ぐいぐいきていた女の子がいきなり引いたら気になって仕方ないよね
朝の薄明かりが差し込む中、エメリナは寮の廊下を小走りに駆け抜けていた。石畳の床に響く足音がやけに大きく、早朝の静けさをかき乱すようだった。彼女が目指すのは、先輩であるトリスターノの部屋だった。
寮の廊下には古びたランタンが等間隔に並び、煤けたガラスが優しい琥珀色の光を放っている。壁の隙間からは時折風が入り込み、エメリナの短い髪をそっと揺らしていった。彼女はその冷たい空気に肩をすくめながら、足を止めることなく進む。
「先輩、起きてください!」
ドアの前に立ち、軽くノックをする。部屋の中はしんと静まり返っており、返事はない。エメリナは少し眉をひそめながらもう一度ノックをした。
「もう…また寝坊してるんだから。」
小声で呟きつつ、ドアノブに手を掛ける。トリスターノは鍵をかけないことが多く、今日もその例外ではなかった。扉が静かに開き、エメリナは中へと足を踏み入れる。
部屋の中はトリスターノらしい散らかりようだった。ベッドの足元には脱ぎ捨てられた黒いローブがくしゃくしゃのまま放置され、机の上には昨夜の飲み残しのグラスが置かれている。窓際に吊るされた風鈴がかすかに鳴り、木々の香りが漂っていた。
「先輩、いつまで寝てるんですか?」
ベッドの上には、毛布に包まれて丸まったトリスターノの姿があった。寝息は穏やかで、口元には微かに笑みが浮かんでいるようにも見える。エメリナは少し呆れたように溜息をつくと、彼の布団の端を掴んだ。
「本当に起きないなら…」
にやりと笑ったエメリナは、少し空いている布団の隙間から中に入ろうとした。しかし、その瞬間、トリスターノが反射的に布団を押さえつけた。
「何してるんだ!」
彼の低く、やや怒気を含んだ声が響く。エメリナはびくっと体をこわばらせたが、すぐに布団越しに彼の寝ぼけた顔が現れ、怒りというよりは困惑した表情をしていることに気づく。
「先輩が起きないからですよ!何度も言ってるのに!」
エメリナは頬を膨らませながら言い返す。
「勝手に男の布団に入るな。他の男にもそんなことするなよ。」
トリスターノは軽く頭を掻きながら、低い声で言った。その言葉に、エメリナの顔は一気に赤く染まる。
「し、しません!先輩以外には絶対に!」
エメリナは慌てて声を上げ、視線を逸らした。その可愛らしい反応に、トリスターノは少しだけ苦笑しながら体を起こす。
「まったく…朝から騒がしいやつだな。」
彼は乱れた髪を手櫛で整えながら、エメリナに向かって言う。
「騒がしいのは先輩のせいです!」
エメリナはぷいっとそっぽを向きながら返す。その仕草に、トリスターノは肩をすくめるように笑い、立ち上がる準備を始めた。
「よし、わかったよ。行くから待ってろ。」
その言葉に、エメリナは満足げに頷き、部屋を後にする。外に出ると、早朝の光が廊下を優しく照らし、彼女の足音だけが再び響いていった。
エメリナが食堂に到着したとき、すでに数名の魔法使いたちがテーブルについていた。石造りの広い部屋は天井が高く、朝の光が大きな窓から差し込み、木のテーブルと椅子を黄金色に染めている。食堂の隅には長いカウンターがあり、そこには焼きたてのパンや果物、蒸した野菜が所狭しと並べられていた。
「あなたたち、やっと来たの?」
ブランカが笑いながら手を振る。エメリナはその方向に顔を向けた。彼はすでに席に座り、カウンターから取ってきた朝食の皿を前にしていた。焼きたてのパンにハム、そして色とりどりの野菜が綺麗に盛られている。
「トリスターノ先輩が寝坊するからですよ!」
エメリナは不満そうに言いながら、トリスターノを連れて彼女の隣の席に腰を下ろした。パンの香ばしい香りに誘われるように、手早く自分の朝食を皿に取り分ける。
彼女は早速パンをかじり始めた。熱々のバターが溶けてパンに染み込み、ほんのり甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「落ち着いて食えよ。そんなに急がなくても食堂のパンは逃げやしない。」
トリスターノが笑いながら言うと、エメリナは口元を抑え、恥ずかしそうに頷いた。
「朝からお熱いわねぇ」
呆れたように言うブランカはトリスターノと同じ19歳で、エメリナにとっては姉のような存在だ。彼女はエメリナの無邪気な様子にため息をつきながら、呆れたように言った。
「またトリスターノにべったりなのね。他の男にも目を向けてみたら?こいつ、女たらしなんて言われてるけど、結構朴念仁よ?」
「おい。エメリナに男なんて早い。変なこと言うんじゃねえよ」
「えー。でもトリスターノだって、こんなにベタベタされてると、あんまり女として見れないんじゃない?」
ブランカの言葉に、エメリナは慌ててトリスターノから少し距離を取るように座り直した。だが、それでもトリスターノの近くにいることには変わらない。
