自分の知っているところ以外なんでしょう?当然何が起こるかもわからない」
そういうと、ぷいっと愛華は横を向くと聞こえるか聞こえないか位の声でこう付け加えた。
「アイツが後々そんなこと無いって言うのをすぐばらしたから、そんなに長く信じて無かったわよ」
怪訝そうな皺をすこし寄せたが、関野はまた彼女が怒り出す前にと、メモ帳にペンを置いていた。
水色の水槽に、すこし黄色の光が入った気もするが、席のには分からなかった。愛華はメモ帳に目を落とした関野を見ると、不満げにまた話を続けた。
もちろん……その後すぐに座りなおしたわ。自分に何をされるか分からなかったからね。口から小粒の泡が出て行くのを見ながら、動けないので自分が座っている周りも見てみた。
さながら春の庭、といった風景だった。愛華の座ったすぐそばにはタンポポの花が柔らかに咲いており、そのそばには緑の三つ葉を茂らせているクローバーの絨毯が数箇所芝生のそこかしこで生えそろい、白い丸々としたかわいらしい花を咲かせている。近くを黄色い蝶が飛んでいき、何処かへと去っていく。
庭のなかの右奥には小さいながら子のテラスにあわせて作った池があり、そこには葦が数本揺れていた。
愛華の近くでもあったその池を、ゆっくりと覗き込むと、思わずその場から座りながら後ずさっていた、池の中には先ほどの器とその景色が写っていたからだ。
シュウラに聞こうとして、目に映った小窓を見て更に言葉に詰まる。
扉がいくつもあったあの最初に訪れた空間がその反対の窓に写り、光が揺らぐと、その窓に映し出されている空間も歪曲して、薄く輝いた。池の中から先ほどの器が水を吐き出し続ける様が揺らぎに映し出され、噴水の音のようにコポコポと響いている。
常に回りが暖かな大気で満たされている小さな喫茶店のテラス席に座ったままの彼に、愛華はやっと泡の少なくなった口から声を漏らしていた。
「ここは、どこ?」
紅茶をすする音だけがこちらにかえった。ソーサーを片手に優雅に紅茶を飲む様はどこか、お金持ちの少年のようで彼が人じゃないことを忘れるようだ。
「ここは、君が作った世界の一つ。この店は僕がそんな君の世界の一部を引き集めて作り出した展望室だ。出される紅茶は時によって違う。ついでに、お菓子も違うといっとこうか?」
「展望室?なんかみるところ?」
「そうだね。見るところだ。早速淹れたての紅茶を飲んでたんだが、いかんせんまだ味が薄い。もー少しだけ長く茶葉に浸からせて置けばよかったな。で、ついでにひとつ」
不敵な笑みを浮かべて飲み終えたカップでこちらを指差す彼をじっと見て、次に来る言葉に嫌な予感を覚えた。
「まだ終わってないよ。少なくとも後ふたつの扉の開門条件を満たさないと君の望みは果たせない。」
シュウラは紅茶をソーサーに置きつつそういった。このとき初めて、私は彼が何らかの私の望みを叶えるということに気づいた。
先ほど放り出された事など、当に忘れていた。望みを叶えてくれる。この言葉の意味を私は浅くしか考えていなかったからだ。望む夢を見る事ができる。勝手にそう思い込んでいた。
それがどういう内容なのかも知らずに無邪気に笑っていた自分を、今みれば、とてもおろかだったことだろう。
「それじゃ、あなたは夢の中で望みを叶えてくれるの?ね、それって本当なの?」
また消えやしないかという焦りをもちながら、私は彼に尋ねた。もういっぱい注ぎなおす彼はこちらを横目で見ながらうなずいた。
「そうだね、ある意味真実だ。後は自分で体験するしかない。休憩もここまでにしておこうか。じゃあ、次の扉を今度は君自身で開けてごらん。開け方は扉と自分が教えてくれるはずだ」
振り返ると、今度は赤銅色に金メッキで丸ノブのついたドアがそこに新たに現れていた。
新しいドアに向き直って私は、今度はどう扉を開けるのかを考えた。
後ろではシュウラが見えないが、穏やかに笑っていたことだろう。
この扉はどう開けたら・・・?
深く考える必要はなかった。先ほど触れた骸骨と同じように扉に触れた。手には鍵を示す草葉の文字。扉がきしむ音はしたがまだ開いてくれるほどではない。
何かが足りてないのだ。扉をあれこれ触っているうちに私の呼吸はいつしか泡を出さなくなっていた。隅の模様を嘗めるように見ていたが、それでもわからない。
悩んでいくうちにまた自分の胸が熱くなり、手のひらに違和感を覚えた。みると、また、あの鍵が現れはじめ、自分の手の甲から頭を覗かせていた。
「そうそう、やっと気づいたね。それが今後必要になるものだ。」
シュウラがそういう前に、私は自分の手から鍵を抜き出した。
作ったときのような肉から何かが出る感触はしないが、それでも、なんだか、自分腕が外気に常にさらされているような、そんな感じを受けた。
鍵を抜き出したまではいい。だがしかし、鍵穴がない。
自分が教えてくれる・・・・・・、シュウラの言葉を思い出しざま、愛華は扉に向かって鍵をつきたてていた。割れるでもなく、鍵は扉の前で先を蔦草のように展開して、幾条もの葉を伸ばし、扉を覆い尽くした。
と、扉の前の蔦草は吸い込まれると、私の手のひらにある文様と同じ模様を刻んで一体になった。
銀線で縁取った線が目にも鮮やかな扉は、錠を開ける硬質な音とともにノブが回され、次の場所への扉が開いていった。
少々文章不備が合ったので遅くなりますが一章最終章は別で載せようと思います;お待ちいただいた皆様、申し訳ありません。