85、 歴史が変わった日
「ゲオルグ」
私は遠慮がちに声をかけた。
未だ恐怖が残るせいか、語尾が擦れてしまう。
現れた彼にすぐにでも駆け寄りたかったが、急に始まった立ち回りに言葉をかけることができなかったのだ。
ゲオルグは急ぎ足で私に近づいてくる。
槍を放り投げた彼に両腕で掻き抱かれた。たくましい胸に額を擦りつける。子供のような仕草になってしまったが、今はなりふり構っていられない。
「ゲオルグ!」
「フリッカ……!」
息苦しいまでのその腕の強さに涙する。
どこにいても、何度でも、必ず助けに来てくれる夫の体温を感じることができ、私は泣きながら何度もその名を呼んだ。
「ゲオルグ、ゲオルグ、来てくれたのね」
「遅くなってすまなかった、フリッカ。怖い思いをさせた」
「大丈夫よ、必ずあなたが来てくれると思っていたから」
「ソルバルドがこんな暴挙に出るとはな。俺の先読みが甘かったせいで君を危険な目に遭わせた」
どこまでも私の身を案じてくれる彼にギュッと腕を回す。
ゲオルグがチラリと視線をやる。その方向には、ソルバルド同様、帝国軍に身柄を拘束されたヴェーリルがいた。
ゲオルグが舌打ちをした。
「この男、フリッカの言葉を信じて泳がせたがやはり最後まで裏切っていたのか」
「違うのよ、ゲオルグ」
「フリッカ?」
「ヴェーリルは父親に弱みを握られていたの。あんな状況ではソルバルドに従うのも無理はないわ。どうか話だけでも聞いてやって」
エルム家兵士たちが帝国軍に倒され、周囲が騒然としているところでゲオルグにも数多の報告が上がってくる。
私はその合間を縫ってこの洋館の地下にある建屋の存在と、生まれてから何度も建屋の起動に挑戦させられたヴェーリルの苦悩を説明した。
別にヴェーリルのためではない。
事実を事実として伝えたいのだ。
同じ転生者である私でなければ、彼の苦しみを正確に理解できないだろうと思ったから。
ヴェーリルがじっとこちらを見ているのが伝わってくる。
だが、私は私の言葉でゲオルグに説明するのを止めようとは思わなかった。
それなりに言葉を尽くしたと思った頃、ゲオルグは大きくため息を吐いた。
そして一言。
「君もか。まさかヴェーリルの助命を乞う人間がもう一人いるとは思わなかったぞ」
「え?」
どういうこと?
私以外にもヴェーリルを助けたい人がいるってことかしら?
ゲオルグは開いたままの洋館のドアを指さす。
そこには、こんなところにいるはずがないと思っていた銀髪の男性。エテメン・二グルが立っていたのだ。
「二グル!?」
「お久しぶりです、皇妃殿下」
白衣の裾を翻した二グルは相変わらずの無表情で姿を現した。軽快な足取りでゲオルグの横に立つと、灰色の目で眼前にいるヴェーリルを見据えた。
「そして、久しぶりです。我が兄弟、エテメン・アンキ」
ヴェーリルはその言葉に目を見張る。
「私のことを覚えているのか」
「鉄の森の追加したソースコードで転生するタイミングを考えたら、あなたしかいません」
ヴェーリルは恐怖で顔を歪める。
彼は「殺すのか」と小さな声で呟いた。
ニブルヘイムに転生者であることがバレた。
粛清のために二グルがここに来たとなれば、私の身も危うい。
知らず体に緊張が走る。
二グルは静かな水面のような目で私とヴェーリルを見つめると、わずかな時間を置いて首を横に振った。
「殺しません」
彼は言った。
「ニブルヘイムは、あなたたちに未来を託すことにしました」
それは静かな一言だった。
だが、人類の歴史を覆す大きな意味を持つ一言だ。
私はゲオルグの腕を解き、二グルの胸を叩いた。
「ニブルヘイムの科学者たちがそう言ったのね」
「そうです」
「ニブルヘイムが大陸の人々を信じると決めたのね?」
「そうです。ニブルヘイムの科学者たちは、あなたたちと共に歩むと決めました」
「それはつまり、世界樹<ポンプ>の真実を大陸の人々に伝えてもいいということ?」
「そうです。あなたの論文出版を支持します」
私はその言葉の意味を噛みしめる。
そして二グルの発言を正確に理解する。
今、歴史は大きく動いたのだ。
「私とヴェーリル……欠陥<バグ>として生まれた転生者も、生きられるのね」
二グルは特に動じることもなく頷く。
おそらく二グルからニブルヘイムの決定を聞いたゲオルグが、私とヴェーリルの素性をあらかじめ伝えていたに違いない。
そして、ゲオルグやパパたちがここまで早くこの洋館にたどり着くことができたのは、二グルが建屋の場所を把握していて、ゲオルグたちに伝えたからだろう。
鉄の森の建屋を監視していた彼なら、この場所もすぐに分かるだろうから。
「二グルが私とヴェーリルを助けてくれたのね」
「あなたが死んだら困ります、フリッカ。私たちはあなたと、あなたの書いた論文によって考え、歩き、生きていく人類を見届けなければならないのですから」
彼の情報がなければ、ゲオルグたちはこんなに早くたどり着くことはできなかった。
まさか前世で私を殺したニブルヘイムに、今世では命を救われるなんてね……。
ドサリ、と音がした。
そちらの方向を向けば、ヴェーリルが膝をついているのが目に入った。
彼はどこか気が抜けたようなかすかな笑みを浮かべながら言葉を紡ぐ。
「本当に、運命を捻じ曲げてしまうなんて。君はなんて人なんだ、フリッカ」
次いでヴェーリルは床に手を付いた。安心したような、苦しみに苛まれるような複雑な声で続ける。
「対して自分の何と無力なことか。父の支配から逃れ、ニブルヘイムの束縛からも解放された今になって、私は処刑されるのか。何とも因果な人生だ」
「―――勝手に決めるな、ヴェーリル」
ゲオルグが被せる。
「はっ?」
「貴様の処分を決めるのは皇帝たる俺だ。誰が処刑だと言った?」
「いや、あの……陛下?」
「エルム家は取り潰しだ。貴様は平民として生きろ」
「生きろ、……生きろ、と言うのですか?」
呻くヴェーリルから視線を外したゲオルグは、再び私に向き合う。
「さあ、帰ろう。君の論文は人類を導く一歩になるんだ」
私は肩をすくめた。
なんだかくすぐったい言い方だ。
「別に前世から何も変わらないわ。私は事実を事実として伝えたい。誰かの意図の上に選択肢が隠されるのは駄目なだけよ」
「ああ、愛しい妻よ。君は変わらないな」
ゲオルグが私の肩に手を回す。その際、頬にキスをされた。
人前でイチャつくのはやめてって言ってるのに……!
でも、まあ、いいか。
丸眼鏡の奥は相変わらずの鋭い目つき。けれど私を見る眼差しは優しく。
クセッ毛で顎髭の生えたおじさんだけど、ストイックな立ち姿がすごく格好いい。
必ず私のもとに駆けつけてくれる、私だけの皇帝様。
結局、何をされても許してしまう。
「大好きよ、ゲオルグ」
私は少しだけ背伸びをして、彼の頬にキスを返した。