「わ、私もう15です!今年の花祭りだって出られるんだから!」
エメリナは頬を赤らめながら反論するが、ブランカは微笑んで肩をすくめた。
「だったらいいけどね。でも、見てるこっちが恥ずかしくなるのよ。」
一方、トリスターノはそんな会話に特に興味がなさそうで、黙々と食事を続けていた。ただ、ふと視線を上げてブランカを見やり、小さく笑う。
「お前も朝からよく喋るな。エメリナの相手ならもう少し優しくしてやれ。」
「はぁ?私のほうがよっぽど優しいわよ。そうよね、エメリナ?」
突然話を振られたエメリナは、口いっぱいにパンをほおばったまま慌てて頷いた。
「ほら、トリスターノ。彼女だって私を信頼してるのよ。」
ブランカは得意げに言うが、トリスターノはあまり気にしていない様子でパンをちぎって口に運ぶだけだった。
朝食が終わるころ、エメリナはすっかり満腹になり、頬を緩ませていた。食堂の窓からは明るい日差しが差し込み、外では鳥たちがさえずっている。エメリナにとってはいつもの賑やかな朝。だが、心のどこかで「花祭り」のことを考えずにはいられなかった。
「ねぇ、先輩。」
ふいにエメリナが口を開いた。
「今日の午後、少し時間ありますか?」
トリスターノはコーヒーを飲みながら彼女を見た。その視線には少しだけ警戒心が混ざっている。
「何だよ。俺に何か頼むつもりか?」
「いえ、その…大したことじゃないんですけど…。」
エメリナは何か言いかけて止め、目を伏せた。その様子を見たトリスターノは肩をすくめ、空になったカップをテーブルに置いた。
「ま、どうしてもって言うなら考えとくよ。」
そう言って立ち上がる彼の後ろ姿を見送りながら、エメリナは唇を噛んだ。「花祭り」に誘いたいという気持ちが胸の中で渦巻いていたが、その言葉はまだ口から出てこない。
「ほんと、まっすぐね。」
隣で見ていたブランカがクスリと笑う。
「え?」
エメリナが不思議そうに聞き返すと、ブランカは肩をすくめた。
「いいのよ、そのままで。ただ、少しは慎重になりなさい。あの男、何気に鈍感だから。」
「どうすればいいの」
「とりあえず、花祭りの日は私と同じペアで巡回だし、少しくらいのあなたの不在は黙っててあげるわよ?」
ブランカのウィンクに「ありがとう!」と元気よく返事をして、エメリナは残ったパンをゆっくりとかじった。心の中で、トリスターノと踊る花祭りの情景を思い描きながら。
エメリナが研究室の扉を開けると、木の香りが漂ってきた。朝の光が机に散らばる資料を照らし、窓辺に並ぶ植物の葉に反射して揺れている。彼女は肩にかけていた鞄を机の上に放り出し、深く息をつくと椅子に腰を下ろした。
魔法師団の主な日常業務は魔法の研究だ。
その次に祭りや行事がある時の見回り、そして万が一戦争が起こった時のための魔法兵としての役割。
といいつつ、戦争はいまのところまったく起こる兆しもない。
現在のエメリナの魔法研究は、おもに旱に強い小麦の栽培と川の氾濫を防ぐための防波堤の強度を上げる魔法の研究。そして、式典用に水を花の形にする魔法だ。
机には旱に強い小麦を研究するための資料と試験管が並び、窓際には魔法を込めて育てた若い麦の穂が緑の輝きを放っている。この研究はエメリナにとって大切なものだったが、今朝は集中力が散漫だった。頭の片隅には「花祭り」のことがどうしてもちらついている。
エメリナはふと、研究資料から視線を外し、窓の外に広がる緑に目を向けた。その視線は過去へと向かっていく。幼い頃の記憶は、彼女にとって決して温かいものではなかった。
母親を幼い頃に亡くし、一か月もしない間に義理の母ができた。義理の母親はエメリナの魔力を疎ましく思っていた。父親もまた仕事に追われており、彼女に注意を向けることはほとんどなかった。エメリナが泣いても、笑っても、家の中に彼女を気にかける人は誰もいなかった。
祭りの日も同じだった。町の人々が楽しげに集まり、歌い踊る声が遠くから聞こえてくるたび、エメリナは一人部屋の窓からその灯りを見つめていた。そこに自分が加わることはない、と幼心に悟っていたからだ。
「どうして私だけ…」
その呟きは誰にも届かないまま、部屋の空気に溶け込んでいった。
その後、父親から厳命されて魔法師団に入った10歳のエメリナもまた孤独だった。周囲の大人たちに囲まれながらも、自ら心を閉ざし、誰とも言葉を交わすことなく、与えられた仕事をただ淡々とこなしていた。
そんな彼女に最初に声をかけたのがトリスターノだった。
「おい、エメリナ。ちゃんとご飯食べてるのか?」
ある日、研究に没頭していたエメリナの元に、トリスターノがパンを持って現れた。
エメリナは顔を上げることなく「食べました」と答えたが、その言葉は明らかに嘘だった。机の端には冷えたスープが手つかずのまま置かれている。
「ほら、やっぱり食べてないじゃないか。」
トリスターノは呆れたように肩をすくめると、パンとスープを手に取ってエメリナの前に置いた。
