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78、

 活版印刷所の建物は完成し、仮本の印刷も成功した。


 私の論文の改訂作業も終わりつつある。後は二グルの帰還を待ってその返事を聞き、元パパに最終チェックをしてもらえばいい。


 論文出版の実現はすぐそこに迫っている。


 今日、元パパは急遽バナヘイムの大使館に呼ばれたため、終日外出している。この部屋にいるのは椅子に座って足をプラプラさせている私と、銅像のように身動きせずにドア横に立っているバルドルだけである。


「ところでヴェーリルはまだ帰ってこないのかしら」


 出版室の天井を見ながら、私はぼやく。


 今回の過激派の暴動に巻き込まれたとは思いたくないけれど、何かあったのかしら。

 すぐに帰ってくると言っていたのに。


「パパに見てもらう前に、彼に査読をしてもらいたいのよね~」


 続けてぼやいていると、


「……呼んだかい?」


 頭上にぬっと現れたイケメンの顔。


「わっ」


 噂をすれば何とやら。

 少しくたびれた様子のヴェーリル本人があらわれた。


「ヴェーリル!? 帝都に帰っていたの?」

「帰ってきたばかりだよ……。まったく、帰国中に過激派と帝国軍の衝突が始まるんだからびっくりしたよね」


 疲れた様子で答えるヴェーリル。普段の爽やかさはどこかへ消え失せ、今はしおしおの男がそこにいるだけだ。


 ヴェーリルによると、オストベルク砦は一夜にして制圧されたらしい。


 要塞が過激派に奪われたとき、エルム公爵家当主ソルバルド氏から送った援軍要請が帝都に届いたのは、砦の制圧後であった。なんというスピード。


「今回は司令官のエッシェンバッハ大公が直々に采配を振るったらしいけど、進軍を決めたのも過激派をおびき出す策を講じたのも陛下なんだろう? 改めてその苛烈ぶりに感心してしまったよ。先帝派が勝てないわけだ」


 帝国軍は今も警戒のためにオストベルク砦に駐留しているが、今回の衝突によってエルム領の過激派はほとんどが倒されたと見ていいだろう。


 少数は未だ国内に残っているだろうが、先帝時代のような大規模な内乱を起こすきっかけは失ったと思う。


 そんな私見を述べたところ、ヴェーリルは苦笑で応じた。


「私も反間(※)のお役御免といったところかな。良かったのやら悪かったのやら」

「何言っているのよ、疑惑が晴れたのならよかったじゃない! お疲れ様」


 私は景気づけに、ヴェーリルの背中をバシンと叩いた。


「これで出版室の仕事に集中できるわね。さっそくだけど、あなたに査読をお願いしたいわ」

「査読? 論文が完成したのか?」

「そうなのよ。聞いてちょうだい。ヴェーリルがいない間に驚くことがたくさんあったの」


 私は早口でこれまでにあったことをまくし立てた。

 特にヤルンヴィット・50人会議とニブルヘイム人に会ったことについてはかなり口調に熱が入ってしまった。


 でも、鉄の森と世界の管理者双方に会えるなんて人生でそう体験できることでもないし、やっぱり思い出すと興奮しちゃうのよね。


 ヴェーリルも喜んでくれるのかと思ったが、彼は私の話を聞くうちに信じられないものを見るような表情になった。


「本当に、ニブルヘイム人に会えたのか?」

「銀髪で白衣を着てたし、光線銃デバイスを持っていたから本物だと思う。何より、話している内容がニブルヘイム人でしか知り得ない内容だったわ」

「ちなみに名前は何と言っていた?」

「エテメン・二グルと名乗っていたわ」

「二グル」


 ヴェーリルが俯いてしまった。


「どうしたの? まさか知り合いじゃないわよね?」


 そういえば、私はヴェーリルがどの時代のニブルヘイムから転生してきたのかを知らない。


 私は15年前と比較的最近なので、ゲオルグやパパといった同時代の人々と現世でも繋がっているけれど、例えばヴェーリルが100年前の転生者だったなら今の時代の人々と知り合いというのもおかしい気がする。


 聞いてから湧いた疑問に、ヴェーリルは見事に答えてくれた。


「兄弟だった」

「兄弟!」


 そんな偶然があるの!?


「といっても300人兄弟のうちの1人で、私は200年前に亡くなった。二グルが覚えているかは分からない」

「300人。200年前」


 ちょっと意味が分からない。聞く話が全て規格外だった。


「ニブルヘイムの科学者たちは記憶や遺伝子をつなげるために生殖体系も一般的な人間とは違う道を歩んだ。自分たちが死に絶えれば地盤の管理ができなくなるからね。中には私やフリッカのような記憶保持型の転生者もたくさんいる」


 確かに、10枚もの地盤を管理するためには記憶の引き継ぎが不可欠。

 ニブルヘイムはそれを寿命の延長や記憶保持型の転生者を生み出すことで解決したということかしら……。


 そしてヴェーリルはどこか悲しげに付け加える。


「ただし彼らは私たちとは違って、欠陥<バグ>ではないけどね。生まれるべくして生まれた、ニブルヘイムの管理を受けた記憶保持型だ。デバッグ対象にはならない」


 ダメだ。世界観が違いすぎる。

 頭ではかろうじて理解できても感情的な納得は難しい。


「そんなに気にする必要はない。兄弟とは言っても、現代の感覚からすると赤の他人みたいなものさ。それにしても……そうか、ニブルヘイムと接触したのか……」

「いや、もとはといえばあなたが提案したんじゃないの」

「君が本当に陛下を囮にするとは思わなかったんだよ」


 うっ。

 それを言われると私も胸が痛い。


「そんなふうに言わないでよ。まるで私がニブルヘイムと接触を持つことがいけないみたいに聞こえるわ。あんなに背中を押してくれたのに」


 半ば嫌味を込めてそう言うと、ヴェーリルはわずかに首を傾け、寂しそうに笑った。


「……そんなわけ、ないだろ」


 このとき、優しげな彼の碧眼にはちょっとだけ悔いのような気持ちが見え隠れしているようにも見えた。ヴェーリルの表情は判別が難しい。


 私はそんな彼に、印刷所から届いたばかりの『偽りの創世神話』の仮製本を差し出した。


 黄色い大陸地図を背景に、中央には世界樹が描かれている表紙絵。四方にはわずかに金の装飾を入れてある。


 パパと何回も相談して決めた本のデザインだった。


「査読してほしいの。お願いできる?」

「かたちに、なったんだね」


 ヴェーリルが本を受け取り、感慨深くつぶやく。


「やっぱり君はすごい。陛下の心を射止めるし、鉄の森とも邂逅した。さらにはニブルヘイムまで説得して、こうやって論文を形にした。印刷所も完成間近だから、あと少しでこれが世に出回るわけだ」

「私も信じられないわ」

「……フリッカには現実を変えられる力があるんだな。僕にはない、力が」



 このとき、私は平和大ボケ野郎になっている暇などなかったのだ。

 いつも後になって「あのとき気付いていればよかった」と後悔するばかり。


 ゲオルグは最後まで彼のことを信用していなかったのに。



「ねえ、フリッカ。その力に免じて私のお願いも実現してくれないかな?」


反間(※)……敵側に入り込んだスパイ。

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