87、 好きな人に他愛ない言葉を
自室に心地よい風が吹き込んできた。こんな日になると、フェンサリル領を思い出してピクニックがしたくなる。
でも、今の私は眼前の活字と戦っている最中。我慢、我慢よ。
そうして私は再びマホガニーの机にかぶりついた。
ここは帝都郊外の丘の上。
私と退位したゲオルグが暮らしている小さな洋館だ。
大きさはフェンサリル領の居宅と同じくらい。二棟の建物が中央庭を囲んでおり、今の時期はスイセンの花が目を楽しませてくれる。
元皇帝と皇妃が住むには小さすぎると周囲からもさんざん言われているが、私たちにはこれくらいがちょうどいいのだ。
調度品は後宮のフライアが見繕ってくれた。
やはり彼女のセンスは抜群で、帰宅した家人がホッとするような、味のある色味と形の家具がそこここに並んでいる。
そろそろ侍女のグナーが茶菓子を持ってきてくれる時間だと気付いた私は、今度出版をする予定の『領地運営にみる領主のカリスマ性』の最終稿を整え、机の上に置く。
次いで椅子に座りながら大きく伸びをした。
『領地運営にみる領主のカリスマ性』は8歳のときに書き上げた論文なので、修正箇所が多い。難産だったけれど、領地運営に苦戦する地方貴族にぜひとも届けたい内容となった。
「よし、あとは参考文献リストを再確認して、出版社に持っていくだけね」
私が呟くとタイミング良く、外から馬のいななきが聞こえてきた。
ゲオルグが帰ってきたんだわ。
私は夫の帰宅が待ちきれずに家の外に飛び出した。
「ゲオルグ!」
「フリッカ、ただいま」
ワイシャツと丸眼鏡のラフな出で立ちのゲオルグが馬から降りてきた。
私と同じく外に出てきた使用人がゲオルグの馬を厩へと連れて行く。
ゲオルグの大きな手が私のピンク髪を撫でる。にんまりした。
皇帝服を着ていた夫も格好いいけど、脱いだ夫もとっても格好いい。
ようは何をしていても格好いいのだ。ふふふ。
「聞いて驚け。『偽りの創世神話』がまた版を重ねたそうだ」
「あら本当? これで何度目かしら」
「そのうち大陸中に君の本が出回るぞ。すごい快挙だ」
ゲオルグは私の助手として出版社との連絡を担っている。
今日は帝都に赴き、今後の論文出版のスケジュールを調整してきてくれたのだ。
とはいえ、新皇帝として即位したバルドルの相談役も兼ねているので、退位した後も相変わらず忙しい夫である。
「ねえ、『領地運営にみる領主のカリスマ性』が完成したのよ。査読をお願いできる?」
「査読はヴェーリルにお願いするんじゃなかったのか?」
ヴェーリルは平民となった現在も出版室の室長として精力的にこの国の言論出版を支えている。
時折論文の相談に乗ってもらうことがあり、ゲオルグの発言はそのことを指しているのだろう。
少しだけ拗ねているのがかわいらしかった。
けれど、ゲオルグに査読してもらわなければ話が進まない。
「助手さんに読んでもらわないと駄目に決まってるでしょう?」
「分かった分かった」
私は彼の肩口に頭を押し付け、少しだけごねた。ゲオルグが愛情いっぱいの笑顔を向けてくる。
「フリッカ」
「なあに?」
顎に彼の大きな手が添えられる。
目を閉じた。
唇に柔らかい感触がしたので、私はそれをめいっぱい堪能する。
「愛している」
「私もよ」
「フリッカが亡くなったあの日。君にもう一度愛を囁くことができるなんて思わなかった。俺はこの奇跡に一生感謝するだろう」
「奇跡じゃないわ、ゲオルグ。全ては理由があることなのよ」
「フリッカ?」
私は笑って、少しだけ首を傾けた。
「そうだ。あのね、お願いがあるの」
「なんだ?」
「また、眼鏡をプレゼントしてくれる? あなたとおそろいの眼鏡がいいわ。論文を書くときに使いたいの」
「ああ、いいよ。素敵な眼鏡をプレゼントしよう」
彼の顔に手を添えて、眼鏡を外す。
前世でたった一度だけかけた眼鏡。
今は彼のものになっているその眼鏡を、初めてかけてみた。
「ふふふ。どう? 似合う?」
眼鏡をかけながら、その場でくるりと回転してみる。
ちょっとぶりっ子な仕草だったかしら。
ゲオルグからの返事がないので彼を見上げると、私は目に入ってきた光景に一瞬言葉を失った。
何に驚いたかと言えば、正面にいる夫の表情である。
前世でバナヘイムの大学にいるときも。
プロポーズされた後も。
これまでの夫婦生活でも。
全く見たことがない彼の涙を見たものだから。
「最高に」
ゲオルグは笑いながら、静かに泣いていた。
「最高に綺麗だ、フリッカ」
これにて完結です。読んでいただきありがとうございました!
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