「ちゃんと食えよ。でないと倒れるぞ。」
その言葉に逆らえず、エメリナはしぶしぶパンを口に運んだ。その味は意外にも温かく、どこか安心感を与えてくれるものだった。
そんなトリスターノの優しさが、彼女の心に深く刻まれた出来事がある。エメリナが初めて魔法師団に入った年の冬、彼女は熱を出して倒れてしまった。
「エメリナ、顔が真っ赤だぞ。大丈夫か?」
夜遅く、トリスターノが彼女の異変に気づいたのは偶然だった。誰にも助けを求めることなく、部屋まで歩く気力もなく、共同部分のソファにうずくまっていたエメリナを見て、彼は焦ったように声を上げた。
「平気…です…」
エメリナは弱々しく答えたが、その額に手を当てたトリスターノは、彼女の異常な熱さに気づく。
「平気なわけあるか!よし、医者に行くぞ。」
彼はそう言うと、エメリナをおんぶして夜の街へと飛び出した。冷たい冬の風が二人を包む中、トリスターノの背中は驚くほど暖かかった。
「なんで…そこまでしてくれるんですか…」
エメリナが震える声で尋ねると、トリスターノは少し黙ってから言った。
「そんなに泣きそうな顔されて、放っとけるわけないだろ。」
その言葉がどれほど彼女を安心させたか、トリスターノは知らないだろう。
トリスターノの背中で彼女はそっと涙を流した。自分を気にかけてくれる人がいる。その事実が、冷え切った彼女の心をじんわりと温めた。
エメリナは机に突っ伏しながら、その記憶を思い出していた。トリスターノの優しさは、彼女にとって特別だった。彼のおかげで、この魔法使い団での生活は孤独ではなくなった。だが、今の自分の想いは「子ども扱い」されている限り、届かないのではないかという不安に苛まれている。
「どうしても、先輩と踊りたい…。」
その呟きは、またしても誰にも届かなかった。
窓の外では祭りの準備が進み、人々が花の飾りを運びながら忙しそうに行き交っている。その光景を見つめながら、エメリナは机に顔を埋めたまま小さくため息をついた。
「誘いたい。でも、断られたら…。」
不安と期待が交錯し、彼女の心は静かに揺れていたが、意を決して部屋を出た。
廊下に響く足音が近づいてくるのが聞こえた。エメリナは壁に寄りかかり、どこか落ち着かない気持ちで視線を床に落としていた。
「エメリナ、こんなところでどうした?」
不意に聞き慣れた声が頭上から降ってきた。顔を上げると、いつものように気楽な笑顔を浮かべたトリスターノがそこにいた。
「えっと、はい。」
「ああ。話があるんだよな。あの場では話しにくい話なんだろ?なにかあったか?」
エメリナは視線を落とし、両手を胸の前でぎゅっと握りしめる。胸がどきどきと騒がしくて、言葉を口にするのが怖かった。
「どうした?お前らしくないな。」
トリスターノは少し身を屈め、エメリナの顔を覗き込むようにする。その優しい声と、親身になってくれる態度が、余計に彼女の心を揺さぶった。
「その…明日の花祭りなんですけど…。」
エメリナは顔を赤らめながら、少しずつ言葉を繋いだ。
「もしよかったら、一緒に踊ってくれませんか?」
その一言を口にした瞬間、エメリナは思わず目を閉じた。答えを聞くのが怖かった。
一瞬の沈黙。エメリナにはそれがひどく長く感じられた。だが、トリスターノの声が返ってきたとき、それはいつも通りの穏やかなものだった。
「花祭りね。」
彼は苦笑いしながら言葉を続ける。
「でも、俺もお前も明日は仕事だろ?」
その一言に、エメリナの心はぎゅっと締め付けられた。彼が言っていることは正しい。祭りの日は、魔法使いも騎士団と共に町の安全を守るための見回りをする日だ。それが自分の役目だということを、誰よりもわかっているはずだったのに。
「…そうですね。」
エメリナは精一杯の笑顔を作ろうとしたが、それがどれほどぎこちないものだったか、自分でもわかっていた。
だって、エメリナの初めて参加する花祭りだったのだ。
初めては、どうしてもトリスターノと踊りたかった。どうしても。
「別の機会に踊ればいいだろ。祭りは毎年あるんだからさ。」
トリスターノは軽い調子で言葉を続ける。それが彼なりの優しさだということは、エメリナも理解していた。だが、その優しさが、どうしても遠く感じられた。
「うん。」
エメリナは小さく頷き、顔を伏せたままトリスターノを見上げようともしなかった。
「明日は買い食いしないように。遅くなる前に帰って来いよ。」
トリスターノは笑顔を浮かべ、エメリナの肩を軽く叩くとその場を立ち去った。
彼の背中が廊下の向こうに消えていくと、エメリナはその場に立ち尽くしたまま、手のひらを見つめた。自分の手が冷たく震えているのに気づき、ぎゅっと握りしめる。
「やっぱり…私は子ども扱いなんだ。」
トリスターノの言葉に悪意がないのはわかっている。それでも、自分がただの後輩でしかないことを突きつけられた気がして、胸の奥がずきずきと痛んだ。
「なんで、期待しちゃったんだろう。」
エメリナは小さく呟きながら、その場をゆっくりと歩き出した。廊下の先にある窓から見える花祭りの飾りが、どこか遠い世界のもののように感じられた。
その日の昼下がり、エメリナが研究室で作業をしていると、郵便室から届けられた分厚い封筒が机の上に置かれていた。その封筒には、見覚えのある父親の署名があった。彼女は少し眉をひそめながら封を切る。
中から現れたのは簡素な手紙だった。短い文面の中には、突き放すような一言が綴られている。
「そろそろ結婚を考える時期だ。こちらで適切な相手を選んだ。一度帰ってきなさい。家の名に恥じない行動を取るように。」
その冷たい文章に、エメリナの手は震えた。才があるからと追い出されるように兵役義務のある魔法師団に入った後、父親から受け取った初めての手紙だった。
彼女の存在を義務のように扱う彼の態度が、幼い頃からエメリナを傷つけてきたのだ。
「いまさら何なの。」
手紙を机に叩きつけ、エメリナは唇を噛む。父はいつも、エメリナを家の道具として見ている。10歳で魔法使い団に送り込まれたのも、その魔力が家の誇りとなると考えたからだ。それが彼女の意思とは無関係であることなど、一度も考えたことはないだろう。
「結婚なんて…そんなの嫌に決まってる。」
呟きながら、エメリナは手紙をぐしゃりと丸めてポケットに押し込んだ。
次の日。
エメリナの気分とは裏腹に街は活気付いていた。
明るい花の飾り付けや美しいランタン。それらを包み込むような花の香りで満たされていた。まだ夕方だ。子どもたちのはしゃぐ声が響いている。
しかし、エメリナの心は沈んだままだった。祭りの日は騎士団と共に魔法師団も治安維持にあたるため、エメリナにとっては仕事の日だった。かつて孤独に窓の外から眺めていた頃と同じように、今も祭りに参加することなく、見守る立場にいるだけだ。
「ごめん。エメリナ。ちょっと先いってて。」
そう言ったブランカは、ひとりの男性の方に走って行った。
黒で統一された魔法師団の制服は凛としているが、この祭りの場では少し浮いている。
広場を抜け、石畳の道を歩いていると、彼女の目に飛び込んできたのはトリスターノの姿だった。だが、彼は一人ではなかった。彼の腕に女性が絡みつき、楽しげに笑いながら彼に話しかけていた。
エメリナの足が止まる。
「先輩…?」
呟いた声は震えていた。彼女の胸に鈍い痛みが広がる。トリスターノが女性と親しくしている姿を見るのはこれが初めてではない。彼はいつだってモテるのだ。それを頭ではわかっていても、心は簡単には受け入れられなかった。
「…仕事だなんて嘘だったのね。」
エメリナは俯き、急いでその場を立ち去った。
「ごめんごめん。エメリナ。」
後から追ってきたブランカは、エメリナの様子にすぐ気づいた彼女は、少し眉を寄せて声をかける。
「エメリナ、どうしたの?顔色悪いわよ。」
「…なんでもないです。」
エメリナは力なく答え、そのまま歩き出そうとした。しかし、ブランカはその肩にそっと手を置いた。
「待ちなさい。それ、本当になんでもない顔じゃないわ。」
その言葉に、エメリナははっと立ち止まり、涙をこらえながら振り返った。
「トリスターノ先輩が…女性と一緒にいて…楽しそうにしてたんです。」
その言葉を絞り出すと、エメリナの目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
ブランカはため息をつきながら彼女の肩を抱いた。
「うーん。あの男、誰にでも優しいからね。でも大方、酔っ払っている女性を捕獲して家まで送ってるとかじゃないかしら。」
「でも…」
「でもじゃない。大丈夫、大丈夫だから。」
ブランカはエメリナを励ましながら、ふと明るい声で提案する。
「今日は仕事終わりに少し遊びに行っちゃいましょ。美味しいものでも食べれば、気分が晴れるわよ。」
その優しさに、エメリナは少しだけ心が軽くなった気がした。
エメリナが寮の廊下を足早に歩いていると、トリスターノが立ちはだかるように待ち構えていた。いつもの気楽な雰囲気とは違い、彼の表情はどこか険しく、腕を組んだまま彼女をじっと見つめている。
「おい、何時だと思ってるんだ。」
トリスターノの低い声が廊下に響く。その声に、エメリナはびくっと肩を震わせた。だが、すぐに顔を伏せたまま冷たい声で答える。
「仕事の後、少し外に出てただけよ。」
「男か」
「ブランカよ」
「ブランカ?一緒に帰って来なかったのか」
「これから彼氏と合流するって」
「あいつ……それで一人でエメリナを帰らせたと?浮き足だった男ばかりの祭りの夜に?こんな遅い時間に子どもを連れ回すなんて、ブランカも何考えてるんだか。」
トリスターノは呆れたように頭を掻く。その何気ない一言に、エメリナの胸がチクリと痛んだ。
「子ども扱いしないで!」
エメリナは思わず声を張り上げた。顔を上げたその目は涙を湛えている。
「私はもう15歳です!先輩にとって、私はいつまで子どもなんですか?」
トリスターノは驚いたように目を丸くし、口を開きかけるが、エメリナは彼の言葉を遮るように続けた。
「先輩は…誰にでも優しいですよね。他の人にも、私にも。だけど、その優しさが私にはつらいんです。」
言葉を吐き出すたびに、彼女の心の中で押し殺していた感情が弾けていく。
「どうせ私は、先輩にとってただの後輩で、ただの子どもなんでしょうね。」
エメリナは唇を噛みしめ、震える声で絞り出した。
「私じゃダメなんですか…?」
その言葉が自分でも信じられないくらい弱々しく響くと同時に、エメリナの目から涙が溢れた。自分が女として見てもらえないという悲しさ、自分の気持ちが届かない無力感が、胸の奥で鋭い棘となって彼女を苦しめていた。
その様子に困惑したトリスターノは、何か言おうとするが、ふとエメリナのポケットから転がり落ちた紙を拾い上げた。
「先輩は、私のことなんて何とも思ってないんでしょ!」
涙声で言い放つと、エメリナはその場で背を向ける。トリスターノは少し戸惑いながら、すっと内容に目を通した。
そこには、父親からの冷たい言葉が並んでいた。
「結婚相手を決めた」という短い命令。まるでエメリナの人生を勝手に決めつけたようなその文面に、トリスターノは眉をひそめた。
「…お前、結婚が嫌で泣いてたのか?」
トリスターノは優しい声でそう言ったが、その言葉はエメリナの胸に鋭く刺さった。彼の目には、エメリナが「結婚が嫌で泣いている子ども」に見えているのだと感じたからだ。
「結婚が嫌なら、俺も一緒に断りに行ってやるよ。だから、泣くなよ。頼むから」
幼子を宥めるような優しい声に、エメリナは振り返りもせず、震える声で叫ぶ。
「違います!先輩なんて…先輩なんてもう知らない!」
彼女の涙声には、心の中に渦巻く絶望が滲んでいた。それを見て、トリスターノは何かを言おうとしたが、結局言葉を飲み込むしかなかった。
部屋に戻ったエメリナは、扉を閉めるとそのまま床に崩れ落ちた。心臓が早鐘のように鳴り、涙が止まらない。
「私じゃダメなんだ…。」
呟きながら、彼女は膝を抱えて顔を埋めた。自分がトリスターノの目には「子ども」にしか見えていないこと、自分が彼にとって特別ではないことが痛いほど分かった。
「どうして私じゃダメなの…?」
エメリナの心は、自信のなさでいっぱいだった。自分には何の魅力もない。彼にとって自分は面倒を見なければならない存在でしかない。それが、何よりもつらかった。
一方で、廊下に残されたトリスターノは手紙を見つめながら立ち尽くしていた。
「結婚か…。そりゃ、嫌に決まってるよな。というかこの相手って……本気であいつの親父絞めたくなってきた……」
彼は呟き、手紙をそっと折り畳む。
「子ども扱い、するつもりはないんだけどな。」
トリスターノは苦笑し、頭を掻いた。彼なりにエメリナを気にかけ、守ってきたつもりだったが、その思いが彼女を傷つけているとは夢にも思っていなかった。
「どうすりゃ泣かせずに済むんだよ…。」
彼は溜息をつきながら、手紙を懐にしまい、寮の廊下を静かに歩き去っていった。
エメリナの部屋は暗闇に包まれていた。布団を頭まで被り、彼女は涙が止まらないまま静かに震えていた。先ほどのトリスターノとのやり取りが何度も頭をよぎる。
「私じゃダメなんだ…。ずっと子ども扱いされてる。」
心の中で繰り返されるその言葉に、エメリナの胸は苦しさでいっぱいだった。自分がどれほど彼を想っても、その気持ちが届かない現実が彼女を追い詰めていた。
「先輩にとって、私はただの後輩でしかない。」
エメリナの喉が詰まり、布団の中で小さく嗚咽を漏らした。トリスターノの優しさがつらい。その優しさが、自分にとって特別なものではなく、誰にでも向けられるものだと思うと、心の中が崩れていくようだった。
「ここにいる意味なんてない。」
そう呟いた瞬間、エメリナの心に一つの決意が芽生えた。その方法しか、この荒ぶって制御の効かない馬車みたいな自分の気持ちを整理する方法はないと思ったのだ。
「離れたら、きっと忘れられるはず…。先輩のことも、この気持ちも。」
涙を拭いながら、エメリナは心を決めた。
翌朝、エメリナは早くに目を覚ました。荷物は簡単にまとめられるものだけを鞄に詰め、部屋を後にする準備を整えた。最後に寮の廊下を歩きながら、トリスターノに別れを告げようと彼の部屋へ向かった。
ノックをして部屋に入ると、トリスターノはまだ眠そうな顔でベッドに座っていた。エメリナの姿を見ると、少し眉をひそめて声をかける。
「お前、朝早いな。何かあったのか?」
エメリナは微笑みを浮かべ、努めて明るい声を出そうとした。
「昨日はごめんなさい。私、少し言い過ぎました。」
「気にしてないよ。お前、いつも限界まで我慢しすぎなんだよ。」
そう言いながら、トリスターノは彼女の頭に手を置き、優しく撫でた。その手の温かさに、エメリナの胸が締め付けられる。
ベッドに乗り上げて、ぎゅっとトリスターノに抱き付く。トリスターノの笑い声が耳の近くで聞こえた。
「こら。むやみに抱き着くなよ」
「先輩、大好きです。」
その言葉を口にしながら、エメリナは必死に涙をこらえた。だが、トリスターノは軽く笑って返すだけだった。
「知ってるよ。」
いつもの何気ない言葉。それが、彼女にとってどれほど大きな意味を持っているか、彼にはわからない。
「…行ってきます。」
「どこか行くのか?」
「うん。ちょっと町に行ってくるね」
エメリナは短くそう告げると、トリスターノに背を向けて部屋を出て、その足で上官の執務室に向かった。
その日の夜、寮を出ると、エメリナの隣の部屋に住むブランカが待っていた。彼女はエメリナの決意を知っていたのか、少し寂しそうな顔をしていた。
「本当に行くのね。」
ブランカの言葉に、エメリナは頷く。
「うん。前々から異動の打診はされてたの。それを受け入れただけよ。」
ブランカは少し眉を寄せながらエメリナを見つめる。
「本当にそれでいいの?このまま何も言わなくて。」
エメリナは鞄の紐を握りしめ、微かに笑った。
「いいのよ。これで先輩も私に煩わされずに済むんじゃないかな。」
ブランカは目伏せて、何も言わずにいきなりエメリナを抱きしめた。
小さい頃、母親に抱きしめられた以外では、初めての抱擁だった。
「わかった。でも、忘れないで。私はいつでもエメリナの味方だから。」
エメリナは小さく頷き、ブランカの腕の中からそっと離れると、振り返ることなく駅へ向かった。
汽車に乗り込み、エメリナは窓から見える景色をぼんやりと眺めていた。見慣れた街並みが次第に遠ざかっていく。その中には、トリスターノとの思い出が詰まった場所も多くあった。
「これでよかったんだよね。」
自分に言い聞かせるように呟くが、胸の中の痛みは消えない。トリスターノとの距離を取れば、この気持ちを忘れられると思っていた。だが、思い出すのは彼の笑顔、優しい言葉、そしてあの温かい手の感触ばかりだった。
汽車が遠ざかる街をあとにし、エメリナは静かに涙を拭った。
エメリナが新しい街に来てから一年が経った。この小さな田舎町は穏やかで、以前の街のような喧騒はなく、エメリナにとって居心地の良い場所になっていた。寮は広場から少し離れた静かな場所にあり、彼女の部屋からは青々とした草原が見渡せた。
慣れない土地での日々の仕事は忙しかったが、エメリナは少しずつこの生活に慣れ始めていた。魔法を使った農業支援や住民の相談を受ける中で、自分の役割を見つけていたのだ。町の人々からの信頼も厚く、名前を呼ばれて声をかけられることが増えた。
「エメリナちゃん!この間のえんどう豆、二倍の速さで育ってるよ!」
市場でそう声をかけられると、彼女は明るい笑顔で応えた。
「もうすぐ花祭りだねえ」
世間話をしていた八百屋のおばさんが、ふと言った。
「エメリナちゃんは誰と踊るんだい?質屋のエリック?果物屋のロラン?それてもアーベントの領主の息子かな」
「いやだわ。女将さん。揶揄わないでよ」
エメリアは朗らかに笑って、手を振った。
この街でも花祭りは大きな行事であり、広場では人々が準備に忙しく動き回っていた。彼女が町を歩いていると、青年たちが彼女に声をかけてきた。
「ねぇ、エメリナちゃん。花祭り、一緒に踊らない?」
屈託のない笑顔を向けてくる青年は、花屋のアルフォンスだ。その言葉に、エメリナは一瞬驚き、そして申し訳なさそうに首を横に振った。
「ごめんなさい、花祭りは仕事があるから。」
花祭りの日は魔法使いとして町の治安維持に駆り出される。10歳で魔法師団に入ってから、ずっとずっとそうだった。
「そうか、残念だな。」
青年は肩をすくめて去っていったが、エメリナは心の中で小さく溜息をついた。自分にはもう花祭りで踊る資格はないように感じていた。
エメリナの心の中には、トリスターノへの想いがまだ微かに残っていた。だが、その気持ちは以前のような焦がれるようなものではなくなっていた。
「もう、前を向かないと。」
自分にそう言い聞かせるように、エメリナは新しい街での生活に没頭してきた。そして、もしトリスターノに再会することがあれば、昔のことはなかったことにして、先輩後輩として接しようと決めていた。
「あの頃は困らせてごめんなさい。」彼にそう伝え、今度こそ普通に接することができたらいい――エメリナはそう思っていた。きっと、あと一年もすれば完全にこの恋を終わらせられる。
いつか再会したときに、先輩の妹分として奥様に紹介されたって、きっと笑って「おめでとう」と言える。
魔法師団舎の研究室に帰ろうとしたエメリナは、廊下で隊長に呼び止められた。
「ちょうどよかった。エメリナ君、明日から一緒に見回りをする新しい魔法使いを紹介するよ。」
隊長の笑顔の向こうには、一人の男性が立っていた。その姿を見た瞬間、エメリナの心臓が跳ねる。
「久しぶりだな、エメリナ。」
トリスターノだった。
「トリスターノ先輩…。」
驚きのあまり声が震える。彼の姿を見た瞬間、胸の奥に押し込めていた感情が一気に押し寄せてきた。だが、それを必死に隠し、平静を装う。
「お久しぶりです。」
努めて冷静な声を出し、頭を下げた。隊長が横に避けると、トリスターノは少し目を細めて笑った。
「元気そうでよかった。」
その言葉に、エメリナは胸が締め付けられるような感覚を覚えたが、微笑みを浮かべて応じた。
「先輩もお元気そうでなによりです。」
「二人は同郷だそうだね。明日の花祭りは二人をペアにするから、お願いするよ」
「え」
エメリナの戸惑いなど見えていないかのように、隊長はトリスターノを引き連れて廊下を歩いて行った。
後には呆然としたエメリナだけが残されて、窓から入る夕陽だけがエメリナの心をわかっているかのように複雑な茜色の影を落としていた。
エメリナは壁にもたれて膝を抱え、部屋の中で心を落ち着けようとしていた。トリスターノとの再会は想像以上に心をかき乱し、胸の中にはざわざわとした感情が渦巻いている。
「普通に接するって決めたのに…。」
自分にそう言い聞かせた矢先、扉が軽くノックされた。
「エメリナ、俺だ。」
その声を聞いた瞬間、エメリナの心臓が大きく跳ねる。
「…なんの用ですか?」
声を震わせながら問い返すと、トリスターノが何の遠慮もなく扉を開けて入ってきた。
「お前の様子が気になってな。元気がない顔してたから、昔みたいに泣いてるんじゃないかと思ってさ。」
彼は軽く肩をすくめると、当然のようにベッドに腰を下ろした。
「勝手に入らないでください!しかも、ベッドに座らないで!」
エメリナは慌てて立ち上がり、顔を赤くして彼を非難した。
「レディのベッドよ!」
「レディねぇ…。」
トリスターノは口元を緩め、意地悪そうな微笑を浮かべる。
「昔はお前、俺がどれだけやめろと言っても、ベッドに平気で潜り込んでたくせに。」
その一言に、エメリナはさらに顔を赤く染めた。
「そ、それは子どもの頃の話です!」
「子どもの頃ね。」
トリスターノは少し目を細めると、じっくりと彼女を見つめた。その視線の変化にエメリナは気づき、無意識に後ずさる。
「雰囲気が変わったな。」
低く落ち着いた声が部屋に響いた。
「え…?」
彼女は戸惑いながらトリスターノを見返した。だが、彼の目はいつもの軽い雰囲気ではなく、どこか真剣で、彼女をじっと見つめている。
「子どもだと思ってたけど…ちゃんと大人の女性になっちゃうんだな。俺の見ていないうちに。」
その言葉に、エメリナの心臓がドキンと大きな音を立てた。
「先輩…何を言って…。」
彼の言葉の意味を考えるよりも先に、胸が熱くなり、動揺で息が詰まる。
トリスターノはゆっくりと手を伸ばした。その指先がエメリナの頬に触れようとした瞬間、彼の口から静かに言葉が漏れた。
「で、誰だ?」
「え?」
エメリナは混乱しながら聞き返す。
「お前に、ベッドに男を入れてはいけないと気づかせたのは、誰だ?」
トリスターノの表情には、意地悪さではなく、どこか探るような真剣な思いが宿っていた。
「それは…。」
エメリナは視線をそらし、唇を震わせた。返事ができない。答えるべきなのに、何かが喉の奥で引っかかる。
あなたですよ、なんて言えない。
トリスターノは一瞬そのまま彼女を見つめていたが、ふっと軽く笑うと手を引っ込めた。そして、立ち上がりながら軽い調子で言った。
「明日からよろしくな、相棒。」
彼はそのまま部屋を出ていった。残されたエメリナは、熱くなった顔を両手で覆い、崩れるようにベッドに腰を下ろした。
「トリスターノ先輩…どういうつもりなの…。」
エメリナは呟きながら、胸の鼓動が収まらないのを感じていた。
彼の言葉、彼の目、そしてあの触れる直前の手。それらがすべて、自分を一人の女性として見ているように感じられた。そして、そのことが信じられないほど嬉しくて、同時に怖かった。
彼の真剣な表情を思い出すたび、エメリナは心の中で葛藤していた。
一方で、トリスターノは廊下を歩きながら自分の手を握り締めていた。
「あのまま触れたら、俺はどうするつもりだったんだ…。」
自嘲するように小さく笑い、頭を振る。
「あいつ、もう子どもじゃないんだよな。」
細い体に不安そうな大きな瞳。
そこに勝気そうな表情を浮かべるせいで、どこか男の征服欲をそそる。
柔らかそうな首はすっと伸びて、髪を上げているせいでその白さが目についた。
「くそっ」
邪念を振り払うように頭を振る。
エメリナの姿に、彼は動揺を隠せなかった。
トリスターノは静かに寮の廊下を歩き続けた。
翌朝、花祭り当日。エメリナは仕事の準備を整えながら、前日の出来事を思い出していた。
「あれは……夢?」
雨の中での踊り、トリスターノの手、そしてあの言葉。思い返すたびに胸がドキドキして、顔が熱くなる。
「どうして、あんなふうに…。私、勘違いしちゃう。」
彼の言葉が本心なのか、それともただの気まぐれなのか。エメリナには分からなかった。
仕事の見回りで彼と顔を合わせる必要があるのが、憂鬱で仕方がなかった。
見回りが始まると、街は花で飾られ、屋台が立ち並び、子どもたちの笑い声があふれていた。エメリナとトリスターノは特に会話をすることなく、黙々と歩いていた。
「今日は平和だな。」
トリスターノがそう言ったが、エメリナは短く頷くだけ。どうしても気まずさが拭えない。
「おい、そんな顔すんな。」
ふいにトリスターノが立ち止まり、屋台に向かって歩き出した。そこで彼は、クレープを二つ注文した。
「ほら。」
彼は一つをエメリナに差し出す。
「え、仕事中ですよ。」
「たまにはいいだろ。真面目すぎるのも疲れるぞ。」
「昔、私には買い食いするなって言ったくせに。」
「花祭りは初代王と聖女が結ばれた日を祝う大人のお祭りだ。この日だけは大人も大胆に楽しんでいいんだよ。」
「なんですか。その理屈」
エメリナは渋々受け取り、一口かじる。甘い生クリームの味が広がり、思わず頬が緩んだ。
「うまいだろ?」
トリスターノが得意げに言うと、エメリナは小さく頷いた。
その瞬間、彼がふいに近づいてきた。
「じっとしてろ。」
そう言うと、トリスターノはエメリナの唇に付いたクリームを指で拭った。その動きに、エメリナは息が止まりそうになった。
「な、なんですか先輩!」
彼女は真っ赤になりながら飛び退く。
「クリームが付いてた」
「そんなの言ってくれれば自分で取れます!」
「そう言うなよ。淋しいだろ」
トリスターノは軽く笑いながら、少し低い声で続けた。
「男なんて、だいたいこうやって牙を隠してるもんだ。だから言っただろ。俺以外の男のベッドに入るなって。」
その言葉に、エメリナは言い返すこともできず、胸の鼓動だけが速くなっていくのを感じた。
だんだんと夕日が沈み、子どもたちの声が聞こえなくなる。花祭りの盛り上がりは最高潮に達していた。広場では音楽が鳴り響き、踊る人々で溢れ返っている。
エメリナとトリスターノが広場に到着すると、ふいに雨が降り始めた。人々は慌てて雨宿りをしようとするが、トリスターノは空を見上げて笑う。
「ちょっと待ってろ。」
彼はエメリナの手を取ると、広場の中心へと進んだ。
「先輩、何をするつもりですか?」
エメリナが戸惑う中、トリスターノは呪文を唱え始めた。すると、雨粒が次々と輝き始め、花びらの形に変わりながら降り注いだ。
「わぁ…!」
エメリナだけでなく、広場の全員がその光景に目を奪われた。色とりどりの花が夜空を彩り、祭りはさらに華やかな雰囲気に包まれた。
「魔法使いばんざーい!」
人々は歓声を上げ、広場中にその声が響き渡る。そして、再び音楽が鳴り始めると、町の人々は雨を花に変えた魔法使いを讃えながら踊り出した。
「この魔法って……」
「お前が作った魔法だよ。いい魔法だよな」
「どうして知っているの?」
「エメリナの研究論文は全部読んでたからな。さて、俺たちも踊ろうか。」
トリスターノはエメリナに手を差し出した。
「えっ…でも、仕事中…。」
エメリナは戸惑いながら後ずさる。だが、彼の真剣な目を見ていると、断ることができなかった。
「少しだけだ。いいだろ?」
その言葉に、小さく頷いたエメリナは、トリスターノの手を取った。
二人は音楽に合わせてゆっくりと踊り始めた。最初はぎこちなかったが、彼のリードに合わせるうちに、次第に自然な動きになっていく。
「こうやって踊ると、お前もちゃんと大人の女だな。」
トリスターノの低い声が耳元で響き、エメリナの心臓はさらに速くなった。
「先輩…。」
彼の言葉にどう答えたらいいのかわからず、ただ顔を伏せる。
「お前が好きだって、ずっと思ってた。」
トリスターノの言葉に、エメリナは目を見開いた。
「でも先輩はいつも私を……」
「あんな風に無防備すぎる奴に手なんて出せるか。もう少しそういうことを分かってからだと思うだろ」
「えーと……」
「なのにお前、勝手にいなくなって、勝手に大人になりやがって。」
曲が終わる。
魔法が解ける時間だ。
エメリナは少し怖くなった。この魔法が解けてしまったら、エメリナは生きていけないかもしれない。
エメリナはその恐怖の源から逃げようと腰を少し引いたが、それをトリスターノの手がとらえた。
「あの、先輩。」
「エメリナ」
トリスターノは微笑みながら、彼女の手をしっかりと握った。
「俺と結婚してくれ」
トリスターノがうやうやしく膝を折る。
黙ってなりゆきを見守っていた周囲が、わっと湧いた。
エメリナの胸には、彼の真剣な言葉が染み込むように響いた。
雨を花に変えた広場の中央で、喧騒の中、二人の心が静かに一つになっていく。